民主主義精神がゼロの新報社説3



アマゾンで注文・購入できます。
アマゾン・ヒジャイ出版
本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします。

:掲示板
沖縄内なる民主主義19新発売中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
民主主義精神がゼロの新報社説3
戦後の沖縄は米軍が駐留し、米民政府が統治した。米軍が統治したのは戦争後の5年間であり、1951年からは米民政府が統治した。日本復帰まで米軍が統治というのは間違いである。米国は議会制民主主義国家である。政治を行うのは米大統領であり、法律を作り、予算を決めるのは上下院である。米軍は軍事を専門とするのであって行政は行わない。戦後の沖縄を整理するために一時的に沖縄を統治したのであり51年から復帰するまで統治したのは米軍ではなく米民政府である。

新報社説は
「米国の統治下で広大な米軍基地が築かれ、反共防衛の「要石」にされる。日本復帰後も米軍基地は維持され、全国の約7割を占める米軍専用施設(面積)を背負わされている。尖閣諸島の有事などに備え、自衛隊配備の強化も進んでいる。
 こう見ると、琉球併合後の沖縄は、日米の軍事的なとりでにされ続けている点では変わらない。基地被害に苦しむ住民の意思を無視し、抵抗を抑え付け、沖縄を国防の道具のように扱う様もそうだ。それはもはや植民地主義と言うほかない」
と述べている。
 私は読谷村に生まれ育った。私が通っていた古堅小中学校はトリイ通信基地の隣にあった。西側と南側は有刺鉄線で囲まれていた。ボールが有刺鉄線を超えてトリイ通信基地に入ることは日常茶飯事であり、米兵が居たら米兵に頼んでボールを返してもらったが、米兵が居ない時は有刺鉄線を超えて基地にはいった。中学校は読谷高校の近くに移転したが、古堅小学校は今も同じ場所にある。
 読谷飛行場ではパラシュート訓練が毎日のようにあった。大型軍用機から何百ものパラシュートが開いて降下する様子は映画のシーンのようであった。野原で米兵が空砲を打ちながら戦闘訓練をしているのを見たし、ススキなどの草が生い茂った迷路のような獣道の中で戦闘訓練をしているのを見たこともあった。
 読谷村は嘉手納弾薬庫、読谷飛行場、トリイ通信基地、残波岬のミサイル基地などがあり、ほとんどは米軍用地に取られ村民の住む場所は小さかった。新報社説の指摘している通り沖縄には広大な米軍基地が築かれていた。読谷村に生まれ育った私は体験でそのことが分かる。
 戦後生まれの私は戦前の様子が分からなかったので親に戦前のことを聞いた。父は小学校を卒業したが、母は小学校も満足に行けなかったという。「女は学問をしてもなんの役にも立たない」と祖父は母を学校を休ませて畑の手伝いをさせたそうである。母には二人の兄がいたそうだが子供の時に病気で死んだそうだ。父は三男であるが長男は子供の時に死んだ。戦前は生活が貧しく子供を病院に連れていくこともなく、幼い時に命を失うのが多かったことを両親の話を聞いて分かった。戦前の生活と戦後の米民政府統治の生活を比べればはるかに戦後の生活が豊かであると思った。

 戦前より貧しかったのが琉球王国時代である。琉球王国時代は生活が貧しいだけでなく、農民には自由がなく村外に移住することも許されなかった。明治になると自由に移動ができるようになり、本土の資本の参入によって砂糖産業も大きく発展した。人口も40万人から60万人に増えた。しかし、大正に入って不況になると砂糖は売れなくなり、農民は困窮した。沖縄で生きていけない下層の県民は本土に職を求めて出ていった。そのために沖縄の人口が60万人を超えることはなかった。貧しい戦前の沖縄を「芋と裸足の時代」と呼ぶ。
 戦後米軍基地が建設され米民政府が統治するようになると沖縄の人口は増加した。

