写真は4月5日撮影の二輪草。
カミさんの名前は△子。まあ、結構可愛らしい名前だ。
友達には、△ちゃんと呼ばれていたらしく、今でもそのように電話が来たりする。
私の名前は■雄。これがまた平凡で、「ちゃん付け」で呼びにくいらしい。「■雄ちゃん」と呼んでくれたのは、二人だけ。カミさんはその中の一人ではない。
「■雄さん」と呼んでくれる人は、幾人かいる。カミさんの兄たち、叔父叔母、それに幼友達。
「ちゃん」と呼んでくれた一人は、社会人としてスタートしたときの職場の先輩女性。その当時50歳代だった。すでに故人だ。
もう一人いるが、それは言わない。誤解されても困る。カミさんと仲良しであることだけは明言するので、念のため。
結婚当初、カミさんにとって私は「あなた」だった。
カミさんに対する私の呼びかけは、「△子」、「おい」、「お前」など。偉そうにしていた。
子供が生まれてからは、「お母さん」であり「お父さん」であった。
お互いに呼び合うのも、そのようにした。それが極く自然だった。
孫が生まれてからは、自然に「おばあちゃん」となり「おじいちゃん」となった。
子供も孫もいないとき、「おばあちゃん」とか「おじいちゃん」と呼ぶのは不自然だ。
そんなとき、カミさんは私を「おとうさん」と呼んでいる。もはや「あなた」には戻らない。
私は少し違う。まさか「お母さん」とは呼べない。
従って、その場その場で呼び方が変わっている。
「あのさあ」と言ってみたりする。
あるいは、いきなり用件から入る。
「ほら、この前のあの話なんだけど・・・」
それで通じるのだから、夫婦とは便利な関係だ。
呼び名は変遷する。成長して、そしてやがて退歩する。成熟なのかもしれない。
もはや今 カミさん妻を 超えており ひよどり
川柳もどきの五七五。しかし実感ではある。
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