新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

軍国少年から野球少年

2007年08月12日 17時12分00秒 | 身辺雑記

 小学校の高学年から高校1年までの間、私は野球少年であった。

 国民学校(今の小学校)5年生の夏までは、チャキチャキの軍国少年であったが、昭和20年8月15日を境にして、そんな看板にはおさらばをさせられた。

 一学期が終わるまで、「鬼畜米英をやっつけるために、一億一心、火の玉になって、本土決戦をするのだ」、と言われ続け、もちろん私たちは、その気になっていた。

その前は、「よく勉強をして、予科練とか幼年学校へ入るんだ」、と言っていた。どんな役目の学校かも十分には分からなかったが、それが天皇陛下のためになると思っていたのだ。親から反対された記憶はない。そのような子供の気持ちを、親はどのように受け止めていたのだろうか。

 ところが、9月1日からは、本土決戦の話も、予科練の話も、見事に吹っ飛んだ。
 それどころか、いままで使っていた教科書のところどころを、墨で消すことになった。5年生では、その意味もほとんど理解できはしなかったと思う。

 国民学校5年生の授業が、9月1日から、にわかに民主教育に変わるはずはなかったろうが、その辺の記憶はまったくない。
 復員帰りの先生が入ってきたのは、少し後になってのことだったと思う。私たちの担任にはならなかったが、鉄拳が吹っ飛んでくる恐い先生だったようだ。

 三角ベースの野球が流行りだしたのは、新制中学に入ってからだったように思う。ゴムボールはなかったので、軍手をほぐすした糸で、固いボールを作った。バットは適当な棒っきれだ。広くない空き地でやるので、二塁なしの三角ベースしかできなかった。

 やがて、スポンジボールやグローブ、バットが入手できるようになり、軟式野球が盛んになっていった。集落単位やクラス単位にチームができて、いろいろな大会が催されるようになっていった。「六三制 野球ばかりが 上手くなり」と揶揄される時代だった。

 かつての軍国少年が、こぞって野球少年に変わっていったのだ。私の場合、体力から言っても技量から見ても、プロ野球の選手を夢見ることはなかった。しかし、三度のメシよりも野球が好きだった。

 高校に入学した年、クラス対抗を見ていた野球部のキャプテンから、入部を誘われたことがあった。もちろん心は動かされたが、すぐに断った。大成できないことは、自分がよく知っていた。

 その頃までが、私の野球少年時代であった。それ以降も野球はやっていたが、熱は大いに下がり、レク以外のなにものでもなくなっていた。

 

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