先の大戦に負けた年、私は国民学校(今の小学校)の5年生でした。
昭和20年8月15日までは、「一億一心火の玉だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」と叫んでおりました。
終戦間際の私たちは、気分の上で、アメリカ軍の本土上陸を前提で、日常を送っていました。
鹿島灘から上陸するのだとか、いや九州だろうとか、大人もいろいろと言っておりました。
日立市が艦砲射撃を受けたのは、たしか昭和20年7月17日でした。
我が町(茨城県多賀郡磯原町)が焼夷弾爆撃を受けたのは7月19日。
終戦の詔勅が放送されたのは、8月15日の正午でした。
その日から、世の中がひっくり返りました。
今までは正義だと思っていたことが悪に変わりました。
教科書も不都合な箇所を墨で塗りつぶしました。
「民主主義」を吹き込まれました。
これまでの正義は、「軍国主義」の誹りをうけ、捨て去りました。強制的に捨てさせられました。
「日本は悪いことをしていたんだぞ!」
そんな空気が、新聞やラジオではよく聞かされました。学校の先生が言っていたかどうか、もう記憶しておりません。
しかし私は、「本当に日本だけが悪かったのか?」と、疑問に思っておりました。
大人たちが、「悪かったのは日本だ!」と、言っていたのかどうか、そのあたりの記憶も曖昧です。
東京裁判が始まり、日本の過去が断罪され始まりました。その模様を、私はどのように受け止めていたのでしょうか。これも記憶は曖昧です。
しかし、死刑として断罪されたのですから、「やっぱり、日本は悪かったのだなあ」と、思ったのは当然だったでしょう。
社会人になる頃から、私も過去の日本を見直す気持ちになりました。大人になりかかったのでしょう。
左側勢力の情報が沢山入ってきました。違和感を感じました。余りにも日本を悪者に仕立てているように思いました。だから反発を感じました。
「日本人が、そんなに悪いことばっかりをするわけねーだろ!」
感情的なそんな反発です。(これが間違っていたことは、あとで知りました)
右側勢力の情報はありませんでした。あっても「極右活動家」の情報。聞く気にもなれませんでした。
以来、私なりに勉強をしました。言え自己流です。当然、自分の感情に合う方向に流れました。
その流れの延長線上に、今の私が立っています。
なぜ戦争になったのか。本当に日本だけが悪い国だったのか。
非の打ち所のない日本だったなどと思ってはおりません。日本だけが責められている現状に、納得がいかないだけです。
ずっとこの命題から離れられない私です。
今の日本の方向には納得が行かないからです。
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