こんばんは、白黒茶々です。
私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭による初秋の奥浜名湖散策は、今回が最終話となります。 前回の日記の最後に予告した通り、私たちは観光鍾乳洞のR洞に向かいました。
※すでに今回の日記のタイトルにも出ているので、伏せ字にする必要はないのでは?(編集部注)
ということで、やって来ましたよ 竜ヶ岩洞に。こちらは浜松市北区引佐(いなさ)町にある観光鍾乳洞で、以前から龍譚寺と並んで、奥浜名湖の人気スポットとなっております。 とはいっても、オープンしてから30年あまりと、それほど古くはないのですよ。それでも、その年月の間に鍾乳洞の入口周辺にも「これは………」というものが多数できてきたので、まずはそれらを見ていこうと思います。
屋根のある休憩スペースの脇には、古びた鉄橋と線路みたいなものが置かれています。昭和38年(1963年)に廃線になるまで、浜松市の中心部から奥山方広寺の門前までを結ぶ、総延長25,7kmにも及ぶ奥山線の軽便列車がこの地域を走っていました。 (※全面廃線は昭和39年)その遺構の一部がこちらに移されたのであります。
………とせっかく感心したのに、その隣にはなぜかメリーゴーランドの馬車みたいなものがあるのですよ。 しかも「定員4人」の注意書まで付けられていて。
さらにその一角ではミカンの皮アートに勤しむ方がいて、「おんな城主 直虎」のオープニングに出てくるような、花が咲く兜も置かれていました。
それだけではなく、砦の木柵をモチーフにした、ラブラブな撮影スポットも設けられていて。「顔出し無料」となっていますけど、カップルの2人がハートのあたりに顔を持っていくようにするのでしょうか? 箔と波はそこには届かないので、下のすき間から顔を出してくださいませ。
こちらの「ようきた洞」は、竜ヶ岩洞から流れ出る水に足を浸すところです。 今から10年前の平成19年(2007年)に完成し、以来夏場には涼むことができるようになりました。いや、冷やっこいを通り越してむしろ寒いぐらいで、できることならスイカやビールを冷やしたいです。ただし、こちらはワンコとは一緒に入れないので、ご注意くださいませ。
それから洞窟の入口の横には、竜ヶ岩洞だけにモザイカルチャーな竜があって、さらにこの竜はときおり目が赤く光って口から白いミスト状の霧を吐くのですよ カメラをお持ちの方がこの瞬間に出くわしたら、ぜひ前へお進みくださいませ。
その近くには、作業服姿でヘルメットをかぶっているおじさんの銅像があります。 その台座には「貞雄の像」と刻まれているのですけど、広島の平和記念公園にある「貞子の像」とはまったく関係はありません。 その格好からして、竜ヶ岩洞の開発に関わったことは想像できると思いますけど、地元ではそこそこ有名です。それから、今回の日記のカテゴリーが「人物伝」になっているということは……… そうです 今回はこちらの戸田貞雄さんを採り挙げさせていただきます。彼のことを掘り下げていくためにも、竜ヶ岩洞とその出口に直結している洞窟資料館に入っていきたいのですけど………
その間、ワンコは入場券売り場に頼めば、その横にあるワンコ預かり所に無料で置いていけるようになっています。 そのカギはスタッフの方が持っていてくれるので、安心して洞窟や売店を散策することができるのですよ。 それよりも、いつの間にか箔のケージが「直親の館」、波のほうは「直盛の館」となっていましたよ。とにかく私の取材が終わるまで、箔波ちゃはそこでおとなしく待っていてくださいませ。
竜ヶ岩洞の売店では、「竜ヶ岩洞物語」という漫画が販売されています。 最近増補改訂(ページ数増し)されたのですけど、価格は500円(税込)のまま据え置かれました。気になるその内容は………
戸田貞雄さんを中心とした、竜ヶ岩洞の開発記なのですけど、その中では彼の生いたちについても触れています。
貞雄さんは明治40年(1907年)10月に、静岡県引佐郡奥山村(現在の浜松市北区引佐町)に生まれました。彼が小さい頃に父親の店が倒産したこともあって、貧しい生活を余儀なくされました。昭和19年(1944年)8月には軍に召集されて中国に渡り、終戦後もしばらくはそちらで過ごしました。その後は材木業を営み、さらに58歳の頃には観光事業に携わり、奥山方広寺の門前に桜の名所としても知られている奥山公園を、その上にはキジ料理やジンギスカン鍋が食べられる山の家(きじ亭)を、そのまたさらに山の上には箔波日記にも出てきた奥山高原を、それぞれ整備しました。
その一方でその頃、現在竜ヶ岩洞がある竜ヶ石山のあたりは、殺風景な採石場の跡でした。 この状態では、戦隊ヒーローものの決闘シーンぐらいにしか使えませんよね。以前からそこには鍾乳洞があると云われていたのですけど、本格的な調査はされていませんでした。写真の左下のあたりに、それっぽい穴があるのがおわかりでしょうか?
