大正11年の地図
関西鉄道四日市整備工場の西方、関西線のレールの更に西側、阿瀬知川のたもとに関西鉄道本社の洋館があった。明治40年同鉄道が国有化されるに及んで、後にこの建物が四日市鉄道本社となった。目と鼻の先に阿瀬知川という停留所のホームがありすみれが一杯咲いていた。
空襲直後の四日市駅周辺
写真⑧は、大正5年四日市鉄道(四日市~湯の山)が開通したときの祝賀列車が今、阿瀬知川の鉄橋上に止まってデモンストレーションした写真。
写真⑧
橋の南側に阿部材木屋という家があって運河からここまで上ってきた材木を木製のクレーンで釣り上げてはこの軽便車に積んで沿線各地に運搬していた。このレールと阿瀬知川駅は大正11年になると津と四日市を結ぶ伊勢鉄道がここに敷かれることとなり消滅するが、阿瀬知川駅のホームの跡の盛土は大正期の間も残っていたといわれる。
関西鉄道時施設の阿瀬知川橋梁
※ 阿瀬知川の北側から 橋梁をはさんで南側に転車台跡が見える。車庫跡らしい建物の右(訂正:左側でした 現在は運送屋さんのお店と住まいになっているようです)にある二階建ては、転車台が残っていた当時そのままであった。
鉄道ビクトリアル(H.20)より
遠くに朝日金属が建つ
※ 左奥(東南方向)に 港中学校があった。
小生、昭和33年港中学を卒業の若輩者ですが
引き続いて宜しくお願いします。
稚拙ブログ、みていただき ありがとうございます
生徒数増加で新たにできた三浜小学校へ浜田小から転校して行った友達と、昭和34年に港中学校で再会したことが印象に残っており、中部中学校へ行った友達のことは忘れてました。(ゴメン)
中部中学校へは、諏訪駅の線路で仕切られました。ほとんどが中部西小学校の生徒で、浜田からは僅かでした。
「知らん子ばっかりやで 行くのいやや」と渋る子もいました。
明治100年の頃に巷に流れていた「明治は遠くなりにけり」。
あと5年で昭和100年のいま、「昭和は遠くなりにけり」の感ひとしおです。
しかし 5年間は長い デス
私が知っている名前は“阿部材木店”。私が昌栄町にいた頃は、阿瀬知川の踏切は西側から近鉄線、そして国鉄の関西本線、その向こうに操車場に繋がる線路。阿部材木店の材木置き場は近鉄線のすぐ脇にありました。そして、阿部材木店の事務所は踏切を越えて、右に転車台を見ながら少し行った右側にありました。
この事務所の建物は、その後、医薬品卸のスズケン商店の店舗となり、さらに昭和34年の9月には、日活映画「電光石火の男」のロケに使われたのは懐かしい思い出です。しかし、その直後にあの忌まわしい伊勢湾台風が、、、、、。