新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

漂流国家とするな

2007年08月26日 16時39分25秒 | 政治・経済

 明8月27日、安倍首相は、内閣改造と自民党役員人事を発表する。参議院議員選挙で歴史的な大敗をしながら、あえて続投を決意しただけに、重い荷を負っての再出発となる。

 通常の場合、支持率が低下している中での内閣改造は、失敗に終わるのだそうだ。しかし、この段階で失敗すれば、次は長期にわたる混迷が待っている。とくに国際的な信用失墜による損失ははかりしれない。もう失敗は許されない。国の運命にかかわるのだ。
 二階から目薬を差す難しさかもしれないが、そこそこの成功は収めてほしい。

「戦後レジームからの脱却」が、安倍内閣の政権理念だった。
 しかし、「年金問題」「政治とカネ」「閣僚の舌禍」などによって、内閣は泥まみれとなった。支持率は低迷し、そのうえ、首相の統治能力も疑われた。参院選での大敗は、避けようのない必然であった。
「戦後レジームからの脱却」どころの話ではなかった。
 
 安倍首相は「死に体」に近い。にもかかわらず、続投を選んだ。使命感からなのか、鈍感(首相に使う言葉ではない。申し訳ない)なのか。きっと両方だったのではなかろうか。私にとっては、どちらでもいい。自ら続投を選んだのなら、「戦後レジームからの脱却」に向かって、荒々しく再度の踏み出してを願いたい。私自身の気持ちとしては、是非とも「戦後」を清算してほしいと強く願っている。

 このままの日本では、猛獣ならず羊の餌食にすらなってしまいそう。行動も出来ず、意思表示も出来ない曖昧な漂流国家になってしまいそうだ。

 昭和20年8月15日以降、日本国民は国柄を忘れ、「申し訳なさ」イッパイの気持ちで日を送ってきた。東京裁判の正当性を疑いもせず、ひたすら詫びる気持ちの60年間であった。

 満州事変からシナ事変に拡大され、やがては大東亜戦争に進んで行った日本の罪だけを背負い、ひたすら恭順の気持ちで過ごしてきていた。
 大東亜戦争は自衛戦争だったという説もあった。しかも、マッカーサー元帥がアメリカ議会においてそのような証言をしていたにもかかわらず、おおかたの日本人は耳を貸そうともしない。「悪かったのは日本」と思い込んでいる。

 その「罪の意識」が根底にあるのだから、「誇りを持て」と言われても、何に誇りを感じればいいのか途方にくれる。サッカーの時しか、「日の丸」を振り、「日本!」を叫べない。
 このような日本人の精神構造も、「戦後レジーム」の結果なのだ。
 いや逆かもしれない。このような精神構造だったからこそ、「戦後レジーム」から脱却できなかったのだ。

 我々が押し戴いている歴史は、日本人に恭順を強いるための歴史だ。
 GHQの検閲を受け、「近隣条項」でチェックされた教科書によって歴史を学んだ。「南京虐殺」や「従軍慰安婦」などに関し、異論があることについても、十分に教えなければならない。

 領土問題についても然りだ。北方領土は誰のものか。竹島や尖閣諸島は誰のものか。国民はもっと多くを知りたいと思うべきだ。思わないところに、戦後教育の欠陥があった。それを許して来たのが、一つの「戦後レジーム」だ。

「日の丸」「君が代」がまだ解決できていない地域が残っている。これらも、脱却すべき「戦後レジーム」だと思う。

 政界、官界、業界のありかたも、脱却すべき「戦後レジーム」そのものだ。

「記者クラブ」のぬるま湯も、その一つかもしれない。
 左翼的に偏って政府を叩きさえすれば、読者や視聴者の支持が得られた時代は、もう終わりにしなければならない。
 番組の構成一つで、あるいはペンの滑り一つで、選挙民の投票行動は動く。マスメデイアの影響力は絶大だ。人気取りではなく、公平・公正な報道が真に望まれる時代になってきた。

 選挙で大勝をした民主党の責任は、極めて重大だ。戦術によって、衆院解散に追い込むことを考えているようだ。内政的にも外交的にも、大きな禍根を残しかねない。 

「テロ特措法」の反対も、国際社会に通用することなのかどうか。

 懸念事項が山積している中、安倍首相は続投を決意し、明日に内閣改造を行う。
 参議院が与野党逆転である限り、混乱は避けられまいが、バランスのとれた強力内閣で、強い足取りをもって邁進してほしい。

 安倍晋三さん。あなたが再び失敗をすれば、日本はしばらくの間、漂流する国家となります。
 国民の誇りも、国益も、お預けになります。
 

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遅すぎた処分

2007年08月25日 20時17分19秒 | 社会・世相

 8月24日、社保庁村瀬長官と厚労省辻事務次官の更迭人事が、やっと発表された。


 社保庁と厚労省は、多額の厚生年金と国民年金を流用し、グリーンピアなどの建設をはじめ、数々の無駄遣いをしていたにもかかわらず、責任問題を問われることはなかった。社保庁長官を民間出身者としただけで、歴代長官の責任は一切不問とし、厚労省幹部の責任追及もなかった。
 その上、年金記録漏れの問題が発覚し、社会不安を惹起せしめたこともあり、この度の人事は遅きに失したとしか思えない。

