29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

らしくないけれども完成度が高く親しみやすい作品

2016-06-06 08:27:55 | 音盤ノート
Milton Nascimento "Milton" A&M, 1976.

  MPB。1970年のEMI/Odeon作とアルバムタイトルが同じであるため、収録一曲目のタイトル'Raça'がそのまま本作の通称となっている。"Minas"と"Geraes"の間に録音された米国製作盤で、Wayne ShorterとHerbie Hancockがいくつかの曲で参加している。収録曲は全9曲だが、うち4曲が"Clube Da Esquina"からの再録音となっている。

  ウェルプロデュースな、音密度の高い洗練されたアルバムで、とても躍動感がある。ジャズファンク的なサウンドにファルセットを多用する男性ボーカルがのるという趣向だが、メロウにもAORにもならず、ビートルズ的なポップ感がある。彼の作品の中ではもっとも親しみやすいアルバムだろう。だが、彼らしいかと言えばそうではない。彼のそしてミナス一派の真骨頂は、複雑だが素朴に聴こえるバンド演奏と優雅なオーケストレーションを伴って、ゆったりした曲を大らかにじっくり歌い上げるところにある。彼に期待するのは、単なるポップミュージックを肉声の力だけで崇高な音楽に変えてしまうマジックである。リズミカルな曲が多い本作では、ファルセットが引出の一つとして気軽に使われていて、ブラジル録音の諸作品で感じられる崇高な感覚に欠ける(そういう曲もあるのだが、アルバム全体の構成の中では箸休め的な曲に聴こえてしまう)。あの素朴かつ孤独を感じさせる独特の声が十分活かされていない気がするのだ。

  とはいえ全盛期の録音でありクオリティはとても高い。彼のキャリア中のどのアルバムにも似ていないということもあって、なかなか捨て難い魅力があるのも確かだ。個人的には初めて聴いたナシメント作品で、VerveからCD化された2000年に耳にした際、複雑な楽曲をポップに仕上げている点から僕はXTCに近いと感じた。輝くように明るいこの作品から入ってしまったせいで、他の作品を重苦しくダルいと感じてしまい、しばらく彼の魅力がわからなかった。しかし、本作に数曲収録されているスローな曲のほうに他の作品との連続性がある。まあこのアルバムではとにかくポップな曲を楽しめばいいのだが。

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岐阜で図書館員向け研修会講師を務めて

2016-06-04 21:30:51 | 図書館・情報学
  昨日、岐阜県図書館主催の県内図書館の研修会で講師を務めた。お題は「蔵書構成」。我らが焼肉図書館研究会の実証研究の紹介という発表内容をまず考えたが、依頼は『情報の評価とコレクション形成』(勉誠出版)の僕の担当部分を読んで決めたとのこと。あの本で29lib実証編を綴った大谷さんではなく、わざわざ僕に指名がきたわけだから、理論編でいくことにした。話のベースにしたのは前任校での紀要論文「図書館の公的供給:その理論的根拠」(CiNii)。あれを口頭でわかりやすく説明するのはとても難しい作業で、実際難しかったという感想をもらった。また明快な資料選択の方向性を与えたわけでもなく、聴講者にはどうにももどかしい話だったかもしれない。

  ただし、資料選択が図書館の目的と直結しており、現在その議論が空白状態になっている点については納得していただけたのではないかと思う。図書館関係者にはよく知られていることだが、1980年代から90年代は要求論の時代だった。「知る自由」を根拠として、利用者に図書請求権を認め、たとえ所蔵がなくても草の根を分けても資料を探し出すと主張された時代だった。それが今世紀になると、利用者に資料所蔵を請求する憲法上の権利は存在しないという認識がコンセンサスとなり、ただし所蔵された資料に対する図書館員の裁量は認めないという線にまで後退している(代表的なのは松井茂記)。図書館の目的を規定していたはずの権利アプローチが戦線縮小してしまい、資料選択は戦域から外れてしまったわけだ。ならばどういう目的で図書館に資金が与えらえるのか、またどういう原理で本を選ぶのか、これについて再び考えるべき時代となっている。

  雑談の中で知った話だが、リニュアルした岐阜市立中央図書館がマスメディアによく採りあげられる存在になってしまったがために、周囲の図書館がプレッシャーを受けるようになったとのこと。首長や地方議会の議員から、うちの図書館も何かやって目立てと言われるようになったそうだ。そのためには先立つものが必要なのだが…。
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米国公立図書館員に予算獲得のための行動を迫る。しかし…

2016-06-01 08:18:17 | 読書ノート
ポール・T.イエーガーほか『公立図書館・公共政策・政治プロセス:経済的・政治的な制約の時代にコミュニティに奉仕し、コミュニティを変化させる』川崎良孝訳, 京都図書館情報学研究会, 2016.

