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ポリティカルコレクトネスをめぐる若手批評家の論考

2020-12-13 23:01:03 | 読書ノート
綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』平凡社, 2019.

  差別論およびポリティカルコレクトネス論。といっても、このテーマについて論理とデータでゴリゴリと切り分けて整理するようなタイプの本ではなくて、いくつかの概念的な道具立てを使って様々な角度からテーマを照射し、その広がりと深さを確認するというタイプの本である。著者は1988年生まれで肩書は「批評家」とのこと。

  冒頭で、シティズンシップとアイデンティティ・ポリティックスが対立概念として紹介され、前者の立場からの差別批判に使われたことでポリコレが拡大したと指摘される。「私はゲイではないが、社会の一体性を支持するが故にゲイ差別をするものを糾弾する。彼らもまた同じ市民だからだ」というロジックである。続く章で、米国におけるポリコレの出自と日本での解釈が紹介されるが、それによれば当初のポリコレはアイデンティティ・ポリティクスを「批判」する概念だったとのこと。差別された当事者しか使えなかったので支持が拡大しなかった。しかし、その後ポリコレはハラスメント概念を経由してシティズンシップ概念と結びつき、現在のような「生活のあらゆる面に登場する」概念になった、という。中盤は差別論になり、進化倫理学が参照されて差別が集団形成に合理的であったという話と、近年普及しつつある統治功利主義がシティズンシップを掘り崩すという議論が展開される。最後から二つめの章では、「意図」が基準として導入され、現状のポリコレによる有罪宣告は厳しすぎやしないか、と疑問が呈される。最後は、天皇もまた差別されている、と指摘されて終わる。

  以上。微妙な読後感ではあるが、なんとなく好ましい、という印象を持った。「微妙」というのは、議論をするうえでさまざまな概念道具が導入されるのだけれども、それらは結論にはあまり影響しておらず、最後の最後で出てきた意図基準でポリコレの評価が決まってしまうのはちょっとなあ、と感じたからである。進化倫理学とシティズンシップの話はあってもなくても結論に影響しない。このように、論文を読むような頭で読むと、冗長と感じることになる。とはいえ、この本は結論が重要なのではなく、投入された概念道具を通して差別とポリコレについて理解するというのが主目的なのだと考えれば、著者の博識さに教えられるところはある。

 「なんとなく好ましい」というのは、著者のバランス感覚はまっとうだと感じたからだ。差別はいけない、これには同意する。しかし、糾弾の激しさに息苦しさを感じるというのも確かで、著者はそこをきちんと考えようとしている。私事で恐縮だが、今年の夏に僕の勤務校である若い非常勤講師が差別発言をして問題になった。その後、その講師が謝罪し、学部長が声明を出すという形で一応幕が引かれたかたちにはなった。けれども、発言を問題視した団体は納得しておらず、交渉の場では終始、講師の解雇を訴えていたそうだ。失言したら一発アウトで解雇やむなしみたいな社会は、とてもキツいと思う。
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