 
 これは厚労省や社保庁のみの問題ではなく、機敏に対処しなかった歴代首相の責任も、当然問われてしかるべきだ。
 あまりにもひどすぎて、国民は声もでなかった。

 
そのくせ、閣僚をはじめ国会議員の年金未納を暴き立て、国会を混乱させることまでしてのけた。
 責任問題がでないほど、政府も弱い尻を持っていたということだったのだろうか。

 
 村瀬長官は、はじめての民間出身者として期待され、苦労も多かったと思うが、ついには役人の渦に取り込まれ、統制力を発揮することができなかった。

 
 年金記録漏れ問題は、労働組合もからむ職員全体の腐敗体質よるものだった。にもかかわらず、民主党は、自治労幹部を比例区候補者に据え、トップ当選をさせた。
 民主党の奇怪な本質を知った思いである。
 数は力の論理だけか。
 それとも、やはり、労組頼みの政党なのだろうか。

 
 取りあえず、トップの更迭は発令された。引き続きの人事を行い、社保庁や厚労省の解体的な改革を望みたい。

 

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朝青龍騒動

2007年08月24日 08時16分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

 相撲協会の朝青龍騒動は、協会が抱えていた積年の問題が表面化したのではないか。

 「相撲」は競技だが、「大相撲」は単なる競技ではない。国技と称していいものかどうかには疑問があるが、勝ち負けを競うだけのものではあるまい。

 もっとも私がそのように思っているだけで、相撲協会がどのように認識しているのかはわからないが。

 聞きかじりの浅い知識だが、そもそもは神事もしくは奉納ではなかったのか。

 だから外国人には、なかなか馴染めない。神事もしくは奉納を、興行として行っているのが、6場所であり巡業ではなかろうか。

 形式を整え威儀を正し、力と技のぶつかり合いを奉納する。観客はそれに喝采を送る。
 形に不都合がなく、観客が納得して喜んでくれれば、多少の八百長は大目にみる。双方死力を尽くし、「らしく」みせてくれれば、観客に異存はないのだ。私は、八百長に異議を唱えない。他の競技と異なり、まだまだ興行なのだから、いいではないか。「スポーツだ!」などと肩に力を入れないほうがいい。
 7勝7敗力士の勝率がいいのだって、当たり前だと思っている。
 ただし、大きな金が動くのはまずいねえ。

 しかし、部屋制度であり、部屋の運営を考えれば、当然のことながら出世する力士を育てたい。鉦や太鼓で探した卵を、手塩にかけて育てれば、いずれは金を生んでくれる。
 新弟子捜しが熾烈になる。
 まして昨今は、中学校卒業の新弟子はなかなか集まらない。大卒が増えてくる。

 ついには外国にまで行って、新弟子を募ることになったのだろう。

 もし、「誰でもいいから、身体の大きいヤツ」を探し、「強くさえなれば、何でも叶うぞ」と言って外国人を探し廻っているのだとしたら、出発から間違っているのではなかろうか。
 私は外国人力士の急増を、苦々しく思っている。高見山、小錦、曙までが限度だった。

 「強ければいい」式の育て方をすれば、神事の流れを汲む大相撲の伝統から、どんどん離れて行くのは当然だ。

 新聞で読んだ話。
 空手チョップで一世を風靡した力道山は、関脇で引退してプロレスの世界に入った。
 初代若乃花は力道山の弟弟子だったそうだが、横綱になった後も、力道山のいる応接室には入らず、廊下で話をしたのだそうな。兄弟弟子のケジメなのだろう。

 ひるがえって、高砂部屋の状況はどうか。元大関だった高砂親方が、現役横綱朝青龍と相撲協会の間を行ったり来たり……。病人相手だからと言えば言えなくもないが、二人の間に、師匠と弟子の関係よりも、大関と横綱の階級意識があったのではないか。

 高砂親方の指導方針が、基本が間違っていたと思えて仕方がない。親と子、兄と弟、師匠と弟子などの伝統的な立ち位置を、教えていなかったフシがある。高砂親方自身にも、もともとそんな意識がなかったのかもしれない。
 金を生む大事な宝物としてだけ扱ったのではなかったろうか。

「疲労骨折」という仮病から始まったコメデイだった。なんとやらの「疾患」も、「ホントに本当?」と、疑いたくなる。
 しかし病人となれば扱いは厄介だ。
 モンゴルでは元首までが発言し始めた。

 もうこの段階では、「破門」にはできない。
 本人がどのように考えているのか知らないが、「廃業届け」は出さないのだろうから、「休業届け」でも出してもらって、帰ってもらったら如何ですか。
 もちろん高砂親方も引退です。
「大相撲の権威ある伝統を汚した」という理由です。

