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公的機関が人々の選択を誘導してよいか。特定のケースではYes。

2016-10-05 21:04:27 | 読書ノート
Cass R. Sunstein Why nudge? : The politics of libertarian paternalism Yale University Press, 2014.

  政治学。著者は『実践行動経済学』において「選択アーキテクチャの有効活用」を提唱していた。本書は、公的機関がそのような誘導的な政策を行うことは倫理的に正当か(自由を侵害するというタブーに触れるのではないか)、について検討したものである。2012年のイェール大のロースクールでの講演がもとになっているとのこと。邦訳はまだないみたい。

  まずは、ジョン・スチュアート・ミルを仮想敵として、彼の危害原則を採りあげる。他人に危害が及ぶケースを除いて、政府は人の自由を制限していはいけないという原則である。すなわち、ひとさまに迷惑をかけない限り、その人が食べ過ぎで肥満になっても喫煙者として早死にしても勝手であるということだ。しかし、と著者は問う。その結果はその行為の選択者が本当に望んだことなのか、と。確かに、その選択は彼らが短期的に望んだことである。しかし同時にまた、その人は短期的選択がもたらす結果を長期的に望んていない、ということがありうるという。

  短期的な意思決定は多くの場合ヒューリスティックに基づいており、自制心の無さや無知による失敗を引き起こすことがありうる。このようなケースのうち、特にリスクが明らかなケースについては公的機関は介入してもよいはずだ。それは、長期的利益に配慮した熟考プロセスの決定を支持するようなものだという。しかし、愚行としか見えない選択肢でも、法的に規制・禁止してしまうことは自由の侵害となりうる(ただし、規制・禁止の適用可能性を放棄するわけではない)。そうした選択肢を排除しない、情報公開、または教育や政府言論による説得やデフォルト・ルールによる誘導が望ましい、と。

  後半は予想される反論に対する再反論である。いろいろあるのだが、回答にはパターンがある。例えば、「政府もまた個人の選好を知っているわけではないので、そもそも誘導行為は合理的できないのではないか」という問いに対して、著者は一般論としては「イエス」と答える一方、個人の選好が明らかに不合理となるケースも特定できるという。例えば、運転中の携帯電話や、そもそも右車線や左車線を走るかどうかを運転手に任せることなどがそうだ。そのような明らかケースは政府が規制・調整・誘導に乗り出してもよいはずだという。

  また「政府誘導によって厚生を高めることは人民を幼児扱いすることではないか。彼らには施行錯誤させて学習経験を積ませるべきではないか」という問いに対しては、そもそも世間には私的にも公的にも選択アーキテクチャだらけで、誘導のない・完全で自由な意思決定など怪しいと答える。むしろそれらによって先進国住民は意思決定における認知的負荷を軽減しており、途上国住民にはそういうものがないために日常生活が高リスクなものとなっているのだとも加える。

  以下感想。著者はパターナリズム擁護論として論陣を張っているが、一部で例として挙げられている安全運転や環境保護は厳密には「政府のほうが個人の正しい選好を知っている」というケースとは言えない。これらは危害原則に抵触する可能性があるために政府が規制に乗り出しているものだろう。とはいえ、一応「自由」を尊重するものの、優先すべきは「厚生(welfare)」なのだとする著者の議論にはかなりの説得力があった。
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