花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

“映画館巡り 日活と宝塚劇場”

2017年03月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 昭和22年、新田町に800人収容の「ラジオ劇場」が出来た。当時は実演劇場だったが、昭和31年「四日市日活劇場」となり、日活映画専門の上映館として営業が続けられた。やがて映画産業も下降路線をたどり、日活は昭和46年11月ロマンポルノ路線を打ち出す。その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビルに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。現在もポルノ映画を上映しており、全国でも“ロッポニカ”と名の付く劇場が残っていることは、珍しいのではなかろうか。

昭和30年代、日活の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建つが、昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に変わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、昭和61年8月31日、「ローマの休日」と「陽の当たる場所」の上映で別れを告げた。

四日市松竹(後の宝塚劇場)

※  日活の前、宝塚との間は雨があたらない様に屋根があった。だからいつも暗く屋内といった感じがした。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」等の青春アクション映画を上映、心酔していた兄がよく出かけていた。昭和30年5月封切りの「緑はるかに」は浅丘ルリ子のデビュー作、カラー作品。姉と観に行った記憶があるのはテーマ曲を覚えているからだ(緑はるかな、地底の朝よ~)。14才の浅丘ルリ子が洞窟から空を眺めたシーンだけが記憶にある。ところが出かけた劇場は三重劇のような気がしてならない。日活の直営館になったのが昭和31年。「緑はるかに」はその前年公開だからその可能性もあるか。

 昭和38年、宝塚劇場でアーサー・ペン監督、パディ・デユークの“奇跡の人”の試写会に出かけた。昭和30年代“四日市日活”と“四日市松竹劇場”は、地主である相葉岩松氏が建てる。40年松竹が撤退。中部興業(東宝系)に移り、41年、三重劇場のスタッフに変わる。ということは松竹の間に試写会が行われたことになる。