ひろの東本西走!?

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也阿弥ホテル跡、左阿弥

2009-02-12 22:54:59 | まち歩き

長楽館を見学した後は更に5分ほど東側の坂道を上り、「也阿弥(弥阿弥)ホテル跡」と現在は料亭になっている「左阿弥」界隈のミニ探訪となりました。私はこちら方面に足を伸ばしたのは初めてですし、ネットで調べるまで「也阿弥」・「左阿弥」という名前を聞いたことすらありませんでした。長楽館のあたりは観光客で結構賑わっているのですが、ほんの5分ほど離れると実に静かな佇まいなのにも驚きましたね。

◎びんみんさんが、”京都で最初の円山公園”の記事の中で、長楽館や
  也阿弥ホテルについても書いておられます。

先生の解説によりますと、安養寺には6つの塔頭(たっちゅう:六阿弥と呼ばれたみたいです)が戸時代から料亭として利用され、その中で也阿弥(弥阿弥)は明治時代に入って、京都で初めての外国人向けの洋風のホテルとなったそうです(その後、火災で焼失)。それを真似たのが、奈良ホテル・菊水楼・・・etc.とのことで、これは凄い!

左阿弥(左阿彌)は現在も料亭として残っています。しかし、講座の中での見学は不可能ですので、古くからある庭園跡の様子を外から眺め、往事を偲びました。

今回の講座は長楽館(洋風+和風)と左阿弥(純和風?)の組み合わせがとても面白かったです。ただ、あまり時間がなくてあたりを歩き回ることができませんでしたが、日を改めて円山公園周辺を色々と探訪してみたいものです。

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********************* ウィキペディア(Wikipedia)』より **********************

塔頭(たっちゅう)とは、もともと禅寺において祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院のことをいう。それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも「塔頭」あるいは「塔院」と呼ぶようになった。「塔中」と書くこともある。


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4 コメント

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ひろさん、こんばんは。 (びんみん)
2009-02-13 02:12:18
ひろさん、こんばんは。
トラック・バックありがとうございます。
也阿弥、左阿弥というのは、塔頭がルーツだったのですね。
ホテルの名前にしては変わっているなあとは思いつつ。
やはり解説があると違う。
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こんばんは。 (mumei)
2009-02-13 22:25:22
こんばんは。
 またお邪魔します。長楽館は、素敵でしたね。円山公園に行くたびに気になっていた洋館だったので。3階の和室にはびっくりしました。ただ、残念なのはゆっくりお茶が飲めなったこと!!でした。
 今回の見学では、長楽館の後の「也阿弥ホテル」がなぜか興味津々でした。いまは跡しかないからかも知れませんが、気になってあれこれ探しているうち、「長崎大学付属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」のホテルから検索すると何枚か也阿弥ホテルの写真が見ることができましたよ。なかなか興味深いですよ。
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☆びんみんさんへ (ひろ009)
2009-02-13 22:34:33
☆びんみんさんへ

記事を書いて、とりあえずTBだけを送らせて頂きました。
またコメントを書きにいきます。
そうですね。やはり解説があると記憶にも残りますし、それを切り口に自分でも色々調べようかなという気にもなりますね。

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☆mumeiさんへ (ひろ009)
2009-02-13 22:57:20
☆mumeiさんへ

こんばんは。
長楽館は実に華麗で素晴らしかったです。
確かに最後はお茶の時間がほとんどなくなって慌ただしかったですね。

私も「也阿弥ホテル」についてはネットで色々検索して昔の写真を見つけましたが、長崎大学のデータベースのことは知りませんでした。なかなか充実していますね。

「也阿弥(弥阿弥)ホテル跡」と「左阿弥」のあたりはぜひ再訪したいものです。

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