貞雄さんはその山の一帯を買い取り、「私を育ててくれたこの地域に、恩返しをしたい」と、観光地化して客を呼び込むするためにも、洞窟の調査を始めることにしました。 それは昭和56年(1981年)6月、彼が74歳のときのことでした。
洞窟の調査は暗くてジメジメして気味が悪いということもあって、賛同してくれる人はなく、まわりにも反対され、貞雄さんは単独でやることに。 しかし1人だけでは、なかなか作業は進みませんでした。
そういえば、私は小さい頃に父から「変わり者のおじいさんが、洞窟を掘っている」という話を聞いたことがあります。
そんなある日のこと、ケービング(洞窟探検)を趣味にしている小野寺と竹内という2人の青年が、竜ヶ石山の洞窟内にこっそりと潜り込み、その先で彼らは鍾乳石のある鍾乳洞を発見しました。 その帰り道で、たまたま彼らと行き会った貞雄さんは「君たち、そこで何をしているんだね?」と質問してきました。「この山の持ち主でしたか スミマセン、無断で入ってしまって 」彼らは怒られると思ったのですけど「穴の中には何かあったのかい?詳しく聞かせてくれないか」 貞雄さんは目を輝かせて食い付いてきました。それ以来、小野寺と竹内は貞雄さんとともに洞窟の調査をすることになりました。
強力な味方をつけたこともあって、狭い隙間に潜り込んだり、溜まった土砂を掻き出したり、……… と、調査は順調に進んでいきました。 さらにその後にあった新たな発見も手伝って、協力者は増えていきました。
そして、彼らは鍾乳洞の最深部で落差30mの洞内滝を発見したのです。 その頃の貞雄さんは資金繰りに困っていたのですけど、その滝を地元の銀行員に見せたら「これは観光客を呼び込める」融資がまとまりました。 そして………
調査を開始してから約2年後の昭和58年(1983年)8月8日に、竜ヶ岩洞はオープンしました。 竜ヶ石山にあるのですけど、貞雄さんは敢えて「石より岩のほうが重みがある」と、「竜ヶ岩洞」と書いても「りゅうがしどう」と読む名前にしました。
そのオープン当日、駐車場に入りきれなくなるほど観光客が押し寄せ、まわりののどかな山間部の田舎道が渋滞を起こすほどだったそうです。
それから3年後の昭和61年(1986年)9月10日、戸田貞雄さんは78年の生涯を終えました。奇しくも、私たちが竜ヶ岩洞を訪れたのは、彼の命日となるその日でした。しかし、それっぽい行事のようなものはおこなわれていませんでした。オープンから30年を過ぎ、現在竜ヶ岩洞の所長職は貞雄さんの孫が受け継いでいます。
生前の貞雄さんは、「サーチャ」という愛称で呼ばれていたみたいですね。頑張り屋のサーチャ。実は、そんな彼をより身近に感じられる肖像が、銅像の他にももう1ヶ所あるのですよ。 「顔ハメ大賞に輝く」という「日本一の顔ハメ」とは………
こちらのことにございます。 竜ヶ岩洞の開発作業に勤しむ貞雄さんと、お手伝いのお婆さんの姿を描いた、この書き割り。ヘルメットが半分出ているところも、よりリアルです。それから、それらはちょっと奥まったところにあるので、さらし者になる心配もほとんどありません。このような配慮も、日本一に起因しているのかも知れません。 そんな貞雄さんとお婆さん(妻ではない)に敬意を表して………
まずは箔に貞雄さんになりきってもらいました。顔を出した瞬間、まわりから「わぁ~、カワイイ」という声が聞こえてきたのも、嬉しいですね。
そうしたら、次は波婆さんの出番です。今回は私1人が連れてきたので、いっぺんにはできませんでした。それでも、これはけっこうハマりますよ。
あとは、売店で買ってきた地元産の引佐牛乳を使ったアイスを食べて、締めることにしましょう。 戸田貞雄さんらが開発した歴史を知ると、竜ヶ岩洞は今までとはまた違ったように見え、ありがたみも増します。こちらでは、今日に至るまでに様々なドラマがあったのですね。 「竜ヶ岩洞物語」にはそれらの話が詰まっていて、読み進めていくと、彼らの熱い思いも伝わってきます。こちらでしか扱ってないので、竜ヶ岩洞にお越しになったらぜひ1冊お求めくださいませ。
竜ヶ岩洞に行ったら、まずは顔ハメから入りたいという方は、こちらに投票してやってください。
私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭による初秋の奥浜名湖散策は、今回が最終話となります。 前回の日記の最後に予告した通り、私たちは観光鍾乳洞のR洞に向かいました。
※すでに今回の日記のタイトルにも出ているので、伏せ字にする必要はないのでは?(編集部注)
