お客さんと話が弾んだ。おばあさんは日永から『軌道』に乗り『すはまへ』駅で降りる。そこから徒歩で金谷商店横の路地を東北方向へ歩いた。行く先は高等女学校。現在の中央小学校と並んで建っていたことになる。
明治32年に設立された私立裁縫学校の校舎を移設し同34年開校した。本科4年制で、明治39年から専攻科ができた。昭和3年から一部5年制となり、戦時中にまた4年制に戻ったが、戦災で校舎は焼失した。写真は朝礼風景。椙山満監修「四日市の100年」より
軌道列車は鹿化川の坂を登り切れず、客は降りて車両を押したそうだ。当時四日市鉄道と三重軌道の諏訪駅は並んでいたかどうか聞いてみた。
この地図のように離れていたらしい。
昭和31年の短絡化で諏訪駅がなくなり、近鉄は国鉄四日市駅を通らなくなった。国鉄四日市駅が寂れてしまった原因だと話す。80年以上前の話である。