相撲協会の朝青龍騒動は、協会が抱えていた積年の問題が表面化したのではないか。
「相撲」は競技だが、「大相撲」は単なる競技ではない。国技と称していいものかどうかには疑問があるが、勝ち負けを競うだけのものではあるまい。
もっとも私がそのように思っているだけで、相撲協会がどのように認識しているのかはわからないが。
聞きかじりの浅い知識だが、そもそもは神事もしくは奉納ではなかったのか。
だから外国人には、なかなか馴染めない。神事もしくは奉納を、興行として行っているのが、6場所であり巡業ではなかろうか。
形式を整え威儀を正し、力と技のぶつかり合いを奉納する。観客はそれに喝采を送る。
形に不都合がなく、観客が納得して喜んでくれれば、多少の八百長は大目にみる。双方死力を尽くし、「らしく」みせてくれれば、観客に異存はないのだ。私は、八百長に異議を唱えない。他の競技と異なり、まだまだ興行なのだから、いいではないか。「スポーツだ!」などと肩に力を入れないほうがいい。
7勝7敗力士の勝率がいいのだって、当たり前だと思っている。
ただし、大きな金が動くのはまずいねえ。
しかし、部屋制度であり、部屋の運営を考えれば、当然のことながら出世する力士を育てたい。鉦や太鼓で探した卵を、手塩にかけて育てれば、いずれは金を生んでくれる。
新弟子捜しが熾烈になる。
まして昨今は、中学校卒業の新弟子はなかなか集まらない。大卒が増えてくる。
ついには外国にまで行って、新弟子を募ることになったのだろう。
もし、「誰でもいいから、身体の大きいヤツ」を探し、「強くさえなれば、何でも叶うぞ」と言って外国人を探し廻っているのだとしたら、出発から間違っているのではなかろうか。
私は外国人力士の急増を、苦々しく思っている。高見山、小錦、曙までが限度だった。
「強ければいい」式の育て方をすれば、神事の流れを汲む大相撲の伝統から、どんどん離れて行くのは当然だ。
新聞で読んだ話。
空手チョップで一世を風靡した力道山は、関脇で引退してプロレスの世界に入った。
初代若乃花は力道山の弟弟子だったそうだが、横綱になった後も、力道山のいる応接室には入らず、廊下で話をしたのだそうな。兄弟弟子のケジメなのだろう。
ひるがえって、高砂部屋の状況はどうか。元大関だった高砂親方が、現役横綱朝青龍と相撲協会の間を行ったり来たり……。病人相手だからと言えば言えなくもないが、二人の間に、師匠と弟子の関係よりも、大関と横綱の階級意識があったのではないか。
高砂親方の指導方針が、基本が間違っていたと思えて仕方がない。親と子、兄と弟、師匠と弟子などの伝統的な立ち位置を、教えていなかったフシがある。高砂親方自身にも、もともとそんな意識がなかったのかもしれない。
金を生む大事な宝物としてだけ扱ったのではなかったろうか。
「疲労骨折」という仮病から始まったコメデイだった。なんとやらの「疾患」も、「ホントに本当?」と、疑いたくなる。
しかし病人となれば扱いは厄介だ。
モンゴルでは元首までが発言し始めた。
もうこの段階では、「破門」にはできない。
本人がどのように考えているのか知らないが、「廃業届け」は出さないのだろうから、「休業届け」でも出してもらって、帰ってもらったら如何ですか。
もちろん高砂親方も引退です。
「大相撲の権威ある伝統を汚した」という理由です。
大相撲は伝統の神事または奉納です。外国人には馴染めない。
日本人だけでやったらどうですか。
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