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米民政府統治時代の沖縄 平和 自由 発展の島だった

米民政府統治時代の沖縄 平和 自由 発展の島だった

私は戦争が終わって3年後に生まれた。米民政府統治時代に育ち青年になった。私の思想は米民政府統治時代の沖縄で培われた思想である。沖縄は自由であったという感触が私には強い。米軍に弾圧されたという実感はない。米国が議会制民主主義国家であることを米民政府統治の沖縄で私は実感した。沖縄の歴史で沖縄の庶民が初めて自由になったのが戦後の米民政府統治時代である。
米民政府統治時代に日本の小説や評論は勿論のこと西欧や米国の評論や文学を読み、音楽を聴き、映画を見て育った私である。日本、世界を自分なりに見ていたつもりである。

アメリカの民主主義を象徴しているのが「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーン大統領の有名な演説である。米国は大統領、議員を選挙で選出する議会制民主主義国家である。このことは学校の社会科で学習する。民主主義国家の米国が沖縄を統治したのだ。どのように統治していたのか。それは戦後の沖縄の文化、経済の発展と密接な関係がある。
戦後の沖縄はバス交通が発達した。琉球民謡「時代の流れ」の三番の歌詞である。
三、昔の那覇の行ち戻いん 歩つちる我たや行ちゃびたしが 今や居ちょて行ち戻い 昔の面影むるねらん
○昔の那覇は行き来(交通)も歩いて我々は行きましたが 今は居たまま(乗り物)で行き来して昔の面影はまったく無い。
戦前はバスはなく人々は歩いて移動していた。しかし、戦後の沖縄ではバス交通が発達した。3歳の私が三輪車を欲しがったらしい。母は那覇に行き買ってきたと言っていた。子供の三輪車も読谷、嘉手納などでは売ってなかったのだ。多くの人がバスで那覇に買い物に行った。那覇はバス交通の発展で栄えた。那覇以外にもコザ、浦添などの街が栄えていった。嘉手納もバス交通のお陰で発展した。
読谷村から出る嘉手納経由コザ行きのパスがあった。読谷、恩納、名護からコザに行く人は嘉手納で乗り換えをしなければならなかった。多くの人が嘉手納にやって来た。嘉手納はバス交通のお陰で栄えた。嘉手納には4つの映画館があり、三つのパチンコ店、二つの市場あって栄えていた。二階建ての沖縄芝居専門の劇場もあったし、ビリヤード場もあった。マイカー族が増え、バスに乗る人が少なくなるにつれて嘉手納はさびれていった。
戦後の沖縄は女性が自由になった。「時代の流れ」五番である。

五、昔女のたしなみや、髪の長さしでえびたる 今や昔とうち変て 生いとる髪んうしちみやい パーマネントしけえちじゅらち まーん変わらん鳩の巣
○昔の女のたしなみは髪の長さでしたが今は昔とすっかり変わって生えている髪をばっさり切ってパーマネントで縮らせている なんの変わらもない鳩の巣だ。

子供の頃、パーマ屋がどんどん増えていった。鳩の巣と皮肉っているが、女性にとっては髪を短くしてパーマにすることで映画で見るアメリカ女性のように解放感を味わったと思う。それにパーマ屋は男性禁止の女性だけの世界であり、女性が自由に話せる場所でもあっただろう。

六、踵高靴小や けえ履まい
ウンブイコーブイ 歩っちゅしや
すっとん変わらん 風吹き鳥
○かかとの高い靴(ハイヒール)を履いてこっくりこっくりしながら歩いているのはすこしも変わらない 風の中を飛んでいる鳥と

ハイヒールはアスファルトやコンクリートなど地面が固い場所で履くものである。地面がデコボコしていたり穴があるような道路ではよろよろ歩いてしまう。私は子供の頃、この歌のようによろよろ歩く女性を何度もみた。舗装された道路は一号線などバスなどが通る道路だけで、住宅の道路は砕石された石灰岩の道路だった。あちこち穴が開いていた。だから、ハイヒールで歩くと躓いて転びそうになった。それでもハイヒールを履いている女性は多かった。

七、タイトスカートけえ着やい ちんしやとがらち尻まぐらち まーん変わらん七面鳥

タイトスカート 腰の部分から裾まで、からだに密着した形のスカート。
○タイトスカートを着こんで、膝を尖らせてお尻を揺らしている どこも変わらない七面鳥と

パーマ、ハイヒール、タイトスカートをつけている女性を皮肉っているが、それが自由な新しい時代を暗示している歌である。
沖縄の民謡は流行歌であり、時代を反映した歌が生まれる。また、新しいタイプの歌手も生まれる。
照屋林助は民謡歌手てあるがエンターティメントが高く、漫談に近かった。三線でギターのように三本同時に鳴らしたり、逆に一本だけにして三本あるような演奏をした。別の民謡歌手には竿だけでなく.胴(どう)[チーガー]の部分まで押さえて超高音を出して唄う歌手もいた。三線を後ろに回したりして自由に弾く歌手が居た。太鼓をまるでジャズドラムのように自由に叩く少年も居た。
民謡の伝統を破って自由に歌っていたのが米民政府時代の沖縄である。民謡は盛んになり、沖縄芝居も盛んになっていった。

新しい民謡グループも生まれた。四人姉妹の少女の民謡グループが石川で誕生した。フォーシスターズである。フォーシスターズは次々とヒット曲を生み出して至った。
私は琉球民謡には興味はなかったがフォーシスターズのちんぬくじゅうしいは好きであった。


60年以上前の写真である。写真では琉球民謡を歌っているとは思わないだろう。でも、彼女たちはウチナーグチの民謡だけを歌っていた。
ちんぬくじゅうしいのバックは三線や太鼓ではなくベース、ドラム、キーボード、フルートなどの楽器であった。沖縄の楽器だけでなく、外国の楽器も使ったのが戦後の民謡の特徴である。
ユーチューブよりちんぬくじゅうしい
<ちんぬくじゅうしい>


 ちんぬくじゅうしいは10万枚の売り上げを記録したという。沖縄の10万枚は本土の100万万位に匹敵する。10万枚売れたことに正直驚いた。ちんぬくじゅうしいの詞は地味であるからそんなに売れたとは予想していなかった。

 じゅうしいとは雑炊のことである。雑炊は子供の頃によく食べた。沖縄のコメはアメリカから輸入するカリホルニア米か本土からの古米だった。カリホルニア米は不味かった。古米と混合して売っていた。
 ご飯には塩や醤油をかけたり、おかずを載せてから食べた。姉は最後にお汁をご飯にかけてから食べ終わっていた。沖縄の白米はおいしくなかったのだ。だからじゅうしいにして食べていた。よもぎを入れたじゅーしいをふうちばあじゅうしい、サツマイモの葉を入れたじゅうしいをかんだばあじゅうしいといった。ふたつのじゅうしいはよく食べた。
 ちんぬくじゅうしいは沖縄の農家の生活風景を唄ったものである。

ちんぬくじゅうしい
一、アンマーたむのー煙とんど煙しぬ煙さぬ涙そうそう ヨイシーヨイシー泣くなよ 今日の夕飯何やがて ちんちんちんぬくじゅーしーめー
○お母さん薪が煙たいよ 煙が煙たくて涙ぼろぼろ よしよし泣くなよ 今日の夕飯は何かなと言うと 里芋の雑炊

 私が子供の頃は薪でご飯を炊いていた。煙が台所に充満した時は歌のように煙くて涙を流した。薪を使っていた時は台所の床は土だった。薪は燃えると次第に短くなる。そのまま放っておくと燃えた薪が下に落ちた。板の床であると火事になってしまう。だから台所の床は土であった。薪をくべるのは子供の役目だった。
 薪から木炭になり煙は減った。それから石油コンロになった。石油コンロは台所の革命だった。煙は出ないし燃えた薪や木炭のように床に落ちることがなくなったのだ。それから台所の床は板になった。石油コンロの次に登場したのがガスコンロである。沖縄の台所はどんどん発展していった。ちんぬくじゅうしいが発売されたのはガスコンロが出始めた頃だろうか。薪や木炭の時代は終わっていた。ちんぬくじゅうしいは薪時代の「なつかしい時代」を歌っている。なつかしいといっても10年くらい前のことである。遠い昔のことではない。

二、主が畑から戻みそち シブイにチンクヮーチデークニ 粉ふち芋の煮とんど 豆腐臼の廻とんど クンクンクンスー七まかい
○お父様が畑からお戻りになられ冬瓜 かぼちゃ 島人参 粉ふき芋を煮ているよ 豆腐の臼が回ってるぞ クンスー=にがりを茶碗の七回

 ニガリは豆腐を液体から個体にするものである。海水にはニガリが入っているので沖縄では海水を入れた。本土の豆腐は淡泊であるが沖縄の豆腐には塩味がするのはそのせいである。

三、タンメーバーキや荒バーキ スルガー ニクブク サギゾーキ やふぁら米からうさぎりよ タンメー白髪ぬ美らむぬや トートー米寿 まぎ祝事
○おじいさんのザルは荒い目のザル シュロ皮 ワラ筵 天井に下がる竹籠 やわらかい米(お粥)を差し上げなさいよ おじいさんの白髪は美しいよ 米寿は大きな祝い事

 子供の頃、バーキをつくる大人が居た。竹を切り、竹を割り、内側の柔らかい箇所を削り、強い青い部分を編んでバーキをつくっていた。バーキづくりを見学した。

四、三良マブヤー落とちゃくと前田ぬハーメーがアートートゥ 花米一粒に酒一ちぶ三本ウコーとマース小トートゥ トートゥ アートートゥ
○三良の魂が落ちたので前田のおばあさんがアートートゥ(お祈りの言葉) 清め米一粒に酒一杯三本お線香とお塩トートゥトートゥアートートゥ

 転ぶと魂が地面に落ちると年寄りは信じていた。だから、転んだ地面から子供の胸に「マブヤーマブヤー」と言いながら魂を戻すしぐさを年寄りはやった。私も体験した。

 ちんぬくじゅうしいはなつかしい昔の沖縄の風景を描いていた。昔といっても10年ほど前の昔である。それほどに沖縄の発展は早かったのだ。ちんぬくじゅうしいが大ヒットしたのはなつかしい沖縄の風景を描いていたからだと思う。10万枚も売れたということは買える人が居たということである。それだけ沖縄の生活が豊かになった。

 アメリカ世は沖縄を自由にし、急激に文化、経済を発展させていったのである。
 終戦の頃は60万人以下であった人口は25年後祖国復帰には94万人に増加していた。沖縄の文化、経済が目覚ましく発展したから人口増加したのだ。
 文化、経済の急激な発展は沖縄に生まれ育った私が実感したことである。
 アメリカ世の時代は1ドルが360円であった。ドルを通貨にしている沖縄で力道山のプロレス団体はよく興行をやった。沖縄でドルを稼ぐためであった。大湾には小さな闘牛場があった。闘牛場にジャイアント馬場が見物に来たことがあった。でっかいジャイアント馬場に私たち子供は大騒ぎした。美空ひばりや島倉千代子などの大物歌手の公演もあった。

 戦前の沖縄は非常に貧しく、主食は芋で、靴はなく「芋と裸足」の時代だった。中央集権であり、男は兵士として徴集され戦場に行かなければならなかった。戦後は徴集されないし、主席は沖縄人であり、議員は選挙で選ばれた。戦後の沖縄は民主化も進んだのである。
 文化、経済、民主化の発展に取り残された階層があった。教職員と公務員である。戦前の日本は中央集権国家である。知事は中央政府が派遣する。中央政府の政治を支えているのが教員であり、公務員であった。だから、教員の待遇はよかった。しかし、米国は教員も他の労働者と同じとみなして優遇はしない。琉球政府の財政に合わせて教員の給料は決めていた。だから、戦前に比べて低かった。その当時の本土の教員の半分くらいしかなかった。
 本土復帰運動が教職、公務員を中心に展開された裏には給料の問題があったのだ。米民政府が統治している間は教員の給料が本土並みになる可能性はなかった。祖国復帰なしには本土並みの給料にならない。だから、沖縄の教員、公務員は復帰運動にまい進したのである。学校で沖縄は日本であると生徒に教え、共通語励行、君が斉唱、日の丸掲揚運動を展開したのである。

 私の子供時代は二重の言語世界があった。家庭ではウチナーグチ、学校では共通語である。祖母は共通語を全然話せなかったし、両親は聞くことはできたが話すことはできなかった。子供同士もウチナーグチだった。祖母は日本のことを大和と言い、本土の人は大和人と言っていた。私たちは内地人(ナイチャー)と言っていた。日常のウチナーグチの世界で日本のことを祖国という人は一人も居なかった。
 一日も早い祖国復帰を望んだのが教員と公務員であった。世間が祖国復帰に固執している様子はなかった。実は祖国復帰運動は祖国復帰にほとんど影響していない。ベトナム戦争の莫大な戦費による米国政府の財政危機が大きく影響した。
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余りにもお粗末な左系識者のウクライナ戦争論 だから左翼は衰退していく

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余りにもお粗末な左系識者のウクライナ戦争論 だから左翼は衰退していく
「ガマフヤー」代表の具志堅隆松氏は有事に県民140万人が避難するのは非現実的だ」とノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会主催の講演会で発言した。ガマフヤー具志堅は140万人の避難は不可能だから沖縄から移動するべきは県民ではなく米軍基地であると主張する。米軍が南西諸島に臨時の攻撃拠点を置くとの報道に「(南西諸島の米軍が)攻撃をすれば沖縄が反撃されるのは当然だ」というのである。
 南西諸島に攻撃拠点を置くという報道は見たことがない。米国が攻撃拠点を置くはずがない。中国が台湾を攻撃した時には中国軍を攻撃するだろう。米軍との戦争を避けているから中国は台湾を攻撃してこなかった。つまり米軍と有事になる国はない。成り立たない仮定を無理にでっち上げて米軍基地撤去を主張しているのがガマフヤー具志堅である。辺野古の埋立てに使用するのは砕石であるのに骨が埋まった土であると嘘をつき、辺野古の海には戦争で犠牲になった人の骨があると嘘もついた。嘘の沖縄をつくっているガマフヤー具志堅である。
沖縄国際大名誉教授の石原昌家氏は、ウクライナで成人男性の出国が制限されていることを批判する。ひめゆり学徒隊に動員された生徒たちが、学校側から脅されてやむなく動員されたこととウクライナ政府が出国を制限したこととは同じことであると述べ、戦争に国民を動員する権力の姿勢を批判する。石原教授はロシアのプーチン独裁からウクライナの民主主義を守るための戦争であることには関心がない。
県が去年調査した世論調査では、「米軍用施設の7割が沖縄に集中している状況について差別的だと思うか?」の問いに、
「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と答えた人は約66%であった。しかし、年代別で見ると「そう思う」と答えたのは60代・70代では50%以上だったのに対し、10代から30代では30%以下であった。
ロシアが侵攻したウクライナ戦争で米国はウクライナを守るために莫大な支援をしている。米国が民主主義の味方であることははっきりした。沖縄の米軍基地を容認する県民はもっと増えるだろう。今年の世論調査では「そう思わない」が50%を超えるだろう。左翼に騙される県民は減っていく。

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2011年に辺野古区がテント撤去を要求した新聞記事をブログに掲載していた

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2011年に辺野古区がテント撤去を要求した新聞記事をブログに掲載していた
2011年11月18日
名護市長は辺野古に目を向けろ





沖縄防衛局の田中局長は那覇市で開かれた九州防衛議員連盟連絡協議会の総会で、「地元中の地元は、自分たちの条件を認めれば容認すると決議している」と辺野古区の住民が辺野古移設に賛成していることをあげ、仲井間知事のいう「地元」は名護市を指していて、名護市長や市議会の過半数が反対しているのだと説明し、地元中の地元である辺野古は賛成しているのだと主張した。

 沖縄県からみれば地元は名護市になるが名護市からみれば地元は辺野古区である。名護市長は、国は地元の主張を無視していると国を非難するが、名護市長は名護市では地元になる辺野古区の主張を無視している。名護市長は、辺野古移設反対は名護市民の総意であると主張することによって辺野古移設賛成派や辺野古区の主張を消している。この政治手法は革新系政治家の得意とするものである。

 名護市長や沖教祖など革新系は国に向かって地方を無視していると主張するが、彼ら自身もまた地方無視に徹している。名護市長は辺野古区のことはほとんど口にしない。名護市長にとって辺野古区民は存在していないようである。

 辺野古区民は普天間基地の移設を本心で望んでいるのではない。 辺野古区民が本当に望んでいるのは辺野古の過疎化を食い止めることだ。過疎化を食い止め、辺野古が昔のように栄えることができるのであれば普天間基地の移設はなくてもいいのだ。
 今までの名護市長の発言には、辺野古のある東海岸地域の経済発展を目指す発言は一度もない。辺野古への普天間基地移転の反対を繰り返すだけである。名護市長は辺野古移転を食い止めるために渡米までしようとしている。渡米したところで日米の方針が変わることはない。渡米する暇があったら、その時間を辺野古区の経済復興の模索に当てるべきだ。

 名護市長が辺野古区の過疎化に真剣に取り組まないから、辺野古は普天間基地移設を条件つきで受け入れている。名護市長が目を向けるべきはアメリカではない。辺野古だ。
         「内なる民主主義」
 2011年の新聞に辺野古区は普天間飛行場の辺野古移設を容認していることと、テントを撤去しろと要求したことが掲載されたのである。しかし、このことは打ち消され、辺野古移設反対の主張が繰り返し記事になっていった。辺野古区民の気持ちは踏みにじられてきたのである。そして、普天間飛行場の移設であるのに新基地建設と言い、あたかも辺野古に新しい米軍基地できるようにイメージさせ、埋め立てで海は汚染され、ジュゴンや魚が棲めなくなる、サンゴが死滅するなどと嘘を真実であるようにでっち上げて県民に宣伝していき、自民党県連までが辺野古移設に反対した。彼らの嘘の宣伝は辺野古埋め立て反対を70%以上にしたのである。

 残念ながら、壊疽が大出を振っているのが沖縄である。。
 共産党、左翼が徹血揚げた紙の上の沖縄を一日も早く真実の炎で焼いて焼失させるべきである。
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県民投票を推進したのに国民投票に反対する共産党は民主主義ではない

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県民投票を推進したのに国民投票に反対する共産党は民主主義ではない

 共産党は辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票に賛成し、実現に向けて積極的に取り組んだ。
県民投票では70%以上が埋め立て反対票だった。埋め立て反対が民意であると共産党は主張した。県民投票の後も辺野古埋め立てを進めることに、小池書記局長は、
「民意を踏みにじりサンゴや自然環境を破壊する民主主義に反する現場を目の当たりにして怒りが込み上げた」と政府を批判した。共産党は県民投票こそが民意であり、政府は民意に従うべきだと自民党政府を批判している。
 県民投票が県の民意であるなら国民投票は国民の民意である。県民投票を推進した共産党なのだから国民の民意を重視して国民投票を推進する立場にあるはずだ。ところが共産党は国民投票に反対している。
国民投票法改正案に共産党だけが反対した。共産党の反対理由は「憲法改正につながる法改正は認められない」である。憲法改正するか否かを決めるのは国民投票である国民が憲法改正を決定するのだ。国民の民意のみが憲法改正する。法改正は国民投票のやり方を検討するものであって、憲法改正につながるものではない。

政府、国会は憲法改正をできない。唯一国民だけが憲法改正はできる。国民の民意を明らかにするのが国民投票である。
 辺野古埋め立て賛否の県民投票には民意を問うとして賛成した共産党が国民投票には反対している。反対するのは自衛隊を軍隊とするかを問う国民投票であるからだ。
国民投票では軍隊に賛成する票が過半数を超える可能性がある。そうなれば憲法で軍隊が認められることになる。だから、国民投票法改正案に反対しているのである。
 県民投票で民意を明らかにすることが民主主義であると県民投票に賛成しているのに国民投票には反対している共産党である。
 共産党は埋め立て反対票が過半数を超える可能性があったから県民投票に賛成し、自衛隊が軍隊として認めない票が過半数以下になる可能性が高いから国民投票に反対している。沖縄の県民投票が民意であり民主主義だから辺野古埋め立て県民投票に賛成したのではない。

 共産党は辺野古移設反対、自衛隊の軍隊化反対のイデオロギーに固執している政党である。民意、民主主義を共産党イデオロギー拡大に利用しているだけである。旧社会党の社民党や立憲民主左派も同じである。彼らには民主主義が欠落している。

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紙の上の沖縄で短歌をつくる 歌人屋良健一郎


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紙の上の沖縄で短歌をつくる 歌人屋良健一郎

「『基地が当たり前』の風景に悩み揺れる沖縄の若き歌人 歌にこめた思い」という記事がネットにあったので読んだ。週刊朝日に掲載したのをネットに載せたものだ。
基地と沖縄に関連する記事は全て読む癖がついているので読んだ。延江浩というラジオマンが音楽とともに社会を語るTOKYO FMを放送していて、その放送を週刊朝日が連載している。「基地が当たり前・・・」は本土復帰50年の特番として放送した。
延江氏が話した相手が屋良健一郎氏であった。屋良氏は東大に進み、現在は名護市の名桜大学で沖縄短歌史を研究している歌人である。

屋良氏は歌手の普天間かおりさんと一緒に辺野古に行った。
「漁港横にはバリケードが築かれ、ガードマンが一人たたずみ僕らを見ていた」
と述べている。彼のいうバリケードは左翼が違法に占拠して建てたテントの横の壁のことだろう。バリケードと呼べるようなものではない。


テントは辺野古区の南側にある。辺野古の北は山である。その裏にキャンプ・シュワブがあり、キャンプ・シュワブの北東の沿岸に辺野古飛行場建設を進めている。このテントは辺野古飛行場建設現場とは遠く離れた全然関係のない場所にある。住民が海辺を散歩する場所にテントがある。
屋良氏は、
「こちらの基地建設反対ののぼりには『じゅごんのいるうみをまもりたい』『美ら海残そう子や孫に』。県民投票で辺野古埋め立て反対の民意が示されたのにもかかわらず、国は工事を進めようとしている」と述べている。しかし、ここは辺野古基地から遠く離れた辺野古の住宅地の近くにある。こんな場所にテントを建てるのは横暴である。


2014年に沖縄防衛局が「辺野古工事に着手」した。その時に反対派がテントに集まった。彼らは辺野古基地とは反対の海に向かって抗議している。彼らは中南部から来ている。道路に多くの車を駐車して辺野古住民の生活を阻害した。住民は怒り、住宅地に駐車しないように要求して反対派と揉めた。



 反対派の集会は今も続いている。


屋良氏はテントの看板に書いてあるのを述べたのである。テントの中には左翼の主張の張り紙が張られている。屋良氏は左翼の主張を代弁している。
辺野古の住民にテントに対してどう思うかと聞くと、「散歩することができなくなった」と言っていた。 
この場所は辺野古の村に近く、住民が散歩したり、夕涼みする場所であった。辺野古住民の生活の場を奪ったのが左翼のテントである。テントを建てたのはコンクリートの土台があったからである。辺野古移設反対派は辺野古の住民に嫌われている。

屋良氏は歌手の普天間かおりさんと辺野古に行った。それは週刊朝日の企画で辺野古に行ったのだ。でなければ普天間産と行くはずがない。普天間さんは海に向かって二見情話を歌う。屋良氏は辺野古をテーマにした短歌を詠むというのが週刊朝日の企画だっただろう。だから、屋良氏は短歌を詠む目的で辺野古にいった。

テントの右側にあるのが辺野古漁港である。辺野古埋め立て地が見える浜に行くには、この港の右端に移動する。写真で分かるように辺野古の住宅地から浜はかなり離れている場所にある。


木々の反対側がキャンプ・シュワブである。右上の白い建物はキャンプ・シュワブの建物である。


 浜に出ても辺野古埋め立て地が見えない。はるか向こうにキャンプ・シュワブを囲っている金網が見える。囲いの向こうがキャンプ・シュワブであり、埋め立て地が見える。


反対派が金網に抗議のプラカードを貼り付けている場所である。
ここから辺野古埋め立て地が見える。
埋め立てる前に突堤を建設している写真である。私が撮った写真である。海を汚染しないために外側の壁をつくっている。
辺野古に行く前に私が気にしていたのは爆音であった。エンジン調整の爆音が辺野古住宅地に届くか否かを気にしていた。


あんなに遠い飛行場なら辺野古に爆音は届かない。辺野古飛行場は辺野古住民への影響はほとんどない。ほっとした。ほっとしながら写真を撮った。
 
こんな風景を見て、屋良氏は短歌を詠んだ。

転倒し
辺野古の砂の
重さゆえ
島の歴史の悲しみに触れ

 屋良氏が辺野古に行ったのは辺野古の住民や飛行場建設の現実を自分の目で見て、真実の辺野古を短歌で詠じるためではなかった。屋良氏の真実の辺野古はすでに屋良氏の中にあった。すでにある屋良氏の辺野古の真実を辺野古の風景を利用して詠じるために辺野古に行ったのである。
 浜辺で強風にあおられて転倒して右胸を強打したという。強い雨が傘にバチバチと当たる音で屋良氏は「鉄の暴風」といわれた米軍の艦砲射撃を思い出したという。
 「じゅごんのいるうみをまもりたい」「美ら海残そう子や孫に」。県民投票で辺野古埋め立て反対の民意が示されたのにもかかわらず、国は工事を進めようとしている。そんな中での本土復帰50年・・・・屋良氏は左翼が創り上げた紙の上の沖縄に立って辺野古を見ているのだ。

 埋め立てが進んできてはっきりしたのは埋め立てが海を汚染しないことである。金網から見える埋め立てまでの海はきれいである。汚染されていないことが直接分かる場所が辺野古移設反対派がプラカードを張ってある金網である。屋良氏は埋め立てで海が汚染されない事実を自分の目で見たはずである。埋め立てで汚染しないからジュゴンは守られる。美ら海も残る。それが嘘偽りない辺野古の真実である。ところが屋良氏は埋め立てでじゅごんや魚は死ぬと信じている。
海上移設、県外移設ができなくなった。それでも普天間飛行場の危険を防ぐために辺野古移設を政府が決めた。辺野古住民は移設に賛成し、名護市長選でも移設反対派が敗れた。それなのに屋良氏は3年前の県民投票に固執している。屋良氏は左翼がでっち上げた紙の上の沖縄にどっぷりひたっている。

 「『基地が当たり前』の風景に悩み揺れる沖縄の若き歌人 歌にこめた思い」は週刊朝日が企画したものである。3年前(2019年)には「辺野古の現実、短歌でどう詠む 沖縄の歌人ら、表現めぐる葛藤を議論」を朝日新聞が企画掲載している。朝日が短歌の世界にまで介入していることには驚いたというか感心したというか。
 紙の上の沖縄を構築するのに紙の上の文字専門の朝日は大きく貢献しているようだ。

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民主主義と独裁の区別ができない鈴木宗男 日本政治家の恥


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民主主義と独裁の区別ができない鈴木宗男 日本政治家の恥
 宗男議員はウクライナが戦闘を続けることで世界的な物価の上昇が起きているし、ウクライナは自前の兵器で戦えないのなら潔く関係諸国に停戦の仲立ちをお願いするのが賢明な判断だと述べてウクライナが停戦に動くことを指摘している。宗男議員の発言にインターネット上では批判の声が殺到しているという。

《主権を侵害されたので、国民が命がけでそれを防ごうとしているのにそれを他国の政治家が物価高だから諦めて降伏せよとは何事ぞ》
《物価高の原因はロシアが侵略を始めたからでしょう。日本維新の会はこういう国会議員を野放しにする政党なのでしょうか?》
《「物価が高いから降伏しろ」って、どういう政治信条を持っていればこんな人の心を無くした発言ができるのかわからない》

セルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ特命全権大使もTwitterを更新し、次のように抗議した。

《鈴木さん、私の唇を読んでください、私たちは降伏しません。プーチンは悪そのものであり、ロシアは戦犯である。我々は、武器があろうがなかろうが、戦います。素手で戦います。なぜなら、我々は何のために戦っているのか知っているからです。それを知っていますか、鈴木さん?》

 ウクライナ国民の精神を代弁している。
家にするにはウクライナが戦争に勝つ以外にはない。


タチアナさんは最近までこの公園付近に子どもを連れてきていた二児の母親である。志願兵になり対戦車ミサイルを運ぶ任務に就いている。先日、タチアナさんはロシア軍の戦車を一台破壊した。
『私が守っているのはキエフやウクライナ、ヨーロッパだけでなく、民主主義です』

 ロシアがウクライナ侵攻をした時にウクライナ戦争は民主主義国家ウクライナと独裁国家の戦争であること。そして、民主主義が必ず勝利することを私は宣言した。

「内なる民主主義29」の最初の文章である。

国民主権の民主主義を実現するのは非常に困難である。国民には兵器もなければ資産もない。独裁国家で民主主義を目指して活動すれば弾圧される。
香港の民主主義運動は習近平独裁政府に潰された。民主派は根こそぎ排除されて民主主義運動が全然できない状態になった。

ミャンマーは選挙で大勝して議会制民主主義が実現すると思われたのに軍部がクーデターを起こして軍独裁国家になった。国民は大規模な民主運動を展開したが、

軍部の武力によって鎮圧された。

軍の銃撃によって死亡したチェ・センさん(19)である。彼女は「(撃たれて)重体になったなら、生命維持は不要です」と記したメモを携帯し、万が一の際には臓器提供の意思を示していた。死を覚悟してデモに参加していたのである。死亡時に着ていたTシャツに書かれた「すべて、うまくいく」という言葉は、デモ隊の合言葉として広がった。ミャンマー国民は臨時政府を樹立し、武器をとって軍部との戦いを始めた。

2022年2月24日、独裁国家ロシアが民主主義国家ウクライナへ侵攻した。
民間人に死傷者を出す攻撃を行い、病院、学校、住宅などの市民の建物に被害を与えている。戦時国際法に違反する無差別攻撃が行われ、その一部は戦争犯罪に当たる可能性がある。軍事行動が始まった最初の週の終わりまでに、ウクライナでは100万人以上の民間人が自宅を離れ、その多くがウクライナ国外に避難した。ロシアでは、戦争について報じた出版物を理由に、当局が複数の独立系メディアのサイトへのアクセスを遮断し、大手独立系放送局が閉鎖されるなど、当局による検閲は新たな段階に入っている。戦闘が始まった最初の週には、ロシア全土における数千人の反戦デモ参加者が徹底的に拘束された。
欧州連合(EU)とその加盟国は、ウクライナから逃れてきたすべての民間人の安全な避難ルートの確保と公正な待遇を保障するために、最大限の努力をしている。
ウクライナ市民の犠牲は増え続けており、国際社会からはロシアへの厳しい非難の声が上がっている。

ウクライナ戦争は独裁国家ロシアと民主主義国家ウクライナの戦争であるということは独裁国家ロシア、ベラルーシ、チェチェンと世界の民主主義国家との闘いであるということだ。ウクライナを世界の民主主義国家が支援している。

ウクライナ戦争が起こったことに驚いた。ウクライナ戦争はソ連時代にソ連が周辺国を支配下に置くために起こした戦争と同じである。
1991年にソ連は崩壊した。そして、ロシアは大統領、国会議員は選挙で選ぶ議会制民主主義になった。ソ連が崩壊したのだから独裁国家が支配する目的で侵略する戦争は起こらないと思っていた。
ソ連が崩壊すると、ソ連に支配されていた東欧諸国は次々と議会制民主主義なった。そして、民主主義国家になった国々(ギリシャ、トルコ、ドイツ、スペイン、チェコ、ハンガリー、ポーランド、エストニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、アルバニア、クロアチア、モンテネグロ、北マケドニア)は民主主義国家の軍事同盟であるNATOに加入していった。

ロシアも東欧諸国も民主主義国家になったからソ連時代の侵略はないと私は思っていた。しかし、ロシアは侵略した。ソ連時代のロシアになったのである。プーチン大統領がロシアの独裁者になっていることは理解していた。2期大統領制度を変えて30年以上も居座ることができる長期大統領制度にしたのだからプーチン氏が独裁者になったことは明らかであった。このことはあり得ることであると考えていた。しかし、ロシア軍のウクライナ侵攻は予想外であった。侵攻するということはウクライナをロシアの支配下におくことである。ウクライナの大統領をはじめほとんどの政治家を排除するか従属させてウクライナを支配搾取することである。それはロシアがソ連時代のロシアに戻ったということになる。議会制民主主義になったロシアがソ連時代まで戻るのは考えられなかった。しかし、戻っていた。戻したのはプーチン大統領である。ロシアは議会制の国ではあるが民主主義の国ではないことが分かった。
昔のロシアに戻そうとしているのがプーチン大統領である。

ウクライナ戦争を民主主義と独裁の戦争という視点から追及していく。
        「内なる民主主義29」
フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相、イタリアのドラギ首相、ルーマニアのヨハニス大統領がウクライナの首都キーウを訪問し、ゼレンスキー大統領と会談した。議会制民主主義国家はウクライナの民主主義を守るために連帯する。そして、勝つ。



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ウクライナ戦争が沖縄に教えたこと 米国は民主主義の味方 米軍基地はアジアの平和を守っている

ウクライナ戦争が沖縄に教えたこと 米国は民主主義の味方 米軍基地はアジアの平和を守っている

 ロシアが突然侵攻してウクライナ戦争が始まった。戦争が始まって3ケ月以上が経過した。
ウクライナ戦争で明らかになったのはロシアが独裁国家であり、ウクライナが民主主義国家であることである。ウクライナ戦争の原因はプーチン大統領がNATOの拡大を防ぐために起こったなど、専門家やジャーナリストが色々な面から解説している。ロシアがウクライナに侵攻したのはウクライナを支配し、ロシアのようにプーチン大統領が独裁支配することである。独裁支配してプーチン政権と財閥のオリガルヒがウクライナを搾取することだ。それが真相だ。
プーチン大統領の資産は総額が約2000億ドル(約22・8兆円)と推計されている。これほどの資産は大統領の収入だけではつくれない。独裁支配し搾取したから莫大な資産をつくれたのである。
ウクライナ侵攻はウクライナを支配し、搾取するのが目的である。

ロシアの侵攻に対してウクライナ国民は「自由と民主主主義を守る」ために命を懸けて戦っている。国を守るために戦っていると解説する専門家が多い。彼らは間違っている。ウクライナ国民が戦うのは自由と民主主義を守るためである。そのことを単純に国を守るためと勘違いしている専門家は多い。
もし、ウクライナが独裁国家で自由のない国であったならロシアが侵攻してきてもウクライナ国民は立ち上がって戦うことはなかっただろう。
琉球王国の時代にソ妻班が沖縄を攻めてきた。その時に農民は戦わなかった。戦ったのは琉球王国の武士であった。農民にとって琉球王国、薩摩藩は農民を支配し搾取する同じ存在であり、どちらが勝っても農民の権利は同じだからだ。もし、琉球王国が自由で民主主義国家であったなら、農民は自由と民主主義を守るために薩摩藩と戦ったはずである。
江戸時代は支配階級である「武士」は約7%であった。約85%が農民であった。テレビで武士を中心のドラマが多い。織田信長、豊臣英洋などの戦国武将の話や日本の城が素晴らしいなど、武士階級を中心とした番組がほとんどである。でも人口はわずか7%である。テレビなどで7%の武士が85%以上の存在である。天下取りの争いは人口7%の争いだったのだ。93%の日本国民は関係がなかった。

ウクライナ戦争で明らかになったのは米国が民主主義国家であることである。そして。、他の民主主義国の危機を救うのに徹底して支援する国であることだ。そのことをウクライナ戦争は沖縄に教えてくれた。
戦後の沖縄には米軍基地が存在している。もし、ウクライナに沖縄のような米軍基地が存在していたらプーチンはウクライナに侵攻していたか。NOである。絶対に侵攻していなかった。侵攻すれば米軍に戦争を仕掛けたことになり、米国と戦争になる。米国との戦争は絶対に避ける。沖縄に米軍基地が存在しているということはロシアが沖縄に侵攻することは絶対にないということだ。
共産党の志位委員長は「有事になったら辺野古新基地がミサイル攻撃される」を理由に辺野古の飛行場建設に反対している。有事になるということは米軍と戦争することである。米軍と戦争する国はない。中国が台湾に侵攻しないのは米国との戦争を避けているからだ。米国と戦争する気があったらとっくの昔に台湾侵攻をしている。共産党は米軍基地があるから戦争になると現実とは逆のことを巧みに話して、米軍基地があるから戦争になると県民を騙し続けてきた。共産党に問うべきは米国と有事になるような国はどこかを問うことである。共産党は返事に困るだろう。残念ながら「共産党が想定する米軍と有事になる国はどこか」と共産党に鋭く詰問する保守政治家が居ない。

ウクライナ戦争は米国が民主主義国家であることを明らかにした。そして、民主主義国家の危機を救うために惜しみなく莫大な国の予算を使って兵器を提供することを教えてくれた。米国がウクライナにしていることは沖縄でもしているということだ。
7年前の2015年「捻じ曲げられた辺野古の真実」を出版した。

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辺野古の真実を明らかにするには米軍が沖縄に存在する理由を明らかにする必要がある。それにはソ連の存在を説明しなければならない。「捻じ曲げられた辺野古の真実」でソ連、アジアの情勢を説明した上で辺野古問題を展開した。

第1章 本土・沖縄の米軍基地はアジアの民主主義国家の平和に貢献している
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の拡  
 大
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある朝鮮戦争
沖縄の米軍基地強化と密接な関係があったアジアの冷戦
東欧の民主主義革命=社会主義国家の崩壊
 *18歳の時にメキシコオリンピックでベラ・チャスラフクの体操を見てとても感動した。感動を詩にした。ベラはチェコスロバキアで民主化運動に参加したために政府から弾圧されていたことを知った。ベラは政府の圧力に屈しないで戦い続けた。

 ベラ

われる拍手と歓声の中で
乱れた金髪を後光にほほえむベラ
踊り終えた肉体は安らぎ
安らいだ心が
生を終えた心が
よろこびをかみしめる

沈黙の世界がいつしかおとずれる
棘をもたない花
金貨で買えない真珠
目が遠い宇宙をみつめる
そこにはなにもない

血のにじむ練習
自信 転落 絶望 回転
喜び 躍動 希望 自信
過去の世界
宇宙塵と散った過ぎし日
過去も見えない未来も見えない 現実も

真空の無時間の世界であなたは生きていた

平均台
マット
跳馬

生きていた場所から去ったあなたはよろこびを噛みしめる
ああ すばらしいあなたの姿
女神よりも尊いあなたの姿
涙を一粒
喜びのあなたの涙が私の胸に落ち
わたしはうちふるえ 高鳴り 熱くなり
よろこびとも悲しみとも言えない
いわれのない
涙があふれでる

 目次
フランスの五月革命
ポーランド民主化運動
ベルリンの壁崩壊
ブルガリアの民主化
ビロード民主化革命
ルーマニア民主化革命
コマネチの亡命
1991年にソ連崩壊
共産党一党独裁国家を倒した民主化運動
アジアの平和のために本土・沖縄の米軍基地は必要である
台湾海峡危機
第二次台湾海峡危機(1958年)
国光計画(1962年)
フィリピンの対テロ戦争
日本の米軍基地は日本を防衛するだけでなくアジアの平和を守るために存在している
日本の米軍基地
〇沖縄の米軍基地
本土6基地沖縄4基地が日本・アジアの安全を守っている
アジアの平和のキーストーン沖縄

第2章 戦後沖縄の非合法共産党・米民政府
伊佐浜が激しい抵抗運動になった原因
日本共産党の暴力革命 日本共産党の歴史
戦後米軍は、沖縄の人々の健康と政治、経済向上に尽力した
戦後米軍政府が行った医療改革
米軍による政治改革
立法院
行政主席
米軍による文化等発展施策
沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー

*米軍・米軍政府は間違い。米民政府が正しい。
*オグレスピーには驚いた。戦後の沖縄の産業が生まれ発展したのは彼のお陰である。彼の功績をたたえて産業界はオグレスビー氏産業開発基金奨学金を設立した。現在も続いている。

 「アジアの平和のために本土・沖縄の米軍基地は必要である」が私の昔からの米軍基地論である。ウクライナ戦争で沖縄の米軍基地について理解した県民は増えたと思う。
 ウクライナ戦争に一喜一憂はしない。米国、イギリスなど47カ国の民主主義国が支援するウクライナが勝利する。加えてロシアもプーチン独裁が崩壊して民主義国家になる。これが私の予想である。

 ウクライナ戦争は日本の政治にすぐに影響を与えた。立憲民主党が14日、自衛隊員の処遇改善を後押しする「自衛隊員応援議員連盟」を設立したのだ自衛隊は憲法違反である。軍隊が存在するから戦争になるのだと日本の軍事増強に反対してきたのが立憲民主党の左派である。左派の影響で立憲民主は自衛隊の強化には反対であった。しかし、ロシアのウクライナ侵攻、ウクライナ国民への残虐行為に立憲民主は方針転換をした。
ロシアによるウクライナ侵攻で国民の国防への関心が高まってきたことに同調して、、立民は自衛隊員の処遇改善を後押しする「自衛隊員応援議員連盟」の設立したのである。参院選公約には隊員の任務環境と処遇の改善を盛り込んだのである。議連では福利厚生や備品支給の充実など具体策も検討する方針である。
会長に就いたのが左派の枝野幸男前代表である。左派の参加も増えて行くだろう。枝野会長は「人を大事にしない組織は脆弱(ぜいじゃく)だ。(隊員のための環境整備は)政権を目指す政党として大事な責任だ」と述べた。
立民幹部は「自衛隊を適正に活用できなければ平和は構築できない」と強調している。

ウクライナ戦争はプーチンロシアの独裁国家とウクライナ民主主義国家の戦争であることが明確になるにしたがい日本は軍事強化をしなければならない方向に向かって来た。
沖縄では米軍基地が沖縄、日本、アジアの安全を守る存在であるのを認める県民が増えただろう。
そして、民主主義国家は連帯をますます強化していく方向に進む。

ウクライナ戦争は平和を守るためには民主主義国の結束がとても大事であることを教えてくれた。
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渡瀬夏彦よ 「ノン」を消してフィクションライターがお似合いだよ


本土取次店
 (株)地方・小出版流通センター
 TEL.03-3260-0355 FAX 03-3236-6182
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株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170 FAX 098-861-5499
メールshopping@o-kyohan.co.jp
内なる民主主義28新発売


1295円(税抜き)


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渡瀬夏彦よ 「ノン」を消してフィクションライターがお似合いだよ

 ノンフィクションライター渡瀬 夏彦が沖縄に関する評論をシリーズで現代ビジネスに掲載するようだ。渡瀬氏は、
「沖縄の現実を見て見ぬフリすることによって己の日常の安泰を保とうとしている人びとや、あるいは沖縄の人びとを酷い目に遭わせているという自覚すらない多くのニッポン人の心に、わたしは波風を立てたい」
と述べている。渡瀬氏は東京から沖縄に移り住んで16年になるらしい。多くのニッポン人の心に波風を立てたいヤマトゥンチュの筆者が最初に取り上げたのがハンストをした元山仁士郎氏である。それだけで渡瀬氏の正体は明らかである。彼は米軍基地反対、辺野古移設反対の左翼が創り上げた沖縄に単純に乗っかっているジャーナリストである。
 沖縄にきて16年になる彼が沖縄を理解するために参考にするのが文字の沖縄である。文字の沖縄は圧倒的に左翼系の世界である。彼は左翼が描いた紙の上の沖縄に住んでいる。彼の信じる沖縄は紙の上の沖縄である。彼は紙の上の沖縄に立ったまま主張している。沖縄の現実には立っていない。

渡瀬氏はハンストで元山氏が日本政府に要求したのは、
(1) 辺野古新基地建設の即時断念
(2) 普天間飛行場の数年以内の運用停止
(3) 日米地位協定の運用にかかるすべての日米合意を公開し、沖縄県を含む民主的な議論を経て見直すこと
であると指摘している。渡瀬氏は(1)と(2)に関しては沖縄県民ならばすぐに理解し、同意できる人が多いだろうと述べている。大事な問題は県民が同意するか否かではない。元山氏の要求が正しいか否かである。渡瀬氏は自分の判断はしていない。元山氏の要求は県民が同意すると信じているだけである。
(1)は間違っている。新基地ではない。普天間飛行場の移設基地である。普天間飛行場を辺野古に移設するべきであって即時断念を要求するのは非現実的である。(2)の要求も政府は100%聞き入れない。実現不可能な要求である。渡瀬氏は元山氏が実現不可能な要求していることを指摘していない。元山氏と一緒に紙の上の沖縄に居るからだ。
 渡瀬氏は多くの県民が同意すると思っているがどうだろう。名護市長選挙では移設反対の立候補が大差で敗れた。同意する県民はかなり減っている。

 私は2012年に「沖縄に内なる民主主義はあるか」を出版した。



電子書籍発売中
沖縄に内なる民主主義はあるか 350円

その本に「第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない」を掲載した。目次を紹介する。

沖縄県の人口の推移
戦前の沖縄の人口は60万人が限度だった
農業中心の沖縄の人口を推計する
沖縄の人口増加は基地経済が原因
宜野湾市の戦後の経済発展の要因
沖縄に米軍基地が存在している理由
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある旧ソ連圏の脅威的な拡大
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の勢力拡大
沖縄の米軍基地強化と密接な関係があるアジアの冷     
                     戦
沖縄の米軍基地強化と密接な関係があった朝鮮戦争
普天間飛行場強化は共産主義勢力の封じ込み戦略の
ひとつであった
普天間飛行場の歴史
普天間第二小学校
普天間第二小学校の移転問題
普天間飛行場のクリアゾーンに人が住んでいるの
は誰の責任か
普天間飛行場の移設問題
国外移設運動の歴史
県外移設運動の歴史
沖縄の構造的差別は本当か
構造的差別論は反戦・平和主義ではない
普天間飛行場の国外移設=グアム移設は可能か
普天間飛行場の「県外移設」は可能か
県外移設論者たちのずるさ
辺野古移設は可能か
辺野古は米軍基地を受け入れて繁栄した過去がある
今も中国・北朝鮮と周辺国との緊張状態は続いてい    
                     る
米軍基地があるから戦争に巻き込まれない
沖縄にヘリコプター基地は必要

普天間飛行場移設問題とは関係なく、
一日も早い、
普天間第二小学校の移転を訴える。

普天間飛行場、米軍基地、アジア情勢などあらゆる面から問題追及した。その結果普天間飛行場の移設は辺野古しかないと結論した。県民が私の説明を読んでくれれば辺野古移設に賛成したはずである。10年前に書いたことが真実であることが今明らかになってきた。だから、辺野古移設を容認する県民が増え、名護市長選は大差で辺野古移設反対の候補者を破ったのである。

(3)について渡瀬氏は、
「(前略)日本国憲法の上に日米地位協定があって、国会の上に日米合同委員会がある。この2つの中で日本はアメリカに対して何も言えない状況があります」
翁長雄志前知事の生涯最後の記者会見(2018年7月27日)での言葉を紹介することで、理解を深めていただく一助となればと述べ、この翁長氏の言葉は、本当に重い「遺言」のようなものだと思うと締めくくっている。
日本の議会制民主主義を理解していないからアホらしい主張をするのである。日本国憲法は日本の政治体制を根本的に決めるものであり、日本最高の法的存在である。日米地位協定は日本と米国の協定であり国会が決める。国会は地位協定を破棄することができる。憲法は国会で変更できない。国民投票でのみ変更が可能だ。
日米協定破棄を主張する共産党と左翼が与党になれば破棄することができる。地位協定に賛成する自民党が与党であるから地位協定は続いているだけのことだ。
翁長前知事は憲法と地位協定の違いも知らないお粗末な政治家だったのだ。その翁長知事の言葉を鵜呑みにしている渡瀬氏には呆れてしまう。このような無知な連中が大手を振って威張り散らしているのが沖縄である。残念なことだが、沖縄は嘘が踊りまくっている。現実がねじ曲げられている沖縄である。
左翼が創り上げた紙の上の沖縄を潰して、現実の沖縄を明らかにしていく必要がある。
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今年の梅雨は異常気象 激しい長雨 ゴーヤー・トマト・ナスビの実がならない

今年の梅雨は異常気象 激しい長雨 ゴーヤー・トマト・ナスビの実がならない

 激しい雨が一カ月以上も続いている。梅雨はしとしと降るが今年の梅雨は激しい大雨である。こんなに大雨が続くのは初めての経験だ。

 5月の沖縄は梅雨になるから梅雨の雨であるはずだが、梅雨はしとしと降るのに今年の雨は豪雨であるのだ。それに梅雨は4、5日降った後に1、2日は晴れになる。週の前半に雨が降れば週末は晴れるというケースが多い。しかし、今年の梅雨は毎日が雨の日で晴れた日はない。今年の梅雨は異常に雨が多い。雨が多いことはダムの貯水率で明らかである。10日前の1日、沖縄本島中北部で国が管理する9ダムのうち大保ダム(大宜味村)を除く8つのダムの貯水率が100%となったのである。100%になって以後も大雨が降り続けている。越流(オーバーフロー)が続いている。このように雨が降ったのは過去にない。

異常な大雨は野菜に大きく影響している。トマトとナスビは順調に育ち、トマトは10個以上の実がなり、数個のトマトは実が赤くなって収穫した。ナスビも2個収穫した。これから実が大きくなるのを楽しみにしていた。ところが異常な大雨が続いた。トマトの実は大きくならないで腐れて落ちてしまった。ナスビは花は咲くが実にはならない。こんなことは初めてである。実の成長が止まり腐れてしまうということは考えられない。気温が急激に下がるのなら分かるが気温は下がらなかった。大雨が続いたことが原因としか思えない。トマトとナスビは実がついた後に異常なことが起きたがゴーヤーは実がまだならない。普通なら実がなる頃であるが実がつかないなっている。しかし、ゴーヤーにはまだ実がないのだ。異常な大雨の梅雨が原因としか思えない。

「花より野菜」の私は家の花壇に花を植えないで野菜を植えている。トマト1、ナスビ2、ゴーヤー⒉を4月に植えて、数日前にモーイとキューリを2本ずつ植えた。ピーマン、オクラも植えようと苗は買った。晴れた日に植えようと思う。

