民主主義精神がゼロの新報社説1



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民主主義精神がゼロの新報社説1
2019年4月4日の琉球新報の社説「廃琉置県140年 植民地主義から脱却せよ」で、140年前の廃琉置県=琉球処分から今日まで沖縄は日米の植民地主義によって軍事的なとりでにされ続けていると述べ沖縄は植民地であり続けたと述べている。そして、沖縄の民意に沿って辺野古新基地建設を断念することが日本政府や本土の人々にとって沖縄への植民地主義と決別する第一歩になると主張している。新報社説ではっきりしたのは新報社説には民主主義思想のひとかけらもないことである。民主主義思想がないからこんな主張をするのである。
新報社説に民主主義思想がないことを説いていこう。

「廃琉置県140年 植民地主義から脱却せよ」の書き出しは、
「140年前の琉球の人々が今の沖縄を見たら何と言うだろうか。当時から連綿と続く植民地支配のにおいをかぎ取るに違いない」
である。
新報社説は、140年前の琉球の人々は明治政府の琉球処分を植民地支配と思い、今の沖縄も植民地支配されていると思うだろうというのである。140年前の琉球の人々が琉球処分を植民地支配と思っていたかはともかく、新報社説が琉球処分を植民地支配と思っているのは確実である。琉球処分を植民地支配と思っている新報社説には呆れてしまう。琉球処分の本質を知らない新報社説である。

新報社説は琉球処分される前の琉球王国は純粋な独立国であると思っているようであるが、そうではない。琉球王国はすでに独立国ではなかった。島津に支配され搾取されていた。そのことを新報社説は知らないようである。
島津が琉球に侵攻したのは琉球処分の270年前の1609年である。島津の琉球侵攻により琉球王国は270年間島津に支配されていたのである。

1609年に島津は琉球侵攻をした。侵攻した原因には島津の財政危機があった。
朝鮮出兵での島津軍の活躍は恩賞となる知行(各藩の藩士に対し年貢の徴収権を認めた土地)の不足をもたらしていただけでなく、藩内での相次ぐ叛乱と粛清によって分裂した三派閥の深刻な対立が島津家の求心力を著しく衰えさせていた。そこに追い打ちをかけるように、1605年、年貢の徴収が困難な、荒廃、かつ統制下にない領地「隠知行」の存在が発覚する。その数、全領地の二〇%にのぼる十一万八〇〇〇石であった。さらに江戸城普請のための運搬船三〇〇隻建造が幕府から命じられ、財政的に非常に追いつめられた。
このような中、島津家中で浮上したのが琉球侵攻であった。総勢3000人、80余艘の島津軍で最初に侵攻したのが琉球王国の支配下にあった奄美大島である。
奄美大島上陸
一六〇九年三月七日、奄美大島に上陸した島津軍であったがすでに琉球軍の守備隊の大半は撤退した後で、十二日までに奄美大島北部を制圧した。大和浜では百姓三〇〇〇が防御柵を設けて守備陣を敷いていたがこれを撃破して三月十六日までに奄美大島を完全に占領した。
徳之島攻防戦
徳之島では琉球軍一〇〇〇が展開して、激しい戦闘となった。島津軍は約二~三〇〇だったが大量の鉄炮で圧倒し、琉球軍は敗走した。島津軍は容赦なく追撃して多くの首級を挙げた。徳之島攻略後、三月二十七日までに沖永良部島までの奄美諸島はすべて島津軍の手に落ちた。