 大相撲は伝統の神事または奉納です。外国人には馴染めない。
 日本人だけでやったらどうですか。 

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「空気」について

2007年08月23日 06時38分06秒 | 社会・世相

 山本七平氏の著書に、「空気の研究」がある。
 日本では、ことを決するに際し、積み上げてきた論理の集約としての結論よりも、「その場の空気」が優先されると言っている。

 山本氏が言うまでもなく、この風潮は日本人の特性のようだ。

 会議の場においても、提案者がどのように論理的に説明しても、しっくり落ち着かず、変な「空気」が流れたりする。
「………、といった状況ですので、この問題については、A案で対処させていただきます」
 司会者や提案者が、強引に持って行こうとしても、
「しかしなあ………」と、トップが怪訝そうなそぶりを見せれば、
「そうですねえ………」と、ほかの誰かも、トップに同調の空気。
 そんな空気が流れだせば、A案はつぶされる。

「A案は○○××の理由で、好ましくない」などと言う必要はない。その場の空気がかもしだされれば、ことは決してしまう。
 言い替えれば、「空気」作りによって、時代の方向が定められることにもなるのだ。

 マスコミの本業は、事実を事実として報道することにあるのだが、時には、意図的に「空気」作りに精を出す。

 太平洋戦争時代にあっても、新聞各社は、国論を戦争遂行に向けるべく、大いに精をだした。
 かの平和主義の朝日新聞も、先導的立場で、戦意発揚のために活躍した。他社も同じようなものだ。
「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まむ」などの戦時標語は、朝日新聞や大成翼賛会などが主催して募集したものだ。

 国中の空気が、戦争へ戦争へと流れて行った。

 敗色濃厚となってすら、「一億特攻」「本土決戦」などと書き立て、「一億玉砕」を叫び続けていたのは、新聞各社だ。空気作りに大いに役に立っていた。

 そんなマスコミも、敗戦を迎えGHQの天下になれば、手のひらを返して、「平和憲法の死守」を歌いはじめる。時代の先駆者としての行動なのかもしれないが、煽動される国民は困惑する。報道の本質ははずすべきではない。

 先の参院選における「イジメ」の場合、マスコミ各社は意図的で執拗だった。公平も欠いていたように思う。
 あるべきマスコミの姿について、一考あっていいのではないか。 



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虚心であれ

2007年08月22日 07時00分00秒 | 身辺雑記

 18歳~20歳のころ、「長生きはできないかもなあ」と、考えたこともあった。
 
多感なころであり、母に似て胃弱で苦しんでもいたので、現実的ではない「死」というものに、若者らしい憬れの感情を持っていたのかもしれない。

 
 就職した次の年、母が胃ガンで死んだ。昭和33年の晩春だった。
 激痛に顔をゆがめている母を、父と二人で看取った。
 父は、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏………」と、幾度も繰り返して唱えながら、母の足をさすっていた。日頃は無宗教だった父の、母を送る姿だった。
 やがて安らかな表情となって、最後を迎えた。享年48歳の母であった。

  
 その夜の夕方まで、弟妹たち3人も病室にいた。
 母は私に、弟妹たち3人を家に帰すよう命じた。
「私は今夜死ぬかもしれない。そんな姿を見せたくないので、帰して頂戴」
 そんな言い方だった。

 しかしながら、そんな経緯はあったにしても、妹には納得できかねたらしく、ずっと後まで、事ある毎に私は非難された。今も納得はしていないはずだ。

 それからも、私は健康ではなかった。もともと、消化器が弱かった。ヘビースモーカーだったことも、原因の一つだったかもしれない。

 好きな女性ができて、28歳で結婚した。今の妻である。
 そうなれば、もはや「死」の影に怯えている場合ではなかった。

 にもかかわらず、結婚4ヶ月後、1ヶ月半の入院生活を送ることとなった。
 それ以来、私はなんやかやと病歴を重ね、数度の入退院を繰り返した。妻に頭が上がらない所以の一つ。

 
「長生きはできないかもなあ」
 絶えずそんな恐れを抱いていた。
 それでいて子供は2人。いい気なものだと言われそうだ。
 

 禁煙に成功したことが、「健康そうな自分」を見つけるキッカケとなったようだ。
 飲めなかった酒も、少しは飲めるようになった。
 大酒飲みと誤解されるまでに、酒量が増えた。

 それでもなお、
「60歳まで生きないと、責任は果たせないぞ」と、絶えず自分に言い聞かせていたほど、健康には自信がなかった。

 父も幾つかの大病をした。その度に生き返って、死んだのは享年72歳。

 私もいつの間にか72歳。父の年齢を越えた。
 こうなると欲が出てきた。「迷惑極小死」などと言い出している。いい傾向ではないぞ。
 もっともっと虚心でなければならない。
 自分の「死」に、条件をつけるなんて以ての外。

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