新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

元軍国少年の心情

2007年08月05日 20時38分28秒 | 政治・経済

 昭和20年7月17日に、茨城県日立市がアメリカ海軍の艦砲射撃を受けた。
 その2日後の7月19日、私たちの磯原町(現在の茨城県北茨城市)が、アメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けた。
 このふたつの出来事によって、当時国民学校の5年生だった私は、大きく変わった。

 サイパン島がアメリカ軍に奪われて以来、B29による空襲は日常的となっていた。隣りの大津町では、4月12日に爆撃され、50人近い死亡者がでていた。
 また、
そのほかの近隣町村でも、艦載機の機銃掃射を受けた話がいくつもあった。私自身、学校の先生に引率されて海岸へ行き、「松の根っこ掘り」をしていたとき、艦載機が漁船らしい小舟を攻撃していたのを、松林の中から見ていた経験があった。
 それでもなお、私たち軍国少年は意気軒昂で、「本土決戦!」などと叫んでいたのだ。教師や親たちは、どんな思いでいたのだろうか。

 サイレンが「警戒警報」を告げると、学校の授業は中止となり、生徒たちは連れ立って家路を急ぐことと決まっていた。敵機が近づくにつれて、「警戒警報」が「空襲警報」に変わり、どこかの市町村が空襲された。敵機が去って行けば、警報はそれにつれて解除された。
 「警戒警報」や「空襲警報」は、生徒たちを授業から開放してくれた。大手を振って家へ帰れた。しかも近所の仲間と連れ立って帰るのだから、生徒たちにとって嬉しいことだったのだ。
 私の家は学校のすぐ隣りだった。川幅の狭い小川と道幅5メートルほどの道路に隔てられただけだった。裏門からわが家までの距離は、20~30メートルほどだった。
 仲間と連れ立って帰るまでもなかったのだが、私たちはあえて集まって帰ることにしていた。しかも直線的に帰るのではなく、まずは学校から300メートル離れていた神社を目指した。安全な神社の境内に集まり、そこで自習をするという名分があったのだ。しかし、自習などするはずもなく、遊んでいただけだった。
 記憶には定かでないが、親たちも承知していたように思う。近くの市町村で爆撃や機銃掃射に遭っていても、緊迫感の乏しい日常だったと記憶している。
 そんな雰囲気の日常でありながら、軍国少年たちは、「本土決戦!」を叫んでいたのだが、大人たちとどんな話をしていたのか、今は何も覚えていない。

 そんな空気を一変させたのが、7月17日の日立市艦砲射撃であった。「警戒警報」のサイレンが鳴り響けば、ただちに山のトンネルへ逃げ込んだ記憶が、鮮明に残っている。
 2日後の7月19日、住民の多くがトンネルへ逃げ込んでいた我が町が、B29爆撃機の空襲を受けた。
 幸いにもわが家は焼けずに済んだが、その夜から、狭いわが家に3世帯が同居することとなった。焼け出された知人家族が転がり込んできたのだ。そんな生活は、終戦の8月15日以降も、ずっと続いていた。

 終戦は夏休み中の出来事だったのだが、例年通りに9月1日から2学期が始まったのだったろうか。覚えてはいない。教科書を丹念に墨で塗りつぶしたことは、なんとなく記憶に残っている。

 軍国少年だった私も、間もなく73歳になる。国民学校時代の記憶も、すっかり薄らいできた。頼りない記憶しか残っていない。
 そんな私たちの世代でさえ、
満州事変から太平洋戦争へと縺れ込んで行った経緯など、「お勉強」でしか知り得なかった。しかも、その「お勉強」ですら、「社会科」の一部分としてお座なりにかじった程度のものなのだ。もともと深い「お勉強」をさせないために仕組まれたGHQ戦略が、「歴史」教科をなくし「社会科」の中に取り込んだのだから、深くとも浅くとも、内容は知れている。

 安倍首相は、「小泉改革」の副作用を緩和させながら、「戦後レジームからの脱却」をかかげ、政権政策を進めてきた。
 しかし、今度の参院選では、政策についての審判を受けるどころか、お粗末閣僚の不始末が選挙民の投票行動を左右し、自民党は「歴史的大敗」を喫した。もちろん、閣僚の任命権者は安倍首相であるのに、国民の心情を敏感に察知出来ず、罷免もできない状況に終始したことも、国民の支持を大きく損ねた。
 大敗後の安倍首相は、直ちに続投を表明し、これも大きな論議の的となった。二代目、三代目国会議員には、もはや国民の心情を察知する謙虚さも敏感さもないのだろうかと、やや暗然とした気持ちだ。
 しかし、安倍首相が続投の決意を固めたからには、思いとどまらせることはできないようだ。
 安倍晋三氏の歴史観や国家観には、私もほぼ同意であり、強く支持したいと思っていた。しかしながら、このごろ時折ブレが目立ち、懸念を感じていた。この際、どうせ一度ひっくり返ってから起きあがるのだから、ダメモト戦略で、思い切って政策を進めてほしい。右顧左眄は禁物。
「戦後レジームからの脱却」も大賛成だ。
 だが、是非その前に、あるいは同時に、「歴史教育のあり方」を見直しをしてほしい。安倍首相は、「歴史観は歴史家に委ねる」と言ってうまく逃げているが、そのような逃げの姿勢が、国にとってベストかどうか疑問だ。「両国の専門家の論議を待とう」ならギリギリの許容範囲かもしれない。
 いずれにしても、東京裁判史観から脱却できない国民に、国を守る気概を説くのは難しい。どこかの属国でいいと言うなら話は別だが……。
「満州事変やシナ事変は、確かに侵略だった」、と認めるための「お勉強」すらさせていないではないか。のもかかわらず、過去の侵略を村山争総理は詫びてしまった。どのような点を詫びたのか、国民は知っていない。まして、昭和16年12月8日の宣戦布告の意味を、「中国やアメリカの宣伝は宣伝として、日本としては、かくかくしかじかの理由もあった」という程度の主張はすべきではないか。「統治し易い日本作り」のための東京裁判史観が、正当性のあるものかどうか、国民に「お勉強」をさせる機会または制度を作ってほしい。

「南京虐殺」や「従軍慰安婦問題」など、解決も弁明もできずにいる日本は情けない。誤りの主張であっても、否定しなければ真実になる。「お勉強」をしない国民は、「学校で教わンなかった」で済ませているのだ。つまり、国民も怠惰を決め込んでいるのだから、始末に負えない。
 軍国少年たちも間もなく鬼籍入りだ。反日教育に熱心な国に囲まれ、「お勉強」をしない国民は、有りもしない「従軍慰安婦」問題を、歴史的事実として受け入れてしまいそうだ。
 どんな認識を持っていたのか知らないが、久間前防衛大臣の「原爆はしょうがなかった」発言は、万死に値する。「虐殺」の名の下に、多くの日本将兵を軍事法廷で死刑にしたアメリカの原爆なのだ。本来なら、「無差別大量殺戮」で抗議すべきなのに、それどころか逆に、「しょうがなかった」では、まったく話のほか。しかし実のところ、そのように思っている国民が沢山いるのだ。たとえいかなる大義名分があろうとも、「無差別大量殺戮」は、悪。
 
 危うく繋がった首なら、死んだ気になって、真の「戦後レジームからの脱却」をやってほしい。
 
リベラル派は、「平和「や「友好」のためなら、真の歴史も曲げてもいい、と思っている。しかし、真の「平和」や「友好」を求めるためには、信ずる真実を主張することから始めないと、国民から気概が失われ、漂流国家になってしまう。

 元軍国少年の心情である。

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