ということで、やって来ましたよ 竜ヶ岩洞に。こちらは浜松市北区引佐(いなさ)町にある観光鍾乳洞で、以前から龍譚寺と並んで、奥浜名湖の人気スポットとなっております。 とはいっても、オープンしてから30年あまりと、それほど古くはないのですよ。それでも、その年月の間に鍾乳洞の入口周辺にも「これは………」というものが多数できてきたので、まずはそれらを見ていこうと思います。
屋根のある休憩スペースの脇には、古びた鉄橋と線路みたいなものが置かれています。昭和38年(1963年)に廃線になるまで、浜松市の中心部から奥山方広寺の門前までを結ぶ、総延長25,7kmにも及ぶ奥山線の軽便列車がこの地域を走っていました。 (※全面廃線は昭和39年)その遺構の一部がこちらに移されたのであります。
………とせっかく感心したのに、その隣にはなぜかメリーゴーランドの馬車みたいなものがあるのですよ。 しかも「定員4人」の注意書まで付けられていて。
さらにその一角ではミカンの皮アートに勤しむ方がいて、「おんな城主 直虎」のオープニングに出てくるような、花が咲く兜も置かれていました。
それだけではなく、砦の木柵をモチーフにした、ラブラブな撮影スポットも設けられていて。「顔出し無料」となっていますけど、カップルの2人がハートのあたりに顔を持っていくようにするのでしょうか? 箔と波はそこには届かないので、下のすき間から顔を出してくださいませ。
こちらの「ようきた洞」は、竜ヶ岩洞から流れ出る水に足を浸すところです。 今から10年前の平成19年(2007年)に完成し、以来夏場には涼むことができるようになりました。いや、冷やっこいを通り越してむしろ寒いぐらいで、できることならスイカやビールを冷やしたいです。ただし、こちらはワンコとは一緒に入れないので、ご注意くださいませ。
それから洞窟の入口の横には、竜ヶ岩洞だけにモザイカルチャーな竜があって、さらにこの竜はときおり目が赤く光って口から白いミスト状の霧を吐くのですよ カメラをお持ちの方がこの瞬間に出くわしたら、ぜひ前へお進みくださいませ。
その近くには、作業服姿でヘルメットをかぶっているおじさんの銅像があります。 その台座には「貞雄の像」と刻まれているのですけど、広島の平和記念公園にある「貞子の像」とはまったく関係はありません。 その格好からして、竜ヶ岩洞の開発に関わったことは想像できると思いますけど、地元ではそこそこ有名です。それから、今回の日記のカテゴリーが「人物伝」になっているということは……… そうです 今回はこちらの戸田貞雄さんを採り挙げさせていただきます。彼のことを掘り下げていくためにも、竜ヶ岩洞とその出口に直結している洞窟資料館に入っていきたいのですけど………
その間、ワンコは入場券売り場に頼めば、その横にあるワンコ預かり所に無料で置いていけるようになっています。 そのカギはスタッフの方が持っていてくれるので、安心して洞窟や売店を散策することができるのですよ。 それよりも、いつの間にか箔のケージが「直親の館」、波のほうは「直盛の館」となっていましたよ。とにかく私の取材が終わるまで、箔波ちゃはそこでおとなしく待っていてくださいませ。
竜ヶ岩洞の売店では、「竜ヶ岩洞物語」という漫画が販売されています。 最近増補改訂(ページ数増し)されたのですけど、価格は500円(税込)のまま据え置かれました。気になるその内容は………
戸田貞雄さんを中心とした、竜ヶ岩洞の開発記なのですけど、その中では彼の生いたちについても触れています。
貞雄さんは明治40年(1907年)10月に、静岡県引佐郡奥山村(現在の浜松市北区引佐町)に生まれました。彼が小さい頃に父親の店が倒産したこともあって、貧しい生活を余儀なくされました。昭和19年(1944年)8月には軍に召集されて中国に渡り、終戦後もしばらくはそちらで過ごしました。その後は材木業を営み、さらに58歳の頃には観光事業に携わり、奥山方広寺の門前に桜の名所としても知られている奥山公園を、その上にはキジ料理やジンギスカン鍋が食べられる山の家(きじ亭)を、そのまたさらに山の上には箔波日記にも出てきた奥山高原を、それぞれ整備しました。
その一方でその頃、現在竜ヶ岩洞がある竜ヶ石山のあたりは、殺風景な採石場の跡でした。 この状態では、戦隊ヒーローものの決闘シーンぐらいにしか使えませんよね。以前からそこには鍾乳洞があると云われていたのですけど、本格的な調査はされていませんでした。写真の左下のあたりに、それっぽい穴があるのがおわかりでしょうか?