  米国公立図書館の政策論。『日本図書館情報学会誌』編集委員の立場の人間としては、学会誌の書評コーナーに回すべき書籍なのだが、少々メモしたくなったもので。ここで記すのはあくまで「読書ノート」ね。なお、著者はイエーガー(Jaeger)のほか、Ursula Goham、John Carlo Bertot、Lindsay C. Sarinの四名で、原書は2014年発行。

  内容は次のようなものだ。米国では公立図書館が役立っており・支持も高いのに、予算が減らされる傾向にある。その原因は公的支出を削減しようとする新自由主義のせいであり、図書館が有するリベラル的な価値観を嫌う保守主義のせいでもある。図書館の成果を数値で証明するのは難しいけれども、なんとかデータによる裏付けを得て、こうした風潮に対抗すべきだ。また図書館員の中立性へのこだわりが、結果的に公立図書館が政治の場で軽視される原因となっている。図書館員はもっとロビイングすべきである、特に資金を出してくれる地方自治体に対して。

  「闘え図書館員」というその意気やよし。しかし、その分析は正しいのだろうか? 疑問の一つが「公立図書館は公共財である」というその前提。公共財だから新自由主義者が図書館予算を削っているというのだが、これは違うだろう。新自由主義が緊縮財政志向であることは確かなことだが、そうであっても公共財を優先的に狙いうちするなんてことはないはずで、予算を削られるのは公共財としての要件を満たしていないからからだ。サミュエルソンの定義に従えば、非排除性が成立せず公立図書館は公共財ではない。必ずしも"public good"を経済学的な意味で使う必要はないとはいえ、ならば著者らがどう定義しているのかについて解説すべきだろう。説明なしには図書館関係者以外の人と問題を共有できない。図書館への公的支出を支持してくれそうな左派の経済学者もいるはずだから、彼らに理解されるような議論を展開すべきだった。

  次に「公立図書館はコミュニティ財である」という主張。「コミュニティ財」概念についても十分な説明がないが、文脈からは「図書館予算の大半は自治体から来る。だからコミュニティ重視を」という内容だと解釈する。しかし本書には、こうした方針が、米国の図書館界がこれまでめざしてきた普遍主義・個人主義的な方針と衝突する可能性についての考察がない。米国図書館協会は、自治体住民の反発を招こうとどのような情報でも図書館は提供すべきだという主張をしてきたはずだ。こうした態度が保守的な地域での図書館への不信を呼んでいると著者らは記しているが、ならば「知的自由」を掲げたまま住民の支持を得るなどという話に無理を感じないだろうか。もちろん「コミュニティ重視」というコンセプトが、非中立的な所蔵への同意──例えば、キリスト教原理主義の地域の図書館で進化論関連の書籍を所蔵しない──を直ちに導くわけではない。だが、住民の支持に頼ることは米国の図書館界のこれまでの方向性との調整を迫るものだ。これについての考察が無いままでは、「コミュニティ」概念が都合良く使われているだけのように見えてしまう。

  というわけで、議論の核となっているキーコンセプトが頑健ではない。図書館がどのような目的の政策なのかも整理されていない。中立性をかなぐり捨てて行動せよと言うのだから、もっと図書館関係者以外にも理解されるような説明をする必要がある。でないと図書館員のレントシーキングだと見なされるだろう。まあ、政治過程に焦点を合わせるのならば、力を持つことが重要であって、理論武装が完璧である必要はないというのも一理ある。全体としては、米国図書館の苦境がわかる(読んだ印象ではそんなに危機的という感じでもないようだ)し、米国図書館情報学研究者の考え方もわかるので、図書館関係者が読む分にはいいかもしれない。著者らにしてみれば「議論はあとにしてとりあえず図書館員はまとまって行動しよう」というとことなんだろう。
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