沖縄島の戦い
三月二十七日、沖縄島今帰仁沖に登場した島津軍に対し、琉球から講和使節として三司官の一人名護親方と那覇行政の長である江洲親雲上、禅僧菊隠宗意らが送られるが、島津軍の樺山はこれを拒否、名護親方が人質として捕らえられた。当初の島津軍の目的から考えれば、十分に目的が達成されたも同然だったから、講和交渉に入ってもいいタイミングだったが、拒否したのは首里、那覇を攻略して講和をより有利に進める意図があったからである。
今帰仁グスクの琉球軍が退却したとの報を受けて樺山・伊集院久元隊が向かい、島津軍はその道中の村々を放火、今帰仁グスクもこの時炎上し、さらに乱取り(略奪)が行われた。
三月二十九日、那覇港の閉鎖を確認した樺山は軍を二手にわけ一方を海路で那覇港へ、本隊は沖縄中部大湾からの上陸作戦を敢行、陸路で首里城へ向かわせた。
四月一日、尚寧王は謝名親方と豊見城親方盛続を司令官に約三〇〇〇の兵で那覇防衛を命じ、那覇港北岸に展開させるとともに、首里城には浦添親方の軍が入った。那覇港には両岸に砲台が築かれて両砲台間に鉄鎖を張って防衛線が敷かれた。午後二時、海路をとった島津艦隊が那覇港に突入するが、両砲台からの集中砲火で全艦撃沈している。「急処に愴忙し、船は各自連携り角いて礁に衝る。沈斃し及び殺さるるもの、勝げて紀す可からず(あわてふためいて狭い場所(港の出口)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった)」と「歴代宝案」は伝えている。
一方、陸路の島津軍本隊は次々と村々を焼き払い、百姓十二、三人を斬殺したという記録も残っているなど、周辺を次々破壊しながら進撃、尚寧王の出身地である浦添グスクを焼き払い、さらに「堂営寺等荒らすまじきこと」という島津軍の軍律に反して、浦添の寺院龍福寺を焼失させた。
四月一日、首里城まで迫った島津本隊はまずは慎重に偵察・情報収集を行うと決めたが、ここでも軍律が徹底されず、命令を無視して足軽衆が首里城に攻撃を開始、両軍想定外の展開になった。琉球軍は島津軍が海路で那覇を突いてくると想定して、主力を那覇に展開させていたから、陸路での別働隊の登場に驚き、急ぎ軍を首里城へ移動させる。その間、周囲を切り立った丘陵地帯に囲まれた天然の要害首里城の防衛線は平良川にかかる太平橋になる。太平橋を守備する琉球軍に島津軍は集中砲火を浴びせ、被弾した指揮官城間鎖子雲上盛増は突入してきた島津兵に首を切られた。この首切り行為に驚いた琉球兵が城内に撤退、島津軍が首里市街に雪崩れ込み、万事休すとなった。
四月二日、講和交渉が開始されるが、講和会議のさなかでも統制の取れない島津軍の濫行が続き、首里市街は各地で放火、略奪が相次ぎ、少なからぬ犠牲者とともに貴重な文書や宝物、建築物が多数失われることになった。一方、首里落城の報を受けた北谷グスクの守将佐敷筑登之興道が自害して殉じたほか、散発的に各地で島津への抵抗が行われている。陥落直前に首里城から脱出した浦添親方の子真大和、百千代、真々刈の浦添三兄弟は島津郡の追手と識名原で戦闘となり、島津軍の武将梅北照存坊兼次、小松彦九郎を討ち取ったあと全員戦死を遂げた。識名原の戦いは島津軍の指揮官クラスが戦死した唯一の戦いとなった。

四月四日、尚寧王は降伏し首里城を下城した。

戦後処理
樺山は尚寧王に対し、自ら聘礼使節として日本へ渡航、使節団を編成するように求めるとともに、琉球王府の抗戦派だった謝名親方と浦添親方らを薩摩に連行した。

尚寧王の江戸行き
島津軍によって強制的に尚寧王とその随行約百余名の使節団は鹿児島から駿府城・江戸城へ赴き臣従を表明することになった。八月、駿府城にて徳川家康と、九月、江戸城にて徳川秀忠とそれぞれ謁見し、進物を献上した。
尚寧王は一六一一年八月まで鹿児島に軟禁されることになる。

