沖縄タイムスは分裂主義者2




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目次

〇沖縄の狂った話1・・・琉球民族主義は民族差別主義だ
〇沖縄の狂った話2・・・米軍がいるから戦争に巻き込まれるは妄想

〇ブログ
「狼魔人日記」より・・・末松氏大敗の意味

〇彼女は慰安婦ではない 違法 少女売春婦だ2

〇「狼魔人日記」河野談話撤回の好機!

〇「狼魔人日記」と「沖縄に内なる民主主義はあるか」は島袋氏を応援したけれど

〇名護市民は「県外移設」が不可能であることを証明した

〇ブログ 
沖縄に内なる民主主義はあるか 沖縄の識者の腐敗
               「県民金で転ばぬ」というが

〇軍命令はなかったのに なぜ集団自決は起こったのか

〇特別寄稿・ドキュメント
  集団自決を追って 星雅彦(作家)

〇バーデスの五日間




裏表紙です。名護市街地は辺野古から10km離れています。しかも、間には山があります。
辺野古が安全であり、普天間基地がいかに危険であるかは写真を見れば一目瞭然です。
この事実を多くの人に知ってもらいたいと思って、このような裏表紙にしました。
買わなくてもいいから、裏表紙を見てほしい。
この三つの写真を見ても、辺野古移設に反対するのは「命どぅ宝」の精神が欠けている証拠です。

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沖縄タイムスは分裂主義者2
 五月二十七日の「守られた教科書3」の題名は「教育論掲げ国に異議」であるが、驚くことに、法を破るのを正論にしている。

「国は法律論、手続き論だけで、教育論が欠落している」。昨年十二月に開かれた県教育委員会の定例会。委員からは、竹富町教委を違法だと断じる国への批判が相次いだ。
           タイムス「守られた教科書3」

 変な理屈である。竹富町の教科書問題は教育の問題ではない。法律の問題である。竹富町は無償措置法に違反した。だから国は竹富町に無償措置法違反を是正するように要求しているだけである。教科書を「育鵬社版」にするようにという要求ではなく八重山地区協議会で採択した教科書を使用しろという要求をしている。
国が「育鵬社版」を使用するように要求するなら教育論になるが、特定の教科書を使用するように要求するのは国の教育介入であり、地方への政治介入になる。それを国はやっていけないしやっていない。国が地方の教育方針に口出しすることはできない。そんなことをしたら地方自治の精神に反する行為であり、それこそ国の不正な教育介入になる。
 国は育鵬社の教科書を使用しろと要求していない、八重山地区協議会で決めた教科書を使用するように要求しているのだ。

 国にはしっかりとした「教育論」がある。「教育論が欠落している」にはあきれてしまう。沖縄の教育界の低能ぶりに情けなくなる。
 国の教育論は検定に合格した教科書に反映している。
国が検定合格をした公民教科書は東京書籍、育鵬社二社だけではない、日本文教出版、教育出版、帝国書院、清水書院、日本書籍新社の教科書がある。検定に合格した七社の教科書すべてが国の教育論が反映されている。育鵬社の教科書も東京書籍の教科書も国の教育論が反映されているのだ。
国の教育論が反映されているのだから育鵬社の教科書を使用しても、また東京書籍の教科書を使用しても国はかまわない。育鵬社の教科書を拒否し東京書籍の使用にこだわった竹富町教委を支持している狭い教育論しか持っていない県教委、タイムスは国の懐の広い教育論を知らないのだ。
国は育鵬社を使用しても東京書籍を使用しでもいいという教育論である。しかし、竹富町教委、県教委、タイムスは、育鵬社はダメで東京書籍がいいという教育論である。竹富町教委、県教委、タイムスのような狭い世界の教育論は国の教育論が見えないのだ。国の教育論を理解していないのだ。だから、国には教育論がないと言うのである。

一時は一歩引いた姿勢にも見えた県教委は、直接の当事者になったこのころから次第に存在感を発揮していく。疑問点をまとめた質問書を国に突き付け、是正要求に反対の立場を打ち出した。
「県教委が教育論を持ち出したと知って『これは勝てる』と思った。県教委と足並みがそろわなければ、ここまで粘れなかった」と竹富町教委の慶田盛安三教育長は振り返る。
           タイムス「守られた教科書3」

国に勝つか負けるかよりも育鵬社の教科書を使用しないで、東京書籍の教科書を使い続けることが県教委、竹富町の絶対的な目的であった。県教委が教育論を持ち出したのは東京書籍を使い続ける口実であり、見せかけの正当性の主張であった。
竹富町の問題は地区協議会の決定を破った違法行為が問題であって教育論には関係がなかった。お門違いの教育論を持ち出されても国は相手にすることはできない。竹富町の違法行為を改めるように要請するしかなかった。
県教委が持ち出した教育論は単なる時間稼ぎであり、時間稼ぎすることが県教委、竹富町の「勝利」だったのだ。

都道府県と市町村にそれぞれ独立した教育委員会が置かれているのは、教育の専門家だけで教育の在り方を決めるよりも、地域住民の判断を幅広く取り入れた方が政治的中立性を確保でき、地域の移行を反映させられるという考え方による。
           タイムス「守られた教科書3」

この考えはタイムスや県教委ではなく国の考えである。それは国、県、市町村がそれぞれ政治分担をして、地方の自治権もしっかり守る仕組みである。ただ地域の判断も政治的な判断が含まれているのであり、地域住民の判断だから「政治的中立」であるとは言えない。むしろ、逆である。地域であればあるほど地域の政治判断が強くなっていく。竹富町がその典型である。
竹富町が育鵬社を拒否し東京書籍の公民を使用したのは政治イデオロギーに固執したからである。左系よりの政治イデオロギーが露骨に出たのが竹富町であり、竹富町の判断は「政治的中立」からほど遠い。イデオロギー丸出しの判断である。
それに竹富町は地域住民の判断を優先していない。左翼系教師の判断を優先させている。