私の野菜だけが異常事態になっているかもしれないと考えることはできる。しかし、長年野菜育ててきた。今までこんなことはなかった。私の野菜だけが異常で他の人が育てた野菜は普通であるとは思えない。畑の野菜も同じだと思う。
畑をやっている友人と居酒屋で会う約束をした。野菜のことを確かめることが目的ではない。彼に煮た山芋を渡すのが目的だ。
私は月に数回は彼の畑に行き、ビールを飲みながらゆんたくをする。しかし、雨が降り続いているので一カ月以上畑に行かなかった。彼に頼まれたことがあった。山芋を煮てあげることだった。山芋の一個は私がもらい、一個は煮て彼にあげる約束をしていた。彼は山芋をビールのつまみにしている。彼から山芋を受け取ったのは一カ月以上前のことである。酒のつまみにするのだから急いで煮ることはない。気が向いたら煮るつもりだったが、雨が降り続いた。雨が降っていては畑に行けない。その内に晴れるだろうと思っていたら一カ月が過ぎた。一カ月も経ったので居酒屋で渡すことにしたのだ。
 山芋は大きい。普通の鍋で煮るには皮を剥いて切り刻まなければならない。しかし、山芋は皮のまま煮るのが普通である。その方が山芋のうま味が残ると子供の頃に教えられた。だから、皮のまま煮るのにこだわっている。皮のまま煮るには普通の鍋では煮ることができない。私は大きい圧力鍋を持っている。山芋を皮のまま煮ることができる。だから、大きい圧力釜を持っていない友人の山芋を私が煮るのだ。これで4度目である。

山芋の写真である。この山芋はとても大きい。私が煮た山芋の3倍以上である。

 読谷村の山芋スーブ(勝負)で優勝した山芋である。山芋スーブは一個の種芋から収穫した量を勝負する。優勝した写真の山芋は346・8キロである。山芋スーブは前石川市の伊波だけで行われていた。伊波では昔から行われている伝統行事だという。沖縄紙に伊波の山芋スーブが掲載されようになり伊波の山芋スーブが広く知られるようになった。すると他の地域でも山芋スーブが行われるようになった。読谷もその一つである。
 伊波の山芋スーブで山芋を掘る様子を見に行ったことがある。10年以上前のことである。山芋は好きだし父が植えていた伊波の山芋スーブで一つの種芋から100キロ近く収穫する農家もあるという。信じられない話だったので収穫する様子を見たいと思い、行った。
畑には10人ほどの白髪交じり人間たちが真剣な顔をして話し合っていた。畑の主らしい人が掘り出す山芋を指定すると5、6人がスコップや鍬で慎重に掘り始めた。
 山芋を掘るときはインチキがないように山芋スープに参加する全員で掘るという。仲良く笑いながら掘ると予想していたがそうではなかった。真剣な顔であった。山芋スープは親睦会であり楽しく笑いながらやると想像していたが意外と真剣にやっていることに驚いた。収穫した山芋は公民館に運び、重さを量って勝負するのだ。
 読谷村の山芋スーぶは伊波よりもスケールが大きくなった。一つの種芋から写真のような346・8キロも収穫する。それは鍬やスコップを使った人力ではできない。土を掘るときにユンボを使うのだ。ユンボで深く広く耕すのである。そして、糊料をたっぷり入れる。だから300キロ以上も収穫するのである。読谷村の山芋スーブには農業はしていなくてユンボなどの機械を扱っている人たちが山芋スーブに参加するためだけに山芋を栽培しているという。伊波の農業をしている人たちの勝負の世界とは違ってきている。私は伊波の山芋スーブが好きだ。

 友人からの山芋は隣の畑をしている人からもらったものだ。彼は80歳である。彼は野菜を育てるのが好きな人である。山芋スーブを嫌っている。食べるための山芋を育てている。彼は心臓が悪くペースメーカーを入れている。それに新型コロナに感染して長い間入院していた。体力の衰えを感じ、山芋栽培をあくらめた。種芋としてとっておいたのを友人にあげた。ところが友人は料理することができないので私に譲った。私は大きい二個の山芋は必要ない。だから、煮て彼にあげる。二個目も煮て半分は彼にあげようと思っている。彼は山芋をマヨネーズなどを塗ってビールのつまみにする。
 妻に料理させればいいと彼に言ったことがある。しかし、妻は千葉県出身で沖縄の山芋を知らない。だから料理のやり方が分からない。だから、料理ができない。妻に弱い男は山芋を食べることをあきらめた。彼の家庭の事情を知った私が山芋を煮ることになった。山芋はジャガイモよりもコクがある。山芋のコクをビールを飲みながら味わってほしい。

 彼にトマトとナスビの話をした。彼の畑でも同じことが起きていた。彼の場合はゴーヤーはひとつだけとても大きくなったが、このゴーヤー以外は実ができなかったという。私のトマト、ナスと同じことがゴーヤーでも起こっていたのだ。今年の梅雨は野菜の実に深刻な影響与えるほどの異常気象なのだ。
 翌日、目覚めた時に大雨だった。ふと、頭によぎったのが琉球王国時代でこのような野菜被害が出れば餓死者が出ていただろうということである。琉球王国時代は地割り制度であり、村から出ることも許されなかった。村によっては餓死者が出ていただろう。戦前なら日本政府が食料援助をして餓死者が出ることはなかっただろう。戦後の米国統治時代も米国の食糧援助で飢えることはなかっただろうと考えた後に、いや沖縄にはサツマイモがある。サツマイモのお陰で沖縄は飢えから救われた。野菜類が収穫できなくてもサツマイモがあるから琉球王国時代の農民も餓死はしなかっただろう。こんなことが目覚めて数分の間頭を駆け巡った。
 サツマイモは中国から沖縄に移入され、それから薩摩藩に渡った。中国からサツマイモを持ってきたのが野国總管である。彼は沖縄の飢えを救った人物として有名である。彼は嘉手納の出身であり、嘉手納町では毎年野国總管まつりを行っている。小学生の時、一人で野国總管まつりに行った。まつりで行うウチナー相撲を見たかったからだ。友達を誘ったが誰も行きたがらなかった。あの頃は村意識が強く、読谷の人間が嘉手納のまつりを見に行くこはなかった。とくに子供は他村に行くのを怖がっていた。私は一人で行った。相撲を見ながら私は眠くなり隣の大人に寄りかかって眠った。私は日射病になっていたのだ。病院に運ばれたがその日で退院した。
 サツマイモは沖縄では唐芋(とういも・からいも)と呼んでいた。その芋が薩摩に渡りサツマイモになったということを先生から聞いた。薩摩藩は中国をイメージさせる唐芋の名を嫌ったのだろう。琉球は支配下にあり琉球芋と名付けるのも嫌い、薩摩芋にしたと思う。サツマイモの名が全国に広がり、沖縄でもサツマイモという。サツマイモの名称にも政治が絡んでいる。
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浦添市議会がデニー知事「ゼレンスキーです」に抗議決議 沖縄の政治を律するための価値ある決議だ 

浦添市議会がデニー知事「ゼレンスキーです」に抗議決議 沖縄の政治を律するための価値ある決議だ 

浦添市議会(比嘉克政議長)は7日の本会議で玉城デニー知事が県の有識者会議で「(ウクライナ大統領の)ゼレンスキーです」と発言したことに対し、抗議の決議をした。決議では、知事の発言について「県民を代表する知事としての節度を超えた、誤解を招きかねない失言であり看過できない」と批判した。抗議に賛成したのは市政与党の自民、公明であり、過半数を超えて賛成多数(19人)で可決した。野党の共産2人は反対している。野党系5人は退席した。

デニー知事はウクライナだけでなく専門家会議にも謝罪するべきである。この問題は保守、左翼の政治問題ではない。県知事としての政治姿勢の問題である。反対した共産党の政治姿勢が問われる。

他の市町村も抗議決議をしてほしいな。沖縄の政治を律するために。

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