琉球検地と奄美諸島併合
秀忠によって琉球の仕置を命じられた島津氏は一六〇九年から一六一〇年にかけて琉球の検地を実施、奄美諸島を除いて総石高八万九〇八六石の知行が計上されるとともに、琉球王国全体に石高制が適用された。一六一〇年、奄美大島を管轄する大島代官(一六一三年大島奉行)が設置、一六一六年、徳之島・沖永良部島・与論島を統治する徳之島奉行が設置され、一六二三年の奄美諸島検地の完了と法令「置目之条々」の制定をもって奄美諸島は島津氏に併合された。

掟十五ヵ条
一六一一年九月十九日、尚寧王の帰国と琉球検地の完了をもって島津氏から琉球に統治方針「掟十五ヵ条」が通達、島津氏からの注文商品以外の中国での交易の禁止(第一条)、島津氏の許可なき商人の受け入れ禁止(第六条)、島津氏以外の諸大名との交易禁止(第十三条)など海外交易・渡航の制限を始めとして、琉球王府の人事や、年貢徴収、治安維持など全般に渡る法令が定められた。また、琉球王府首脳陣には島津氏への忠誠を誓う起請文への署名が求められ、唯一これを断固拒否した謝名親方が同日鹿児島で斬首された。

掟十五ヵ条によって統治された琉球王国は毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

武力で侵略され、統治され、搾取された琉球王国は植民地といっても過言ではないが、島津に統治されるようになっても琉球の民を直接支配するのは琉球王府であり士族であった。植民地同然でありながら表面は独立国に見えたのが島津に統治された琉球王国であった。
島津への莫大な献納をしなければならない琉球王府は財政的に困窮した。そのために琉球王府は一六三七年に先島(宮古・八重山)地方などへ厳しい重税を課した。それが人頭税である。人頭税の対象は15歳から50歳までとされた。先島に重い人頭税を課したのは先島は琉球王国の植民地だったからである。
元来の宮古・八重山の両先島は琉球に属さない大平山(タイビンサン)という連合独立国であった。
沖縄本島南部佐敷(さしき)の按司(あじ) 尚巴志は中山・北山・南山を滅ぼして三山を統一して琉球王国を設立した。そして、離島の島々にも支配を拡大していった。
琉球王国は代々宮古の首領一族である空広(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)に恭順するように迫った。空広は琉球王国の要求を受け入れて朝貢国となった。もし断れば琉球王国は武力で宮古を侵略することが分かっていたからだ。
琉球王国の要求を断ったのがオヤケアカハチが率いる八重山であった。一五〇〇年二月一三日に琉球王国は軍船大小100艘、兵士3,000人を八重山に送り込み、オヤケアカハチを討ち取った。琉球王国は宮古・八重山を支配したのである。
宮古・八重山は一五〇〇年に琉球王府に支配されて搾取されるようになったが、一〇〇年後の一六〇九年に薩摩藩に支配されて搾取されるようになった琉球王府は財政に困窮した。困窮を緩和する目的で琉球王府は宮古・八重山に人頭税という重税を課した。 

人頭税は、琉球処分が行われた後も、琉球士族への懐柔策として古い制度を尊重するという明治政府の方針(旧慣温存政策)のもとで続いたが、一八九三年(明治二六年)頃に廃止運動が興り、その指導者である中村十作(新潟県出身)、平良真牛ほか4人の農民代表が宮古島から東京に上り、帝国議会に陳情を行なった。それらの運動の結果、一六三七年から続いた人頭税(分頭税)制度は一九〇三年(明治三六年)に廃止された。明治政府の四民平等政策による琉球処分→廃藩置県によって人頭税が廃止されたのである。

琉球王国は士族が農民を搾取していた封建国家である。
 琉球王国の身分構成
身分        戸数      割合
王子        2戸     0・002%
按司        26戸    0・032%
親方(総地頭)   38戸    0・047%
脇地頭親方・親雲上 296戸   0・367%
一般士族      20、759戸25・79%
平民        59,326戸73・71% 
沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は貧しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。ソテツ地獄である。琉球王国の農民はソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を強いられた。

 新報社説は明治政府が琉球処分したことを沖縄を植民地にしたと述べているが、それは新報社説に民主主義の思想がないこと露呈している。民主主義の思想があるなら廃藩置県になる前の琉球に植民地のにおいをかぎ取り、廃藩置県こそが農民を解放したことを指摘しているはずである。しかし、新報社説は島津に統治されていた琉球王国に植民地のにおいかぎ取らない。それどころか四民平等の社会になって農民が解放された琉球処分に植民地のにおいをかぎ取るのである。

 明治政府の琉球処分に対して新報社説は、
「琉球の士族らは激しく抵抗する。抵抗運動は瞬く間に全県へ拡大するが、政府が派遣した松田道之処分官は集会の全面禁止を命じ、警察を使って運動を弾圧する。多くの役人を逮捕し、棒で殴るなどして拷問した」
と述べている。新報の社説は琉球の人々が植民地になることに激しく抵抗したように述べているが、抵抗したのは人々ではない。人々の25%の士族の一部である。73%の平民は抵抗しなかった。明治政府の琉球処分は士族の身分を廃して四民平等の社会をつくるのが目的であった。だから、封建的特権を剝奪された士族は激しく抵抗したのだ。本土では、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争などを通じて士族の特権の回復や征韓を主張して蜂起したが、ことごとく鎮圧された。

 一六〇九年の島津の琉球侵攻は掟十五ヵ条によって琉球王国を統治し、毎年薩摩藩に多くの産物を献納することを命じた。その代わり琉球王国はそのままであり、琉球王府の支配体制は維持された。
一八七九年の明治政府による琉球処分は、掟十五ヵ条と薩摩藩への献納を廃止すると同時に身分制度を廃止し琉球王府、士族を解体させて四民平等の社会にした。
新報社説は一六〇九年の島津の琉球王国統治は植民地と見ないで一八七九年の琉球処分を植民地化と見ている。つまり、新報社説のいう琉球とは琉球王府が支配する琉球のことであり士族のことである。島津に統治され、搾取されても琉球王府が無事であれば植民地ではなく、琉球王府が処分されて四民平等の沖縄になった瞬間に沖縄は植民地だというのである。新報社説は支配されている農民の側から沖縄を見ているのではなく支配している琉球王府の側から沖縄を見ているのである。

 「琉球処分」は明治政府が言ったことであり、明治政府は「琉球処分」をして琉球を沖縄県にした。明治政府のいう琉球とは琉球王府が支配している琉球王国のことである。琉球王府を処分して四民平等の沖縄にしたのが明治政府であった。
新報社説には琉球の人口の25%の支配階級の士族が琉球の人々に見えるのである。74%の平民は琉球の人々に見えないのだ。支配者である士族の味方になっている新報社説には民主主義の精神がないということである。民主主義の精神があるなら廃藩置県になる前の琉球王国に植民地のにおいをかぎ取っているはずである。しかし、新報社説は植民地のにおいかぎ取らない。それどころか四民平等の社会になって農民が解放された明治政府の琉球処分に植民地をかぎ取るのである。
 新報社説にとって琉球とは琉球国王の尚泰王を頂点とする士族階級のことである。国王や士族が琉球の人々であり、新報社説には農民や平民は琉球の人々の中に入っていない。

 民主主義の基本は人間の自由・平等であり身分差別してはいけないことである。士農工商を廃止し四民平等の国家をつくったのが明治政府である。明治政府による沖縄の身分制度を廃止し四民平等の社会にしたのが琉球処分である。ところが新報社説は琉球王国時代の氏族だけが人間であり農民は人間ではないと身分差別を容認し、四民平等にした琉球処分を否定しているのである。民主主義の精神がないことがはっきりした新報社説である。
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