こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記の終盤から、私とたつぴは福島県会津若松市に来ています。会津若松駅前にある駅前フジグランドホテルに1泊し、二人旅の最終日となる14日の午前中は市内観光をして、そのあとに帰路に就くことになっていました。 朝の仕度が済んだら………
ホテルに併設されているレストランで、朝食をいただくことにしましょう チェックインの際に、和食と洋食のどちらかを選ぶことができ、私たちは前者にしました。焼き魚に切り干し大根、きのこの和え物などのセットに、おかわり自由の牛乳やコーヒーといった飲み物が付いてくるなんて、嬉しいですね。 それらをガッツリ食べたら、いざ観光に参らん
………とはいっても、8時前にはまだまちなか周遊バスは出てなかったので、私たちはタクシーに乗っていきました。 前回の日記でも触れたのですけど、その運転手から白虎隊の新事実を聞かされたのですよね。 そのようにして行き着いたところは………
今回の日記のタイトルにも出ているので、すでにバレバレですよね。 そうです 鶴ヶ城(正式名称は会津若松城)にございます。
こちらのお城は、南北朝時代の14世紀末に蘆名直盛の築いた黒川館が前身とされています。 天正17年(1589年)に伊達政宗が蘆名氏を撃ち破って、この城を手に入れました。さらに、政宗と入れ代わって入城した蒲生氏郷によって大改築がおこなわれ、今日見られる天守台の上に7層の天守が築かれました。その際に地名は若松、城名は鶴ヶ城と改められました。
まだお城が開館前ということもあって、本丸内も人が少なくて静かです。
慶長3年(1598年)鶴ヶ城には上杉景勝が入ったのですけど、関ヶ原の戦いの後に米沢に転封。 その後、氏郷の子・秀行の代を経て、加藤嘉明が城主となりました。嘉明は天守を5層に改め、西出丸や北出丸を整備して、お城は今日見られる規模となりました。
廊下橋がある本丸東側の石垣は19mもあり、城内一の高さとなります。
寛永20年(1649年)には、3代将軍徳川家光の弟の保科正之が入城。次の代に松平姓に改め、以降は松平氏が代々治めました。
このあたりで復興天守の中に入りましょうか。 鶴ヶ城の天守は、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製で外観のみ復元されました。さらに、平成23年(2011年)には屋根が凍結に強い赤瓦に葺き替えられ、本来の姿により近付きました。 内部は郷土博物館となっていて、会津を治めた歴代領主の変遷、戊辰戦争や白虎隊、会津ゆかりの先人たちに関する展示がされていて………
最上階に上れば、広大な会津の景色と城下町を一望できるのですけど、私のカメラはつい復興天守の足元を向いてしまいました。 本丸跡の芝生広場には、地上からでも何かが描かれているのはわかっていたのですけど、上から見たらこうなっていたのですね。そうです、来年は会津の戊辰戦争からちょうど150年となるのですよ。
やはりこちらからも、例の白いポールの向こうに飯盛山が見えますね。
慶応4年(1868年)会津領主の松平容保は、京都守護職に就いていたこともあって、旧幕府側にいました。孝明天皇が崩御し、15代将軍徳川慶喜が大坂城から江戸城に逃亡したことなどにより、容保は後ろ楯を失いました。 ハシゴを外された形で、戊辰戦争では容保は新政府軍と戦うことに。 白虎隊などを編成し、鶴ヶ城に籠城して1ヶ月もの間持ちこたえたのですけど、降伏して開城。天守を含めたお城の建物は、明治7年(1874年)に取り壊されてしまいました。
さらに私たちの下側には、天守台から走長屋(はしりながや)が続いていて、右に折れて門となっているところが鉄門(くろがねもん)となります。そこまでは、天守と一緒に再建されたのですけど、さらに延伸している南走長屋とその先の干飯櫓(ほしいやぐら)は、平成13年(2003年)に復元されたのですよ。 20ン年前に私が訪れたときには、それらはまだなかったのですけど、この日はなぜか足場が組まれていて、本領を出しきれていない状態でした。 それでも、ここまで来たらやはり………
その内部も見ておきますよ 南走長屋と干飯櫓は、木造でかつての姿のまま復元されました。たくさんの部屋を伴った長い廊下をどんどん進んでいったら………
干飯櫓の1階部分に行き着きました。2 階部分は安全の面から非公開だったのですけど………
本物と同じ材質・同じ大きさの刀を持つ体験コーナーがありました。 これは思っていたよりもかなり重かったです。水戸黄門では「助さん、格さん、構いません。懲らしめてあげなさい」でチャンバラ場面となり「もういいでしょう」のあとに印籠をご開張!ここまではまぁいいとしても、「こちらにおわす方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水………」なんて長いセリフを息も切らさずに言うなんて、絶対にムリ ロロノア・ゾロの三刀流も現実的ではないのですけど、こちらは彼の鍛え上げられた強靭な肉体によるものだと信じています。
私たちは再び外に出ました。こちらの東屋ではない休憩スペースは……… 学生時代に私が初めて鶴ヶ城を訪れたときに、寝袋をかぶって野宿したところです。 しかし、翌日の早朝に猛獣に襲われる夢を見て飛び起きたら、私の目の前には散歩中のワンコがいました。
散歩中のワンコといえば……… 地元スピッツのイヴ様がこのお城をよく散歩しているみたいですけど、この日は時間帯が合わなくて、ご対面することはできませんでした。 それでも、彼女がいつも辿っていることを感じつつ、お城を散策することはできました。
それから、茶室の麟閣も見学しておきました。こちらの建物は城内にあったのですけど、明治のお城の破却の際には市内に移築。平成2年(1990年)になって再びもとの場所に復元されました。
あとは、こちらでたつぴと一緒に記念写真を撮って、今回の訪問を締めることにしましょう。
鶴ヶ城といえば、明治時代の詩人の土井晩翠が、破却後のこちらの城跡をモデルにして「荒城の月」を作詩し、その歌碑が本丸跡にあります。(※作曲は滝廉太郎)どこかうら悲しい響きがするこの曲は、お城のかつての栄華とその跡の情景を歌っています。 そういうこともあって、鶴ヶ城の時報にもその曲が流れるのですけど、たつぴは「知らない」と言うのですよ 「荒城の月」は、小中学校の音楽の授業では定番と言ってもいいほどだったのに……… 時代の移り変わりを感じてしまいました。
その日の正午には、私たちは会津若松をあとにして帰路に就きました。 会津若松市内では今回は時間が限られていて、飯盛山と鶴ヶ城しか見ることができなかったのですけど、次に訪れるときには御薬園や会津武家屋敷、さらに足を伸ばして野口英世記念館などにも寄ってみたいです。 帰りは約11時間、在来線を乗り継いでいったのですけど、そのうちの小金井~熱海間の約3時間半はちょっと奮発して、グリーン車を利用しました。
その間に、郡山駅で買ってきた小原庄助弁当を食べておきましょう 「会津磐梯山」の民謡の中では、身上をつぶすほど朝寝・朝酒・朝湯が大好きな小原庄助さんはグータラ人間なのですけど、どこか憎めなくて今も昔も多くの人々に愛されている人気者です。小原庄助弁当は、そんな彼のように親しまれることを願って作られたそうです。この弁当は二段重になっていて、しめじごはん、鶏肉の酒粕味噌焼き、黄金色のえびの天ぷら、焼鮭、………などが入っていました。バラエティーに富んでいるうえにその土地の名物も入っていて、小原庄助さんを思わせるような美味しさと楽しさがありましたよ。
今回の旅は1泊3日で、東北地方の入口の白河・会津方面だけのややコンパクトな内容でしたけど、さざえ堂や喜多方ラーメンといった新たな出逢いや発見などもあって、充実した非日常を味わうことができました。
そんな長々と綴った旅日記に最後まで付き合ってくださり、ありがとうございました。
「お盆休みを、小原庄助さんのようにして過ごすのもいいかも」と憧れている方は、こちらに投票してやってください。
前回の日記の終盤から、私とたつぴは福島県会津若松市に来ています。会津若松駅前にある駅前フジグランドホテルに1泊し、二人旅の最終日となる14日の午前中は市内観光をして、そのあとに帰路に就くことになっていました。 朝の仕度が済んだら………
ホテルに併設されているレストランで、朝食をいただくことにしましょう チェックインの際に、和食と洋食のどちらかを選ぶことができ、私たちは前者にしました。焼き魚に切り干し大根、きのこの和え物などのセットに、おかわり自由の牛乳やコーヒーといった飲み物が付いてくるなんて、嬉しいですね。 それらをガッツリ食べたら、いざ観光に参らん
………とはいっても、8時前にはまだまちなか周遊バスは出てなかったので、私たちはタクシーに乗っていきました。 前回の日記でも触れたのですけど、その運転手から白虎隊の新事実を聞かされたのですよね。 そのようにして行き着いたところは………
今回の日記のタイトルにも出ているので、すでにバレバレですよね。 そうです 鶴ヶ城(正式名称は会津若松城)にございます。
こちらのお城は、南北朝時代の14世紀末に蘆名直盛の築いた黒川館が前身とされています。 天正17年(1589年)に伊達政宗が蘆名氏を撃ち破って、この城を手に入れました。さらに、政宗と入れ代わって入城した蒲生氏郷によって大改築がおこなわれ、今日見られる天守台の上に7層の天守が築かれました。その際に地名は若松、城名は鶴ヶ城と改められました。
まだお城が開館前ということもあって、本丸内も人が少なくて静かです。
慶長3年(1598年)鶴ヶ城には上杉景勝が入ったのですけど、関ヶ原の戦いの後に米沢に転封。 その後、氏郷の子・秀行の代を経て、加藤嘉明が城主となりました。嘉明は天守を5層に改め、西出丸や北出丸を整備して、お城は今日見られる規模となりました。
廊下橋がある本丸東側の石垣は19mもあり、城内一の高さとなります。
寛永20年(1649年)には、3代将軍徳川家光の弟の保科正之が入城。次の代に松平姓に改め、以降は松平氏が代々治めました。
このあたりで復興天守の中に入りましょうか。 鶴ヶ城の天守は、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製で外観のみ復元されました。さらに、平成23年(2011年)には屋根が凍結に強い赤瓦に葺き替えられ、本来の姿により近付きました。 内部は郷土博物館となっていて、会津を治めた歴代領主の変遷、戊辰戦争や白虎隊、会津ゆかりの先人たちに関する展示がされていて………
最上階に上れば、広大な会津の景色と城下町を一望できるのですけど、私のカメラはつい復興天守の足元を向いてしまいました。 本丸跡の芝生広場には、地上からでも何かが描かれているのはわかっていたのですけど、上から見たらこうなっていたのですね。そうです、来年は会津の戊辰戦争からちょうど150年となるのですよ。
やはりこちらからも、例の白いポールの向こうに飯盛山が見えますね。
慶応4年(1868年)会津領主の松平容保は、京都守護職に就いていたこともあって、旧幕府側にいました。孝明天皇が崩御し、15代将軍徳川慶喜が大坂城から江戸城に逃亡したことなどにより、容保は後ろ楯を失いました。 ハシゴを外された形で、戊辰戦争では容保は新政府軍と戦うことに。 白虎隊などを編成し、鶴ヶ城に籠城して1ヶ月もの間持ちこたえたのですけど、降伏して開城。天守を含めたお城の建物は、明治7年(1874年)に取り壊されてしまいました。
さらに私たちの下側には、天守台から走長屋(はしりながや)が続いていて、右に折れて門となっているところが鉄門(くろがねもん)となります。そこまでは、天守と一緒に再建されたのですけど、さらに延伸している南走長屋とその先の干飯櫓(ほしいやぐら)は、平成13年(2003年)に復元されたのですよ。 20ン年前に私が訪れたときには、それらはまだなかったのですけど、この日はなぜか足場が組まれていて、本領を出しきれていない状態でした。 それでも、ここまで来たらやはり………
その内部も見ておきますよ 南走長屋と干飯櫓は、木造でかつての姿のまま復元されました。たくさんの部屋を伴った長い廊下をどんどん進んでいったら………
干飯櫓の1階部分に行き着きました。2 階部分は安全の面から非公開だったのですけど………
本物と同じ材質・同じ大きさの刀を持つ体験コーナーがありました。 これは思っていたよりもかなり重かったです。水戸黄門では「助さん、格さん、構いません。懲らしめてあげなさい」でチャンバラ場面となり「もういいでしょう」のあとに印籠をご開張!ここまではまぁいいとしても、「こちらにおわす方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水………」なんて長いセリフを息も切らさずに言うなんて、絶対にムリ ロロノア・ゾロの三刀流も現実的ではないのですけど、こちらは彼の鍛え上げられた強靭な肉体によるものだと信じています。
私たちは再び外に出ました。こちらの東屋ではない休憩スペースは……… 学生時代に私が初めて鶴ヶ城を訪れたときに、寝袋をかぶって野宿したところです。 しかし、翌日の早朝に猛獣に襲われる夢を見て飛び起きたら、私の目の前には散歩中のワンコがいました。
散歩中のワンコといえば……… 地元スピッツのイヴ様がこのお城をよく散歩しているみたいですけど、この日は時間帯が合わなくて、ご対面することはできませんでした。 それでも、彼女がいつも辿っていることを感じつつ、お城を散策することはできました。
それから、茶室の麟閣も見学しておきました。こちらの建物は城内にあったのですけど、明治のお城の破却の際には市内に移築。平成2年(1990年)になって再びもとの場所に復元されました。
あとは、こちらでたつぴと一緒に記念写真を撮って、今回の訪問を締めることにしましょう。
鶴ヶ城といえば、明治時代の詩人の土井晩翠が、破却後のこちらの城跡をモデルにして「荒城の月」を作詩し、その歌碑が本丸跡にあります。(※作曲は滝廉太郎)どこかうら悲しい響きがするこの曲は、お城のかつての栄華とその跡の情景を歌っています。 そういうこともあって、鶴ヶ城の時報にもその曲が流れるのですけど、たつぴは「知らない」と言うのですよ 「荒城の月」は、小中学校の音楽の授業では定番と言ってもいいほどだったのに……… 時代の移り変わりを感じてしまいました。
その日の正午には、私たちは会津若松をあとにして帰路に就きました。 会津若松市内では今回は時間が限られていて、飯盛山と鶴ヶ城しか見ることができなかったのですけど、次に訪れるときには御薬園や会津武家屋敷、さらに足を伸ばして野口英世記念館などにも寄ってみたいです。 帰りは約11時間、在来線を乗り継いでいったのですけど、そのうちの小金井~熱海間の約3時間半はちょっと奮発して、グリーン車を利用しました。
その間に、郡山駅で買ってきた小原庄助弁当を食べておきましょう 「会津磐梯山」の民謡の中では、身上をつぶすほど朝寝・朝酒・朝湯が大好きな小原庄助さんはグータラ人間なのですけど、どこか憎めなくて今も昔も多くの人々に愛されている人気者です。小原庄助弁当は、そんな彼のように親しまれることを願って作られたそうです。この弁当は二段重になっていて、しめじごはん、鶏肉の酒粕味噌焼き、黄金色のえびの天ぷら、焼鮭、………などが入っていました。バラエティーに富んでいるうえにその土地の名物も入っていて、小原庄助さんを思わせるような美味しさと楽しさがありましたよ。
今回の旅は1泊3日で、東北地方の入口の白河・会津方面だけのややコンパクトな内容でしたけど、さざえ堂や喜多方ラーメンといった新たな出逢いや発見などもあって、充実した非日常を味わうことができました。
そんな長々と綴った旅日記に最後まで付き合ってくださり、ありがとうございました。
「お盆休みを、小原庄助さんのようにして過ごすのもいいかも」と憧れている方は、こちらに投票してやってください。