人口推移
1920年 571,572人
1940年 574,57人
 戦前の沖縄は20年間60万人を超えることはなかった。
1945年 推計人口 326,625 人
沖縄戦の影響で人口は32万人まで減少したが、米軍が駐留してから5年後には、
1950年 698,827
と37万人も増えて70万人近くになった。増加した原因は日本が戦争に負けたので大陸や南方に移住していた人たちが帰ったからである。ただ、戦前なら60万人以上の人が沖縄で生活することはできなかった。荒廃した沖縄で70万人の人口になれるはずがない。戦前なら10万人は餓死してしまうから10万人以上の県民は本土や国外に移住したはずである。しかし、戦後の沖縄は餓死者が出るどころか戦前よりも生活は豊かになっていった。そして、人口はますます増えていった。
1955年 801,065人
1970年 945,111人
祖国復帰前年の1970年には94万人になったのである。戦前より35万人も増えた。奇跡的な人口増加である。もし、沖縄が戦前のようにさとうきび農業が中心であったら人口がこのように増加することはなかった。むしろ、人口は減っていったはずである。しかし、人口は増えた。
 新報社説は米国の軍事植民地主義によって沖縄に広く米軍基地が存在したと述べているが、新報社説では沖縄の人口増加は説明できない。植民地であったなら人口は減っていったはずである。ところが沖縄は人口が増加していった。なぜ増加したのか。戦前と戦後の違いは沖縄戦で荒廃していたことと米軍基地が存在したことである。戦前にはなかった米軍基地が戦後には存在した。米軍基地が戦後の人口を増加させた原因である。

人口が増加したということは基地経済が沖縄経済に大きく寄与したということである。実際に,基地建設工事に従事する労働者や,米軍の直接雇用者,基地内の施設で働く労働者は増え続け,1951 年には 5 万人に達した。そして、1952 年の対外収支における貿易外受取の中の米軍関係は 4570 万ドルに達していた。輸出はわずかに500 万ドルしかなかった。米軍基地がなければ貿易輸入ができるのは輸出と同じはわずか500万ドルくらいであり、沖縄の人々の生活は戦前よりも苦しかっただろう。戦後の沖縄を豊かにしたのは米軍基地の存在である。5万人の軍雇用員だけでなく、米兵や家族を相手にした商売で沖縄の収入は増えた。

米民政府は沖縄の産業復興にも尽力した。最初にやったのが砂糖産業の復興である。戦前の黒糖生産ではなく。ハワイから工場を移設して分蜜糖を生産した。そしてパイン工場もハワイから移設してパイナップル生産を始めた。砂糖産業、パイナップル産業によって沖縄の農業は復興したのである。それだけではない。戦前にはなかった新たな産業が次々と生まれて、産業界が復興した。米国は沖縄の産業復興にも尽力したのである。沖縄の産業復興に尽力した代表的な人物が米民政府のサムエル・C・オグレスビー氏である。


同氏は、1950年3月第二次大戦終焉の激戦地として廃墟化した沖縄に琉球列島米国民政府経済局次長として赴任し、1966年12月20日に55歳で逝去するまで、16余年にわたって沖縄の経済、特に諸工業復興の種子を撒き芽を育てた人物である。
オグレスビー氏が赴任した当時の沖縄の経済は、戦争で焼け野原になった事もあって、ほぼ何もない状態であった。オグレスビー氏は赴任早々に、製糖産業とパイナップル産業の発展に着手し、この2つの産業を「沖縄二大産業」と呼ばれるくらいまで成長させた。1953年(昭和28年)に琉球工業連合会(現・社団法人沖縄県工業連合会)が設立されると、会のアドバイザーとなり、産業界への融資や新しい機械の導入を進めて、沖縄の経済特に工業の振興に献身的に尽くした。彼が携わった産業には、製糖,味噌醤油,製油,ビール,セメント,鉄筋,合板,菓子類など数多くあり、沖縄の製造業の90%はオグレスビー氏の支援や指導によるものと言われている。

 赤マルソウの醤油が出た頃、タイス・オグレスビー夫人は毎日のように平和通りの店を巡り、「キッコウマンより赤マルソウの醤油がいい」と買っては宣伝して回られたという。
沖縄を愛し、沖縄の経済発展に全身全霊をかけたアメリカ人がサムエル・C・オグレスビーである。彼はウチナーンチュよりも何倍も何倍も沖縄を愛していた。