 ただ実際にはこうした「民衆統治」は形骸化が長く指摘され、文科省―県教育委員会―市町村教育委員会という「上位下達」の行政系列が強い力を持つ。今回のように県教委が、「上部機関」の文科省に異議を唱えるのは異例のことだ。
            タイムス「守られた教科書3」

「民衆統治」とは勘違いもはなはだしい。国が決めること、県が決めること、市町村が決めることに分業化しているのであって、「民衆統治」というものはない。
文科省に異議を唱えるのは自由であり、禁じられているわけではない。どんどん文科省に異議を唱えるのになんの問題もない。しかし、文科省は法律を遵守した指導をしているのだから、県教委が異議を唱えることは滅多にない。
今回の県教委の異議は竹富町の違法行為を弁護するものであり、県教委の異議のほうが間違がっている。

行政機関である県教育長にとって、国から「違法状態」を放置していると断じられることは、あってはならない事態。違法確認訴訟を起こされる可能性もあり、法令を重視せざるを得ない事務方レベルでは「竹富に教科書変更を迫るのもやむなし」との雰囲気に傾きかけた時期もあった。
流れを引き戻したのは、沖縄国際大学の富川盛武氏ら民間の教育委員だ。
「生徒の学習環境を最優先すべきだ」「対話を重んじるのが教育の本質」と、法律論に集約しがちな土俵に「教育」という市民的な視点を持ち込んだ。
          タイムス「守られた教科書3」

市民的な視点とはなんだろう。
市民なら国が検定に合格させたのだから、育鵬社の教科書と東京書籍の教科書に大きな違いはないと考えるだろう。育鵬社版でも東京書籍版でも使用するのに支障はないと考えるのが普通の市民である。
普通の市民なら、違法行為をやめて国の指導に従い育鵬社の教科書を使用するのを支持するはずである。

違法行為をしているのにどうしてまともな教育論ができるのか。できるはずがない。教育論をする前に自分の身を律して違法行為を正すのが筋というものである。

「生徒の学習環境を最優先するべきだ」「対話を重んじるのが教育の本質」は正しい考えである。

竹富町が東京書籍版を育鵬社版に変更するのは生徒の学習環境を最優先にすることになる。現中学三年生はそのまま東京書籍版を使うのはやむを得ないが来年の新中学三年生は育鵬社版にしたほうが「生徒の学習環境を最優先する」ことになる。生徒にとって東京書籍版でも育鵬社版のどちらでも構わない。デメリットは生じない。竹富町が東京書籍版を使い、育鵬社版を使っている石垣市、与那国町と教科書が違うえば転校生に支障が生じる。転校生に支障が生じないためには竹富町は育鵬社版にするべきなのだ。

「対話を重んじるのが教育の本質」であるが、民主主義の原則である「多数決」を重んじるのも教育である。徹底して対話し、それでも全員賛成が得られない時は「多数決」で決める。その時には少数者も多数決に従う。法律を多数決で決め遵守する、これが民主主義であり、教育もまた民主主義について教えなければならないし、「多数決」を重んじなければならない。
「対話を重んじ」「多数決」を重んじるのが教育の本質である。富川氏の「教育の本質論」は「多数決」論が欠如した欠陥論である。

主張の対立がいつまでも続けば物事は解決しない。次第にいがみ合い憎しみ合い分裂していく。分裂を避け物事を解決するために「多数決」がある。「多数決」を無視したり、「多数決」を軽んじるのは分裂主義者である。
妥協するべきところは妥協し、「多数決」を尊重するところに民主主義の本質がある。妥協をしないで「多数決」に背を向ければ分裂がはびこるだけだ。

竹富町は八重山地区協議会の多数決を軽視し、守らなかった。だから、竹富町は八重山地区協議会から分裂したのである。竹富町教委は露骨な分裂主義者である。
竹富町教委の分裂主義を正当化しようとして富川教授は「対話を重んじるのが教育の本質」だといっている。分裂主義を正当化しようとしている富川教授もまた分裂主義者である。

「法律論に集約しがちな土俵に『教育』という市民的な視点を持ち込んだ」と分裂主義者の理論を「市民の視点」などと歪曲しているタイムスも分裂主義者である。

竹富町教委の分裂主義を正当化している政治家、学者、識者、ジャーナリスト、沖縄二紙は民主主義の原点である「多数決」を無視している。
民主主義の原点である「多数決」を無視する者はすべて分裂主義者である。

「判決が出たとしても、途中から教科書を変えさせることが子どもたちにとって望ましいのか。トータルで判断した」。下村博文文科相は、違法確認訴訟を見送る理由をこう説明した。教育的配慮を求めてきた県教委と町教委にとって〝満額回答”に近い内容だった。
          タイムス「守られた教科書3」

下村博文文科相は勘違いしている。例え、国が裁判に勝ったとしても分裂主義者竹富町が東京書籍版から育鵬社版に変更することは絶対にない。彼らは裁判の判決にビビるような連中ではない。「裁判の判決は間違っている。真の教育的判断ではない」などと竹富町を正当化し、東京書籍版を使い続けるだろう。

県教委と町教委にとって〝満額回答”かもしれないが、単独採決が始まれば転校生が困り、八重山地区の教師が困り、竹富町は教科書採択研究に苦労し、県教育庁は二つに分かれた八重山地区の教育指導に苦労し、生徒や市民には恨まれるだろう。分裂主義者竹富町、県教育庁にはイバラの道が待っている。
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