花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

こうせつ市場 その六

2024年02月03日 | レモン色の町

またまたGGシニアさんがアップ 今回は、軽便鉄道のお話です。何も知らないわたくしメは、軽便鉄道のことをけいびん けいびん と何度も間違えております。けいべん と発声しますと、おなかが変になるのです。拙い動画を ご覧ください。

(17) 「昔、四日市一番街に駅が2つ!」 - YouTube

“こうせつ”にも興味を持たれた岡野繁松先生は、“旧四日市を語る 第五集”に、戦前の市場の様子を、“報徳改善会(昭和60年現在 三滝川・西浦両市場 を運営)”と“共栄発展会”の方々から資料を集め記載されています。

・大正9年に“こうせつ”の生みの親でもある飯田哲三が“三重郡農会”に赴任され三重郡農業技手に就く。(注:これは農協の前身ではないかと推測されます)

・大正10年、飯田哲三は、生活に苦しむ農家の自立救済のため、旧四日市警察署やお寺、家の軒下等で即売所を開設して、現金収入を得る形態を広めた。(四日市・富田・富洲原・菰野)

・大正11年、三滝川北側の河川敷や堤防で野菜・果物・玉子・お茶等を販売する朝市を開く。

・大正15年、諏訪神社境内において正月用品の大売出しが開かれ、盛況のうちに終わる。

・昭和7年9月、三滝川北詰(南川原町)に簡易施設を建て“三重郡農会経営農産物即売所”を『ニヒチ(ニシチ)』と呼ぶ2と7の付く日に開いた。

・昭和8年8月、慈善橋南詰(八幡町)に、5と10の付く日『ゴジュウ』の露天即売場である朝市が開かれた。(報徳改善会)朝日町、稲場町、富田、菰野でも開く。

・昭和9年9月21日、室戸台風による被害で南川原町販売所が倒壊する。

・昭和10年8月10日、三滝川北詰、朝日町、慈善橋南詰の即売所より、農家以外の商人の排除について陳情書が出されている。(市場の繁栄と共に、本来の目的である農家の販売所から離れてきている)

・昭和10年9月21日、上記を受けて、農家の生産品以外の販売が禁止となる。

・昭和12年、慈善橋即売所に、伊藤小左衛門の蚕室が内設された2階建ての“報徳館”と、四郷小学校の講堂を移築した“即売所”が建てられた。そこには二宮尊徳の銅像も立つ。

・昭和16年、4時や5時からの早朝販売や闇販売の取り締まりが行われる。

・昭和19年〜24年8月、戦争による“物資配給統制令”のため販売所は中断ののち閉鎖となる。

・昭和20年6月18日、四日市空襲で、慈善橋の報徳館と即売所は焼失。

地域への市場普及には飯田哲三氏が大きな功績を残されています。伊勢朝日町の名簿で、昭和13年から22年まで助役を務めてみえる同姓同名の方がみえますが、この方ではないかと推測できます。

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