 彼は夫人とともに泊の国際墓地で眠っている。

オグレスビー氏は1966年12月20日に死去した。オグレスビー氏に関する本は彼の死後20年後の1986年に沖縄産業界が出版した「沖縄産業の恩人・故サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」だけのようである。
沖縄の学者。識者はオグレスビー氏に興味がないようである。沖縄の産業界の恩人であるなら沖縄の恩人でもある。彼に関する本が一冊もないのはとても残念である。

オグレスビー氏の死後2年に「顕彰墓碑」を建立した。除幕式の時の具志堅理事長あいさつ文を紹介する。

 私ども、沖縄の産業人は、故オクレスビー氏を「沖縄産業の恩人」と呼び慕い、かぎりない感謝と尊敬の念をささげております。
 1950年頃、戦後の荒廃から沖縄産業復興の策定が始まったとき、当時の合衆国琉球軍政府の方針は、食糧増産、黒糖工場で進むことであったようですが、これを沖縄側の要望である農業は甘藷作、そして大型分蜜工場の実現を主張して実現させました。また、石垣島に於ける収穫の6ケ月後に迫ったパイン工場新設を、当時の民政府に直接談判して、特別の民政府直接融資を成功させました。このように故オグレスビー氏、沖縄の二大機関産業である分蜜糖、パイン缶詰の基礎を築かれました。
 私事にわたって失礼ですが、私の企業である味噌醤油、職油、ビールは、オ氏の大きな後援によって今日の発展をみるに至りました。いつもいつもその愛情と功績を感謝している次第です。このようにしてお菓子、鉄筋、合板など沖縄の製造加工業の90%は、オ氏の直接間接の指導後援に負うところが大きいのではないでしょうか。故オグレスビー氏の米国民政府経済局に於ける16年間のお仕事は、そのまま沖縄産業発展の歴史と云っても過言ではないと思います。これもオ氏が日本語をよく話し、沖縄人よりも沖縄人の心になり切って民政府要路の方々を説得することができ、沖縄に適した産業政策を実現された功績によるものであります。
 去る、1964年、琉球連合会創立10周年事業として、胸像を制作、東急ホテルで盛大な贈呈式を行いました。
 1966年12月には、オ氏の名を永久に記念すべく沖縄財界有志の方々から浄財をいただき「オグレスビー記念産業開発基金」を設立(基金5、333ドル)し、第一回の奨学資金授与並び第一回工業功労者表彰を行い、活動を開始しております。そして今回は、沖縄財界人の浄財による「顕彰墓碑」の建立となった次第です。
 以上をもちまして、故オグレスビー氏のご功績を偲び、除幕式のご挨拶とします。
  1968年11月26日
         オグレスビー氏産業開発基金
             理事長 具志堅 宗精
具志堅宗精は、戦前の沖縄県の警察官で、宮古民政府の政治家。実業家として著名で、沖縄の地ビールとして名を馳せるオリオンビールの創業者である。沖縄県那覇市出身。大城鎌吉・宮城仁四郎・國場幸太郎などとともに「沖縄財界四天王」と称される。

新報社説は米軍基地があるのは日米の軍事植民地主義によると主張し、沖縄の人々は植民地支配されていたように述べているが、米民政府は沖縄の産業発展に力を尽くした。米国が植民地主義なら産業発展に尽力することはない。米国は民主主義国家である。米国が沖縄を植民地支配をするのはあり得ないことである。事実、米国は沖縄を植民地支配するのではなく、沖縄が経済発展し、民主主義社会になるのを目指していた。オグレスビー氏の存在がそのことを示している。

もし、米国が沖縄を軍事植民地にする目的があったなら、産業復興はさせないで、軍雇用員とか米兵を相手にする商売だけに限定し、米軍基地がなければ生活できない沖縄にしていたはずである。しかし、米国は基地経済以外の経済復興に取り組み発展させた。人口が驚異的に増加したのは基地経済だけでなく、民間経済も発展したからである。米民政府は米国の補助金や交付金に頼らない沖縄経済の自立を目指していた。
 米国はソ連、中国の拡大を阻止するために沖縄の米軍基地は半永久的に存続する積りでいたが、沖縄を植民地にする気はなかった。アメリカ流の民主主義を沖縄に浸透させ、独立国として政治・経済が自立していく沖縄を目指していたのが米国であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )