山本七平氏の著書に、「空気の研究」がある。
日本では、ことを決するに際し、積み上げてきた論理の集約としての結論よりも、「その場の空気」が優先されると言っている。
山本氏が言うまでもなく、この風潮は日本人の特性のようだ。
会議の場においても、提案者がどのように論理的に説明しても、しっくり落ち着かず、変な「空気」が流れたりする。
「………、といった状況ですので、この問題については、A案で対処させていただきます」
司会者や提案者が、強引に持って行こうとしても、
「しかしなあ………」と、トップが怪訝そうなそぶりを見せれば、
「そうですねえ………」と、ほかの誰かも、トップに同調の空気。
そんな空気が流れだせば、A案はつぶされる。
「A案は○○××の理由で、好ましくない」などと言う必要はない。その場の空気がかもしだされれば、ことは決してしまう。
言い替えれば、「空気」作りによって、時代の方向が定められることにもなるのだ。
マスコミの本業は、事実を事実として報道することにあるのだが、時には、意図的に「空気」作りに精を出す。
太平洋戦争時代にあっても、新聞各社は、国論を戦争遂行に向けるべく、大いに精をだした。
かの平和主義の朝日新聞も、先導的立場で、戦意発揚のために活躍した。他社も同じようなものだ。
「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まむ」などの戦時標語は、朝日新聞や大成翼賛会などが主催して募集したものだ。
国中の空気が、戦争へ戦争へと流れて行った。
敗色濃厚となってすら、「一億特攻」「本土決戦」などと書き立て、「一億玉砕」を叫び続けていたのは、新聞各社だ。空気作りに大いに役に立っていた。
そんなマスコミも、敗戦を迎えGHQの天下になれば、手のひらを返して、「平和憲法の死守」を歌いはじめる。時代の先駆者としての行動なのかもしれないが、煽動される国民は困惑する。報道の本質ははずすべきではない。
先の参院選における「イジメ」の場合、マスコミ各社は意図的で執拗だった。公平も欠いていたように思う。
あるべきマスコミの姿について、一考あっていいのではないか。