貞雄さんはその山の一帯を買い取り、「私を育ててくれたこの地域に、恩返しをしたい」と、観光地化して客を呼び込むするためにも、洞窟の調査を始めることにしました。 それは昭和56年(1981年)6月、彼が74歳のときのことでした。
洞窟の調査は暗くてジメジメして気味が悪いということもあって、賛同してくれる人はなく、まわりにも反対され、貞雄さんは単独でやることに。 しかし1人だけでは、なかなか作業は進みませんでした。
そういえば、私は小さい頃に父から「変わり者のおじいさんが、洞窟を掘っている」という話を聞いたことがあります。
そんなある日のこと、ケービング(洞窟探検)を趣味にしている小野寺と竹内という2人の青年が、竜ヶ石山の洞窟内にこっそりと潜り込み、その先で彼らは鍾乳石のある鍾乳洞を発見しました。 その帰り道で、たまたま彼らと行き会った貞雄さんは「君たち、そこで何をしているんだね?」と質問してきました。「この山の持ち主でしたか スミマセン、無断で入ってしまって 」彼らは怒られると思ったのですけど「穴の中には何かあったのかい?詳しく聞かせてくれないか」 貞雄さんは目を輝かせて食い付いてきました。それ以来、小野寺と竹内は貞雄さんとともに洞窟の調査をすることになりました。
強力な味方をつけたこともあって、狭い隙間に潜り込んだり、溜まった土砂を掻き出したり、……… と、調査は順調に進んでいきました。 さらにその後にあった新たな発見も手伝って、協力者は増えていきました。
そして、彼らは鍾乳洞の最深部で落差30mの洞内滝を発見したのです。 その頃の貞雄さんは資金繰りに困っていたのですけど、その滝を地元の銀行員に見せたら「これは観光客を呼び込める」融資がまとまりました。 そして………
調査を開始してから約2年後の昭和58年(1983年)8月8日に、竜ヶ岩洞はオープンしました。 竜ヶ石山にあるのですけど、貞雄さんは敢えて「石より岩のほうが重みがある」と、「竜ヶ岩洞」と書いても「りゅうがしどう」と読む名前にしました。
そのオープン当日、駐車場に入りきれなくなるほど観光客が押し寄せ、まわりののどかな山間部の田舎道が渋滞を起こすほどだったそうです。
それから3年後の昭和61年(1986年)9月10日、戸田貞雄さんは78年の生涯を終えました。奇しくも、私たちが竜ヶ岩洞を訪れたのは、彼の命日となるその日でした。しかし、それっぽい行事のようなものはおこなわれていませんでした。オープンから30年を過ぎ、現在竜ヶ岩洞の所長職は貞雄さんの孫が受け継いでいます。
生前の貞雄さんは、「サーチャ」という愛称で呼ばれていたみたいですね。頑張り屋のサーチャ。実は、そんな彼をより身近に感じられる肖像が、銅像の他にももう1ヶ所あるのですよ。 「顔ハメ大賞に輝く」という「日本一の顔ハメ」とは………
こちらのことにございます。 竜ヶ岩洞の開発作業に勤しむ貞雄さんと、お手伝いのお婆さんの姿を描いた、この書き割り。ヘルメットが半分出ているところも、よりリアルです。それから、それらはちょっと奥まったところにあるので、さらし者になる心配もほとんどありません。このような配慮も、日本一に起因しているのかも知れません。 そんな貞雄さんとお婆さん(妻ではない)に敬意を表して………
まずは箔に貞雄さんになりきってもらいました。顔を出した瞬間、まわりから「わぁ~、カワイイ」という声が聞こえてきたのも、嬉しいですね。
そうしたら、次は波婆さんの出番です。今回は私1人が連れてきたので、いっぺんにはできませんでした。それでも、これはけっこうハマりますよ。
あとは、売店で買ってきた地元産の引佐牛乳を使ったアイスを食べて、締めることにしましょう。 戸田貞雄さんらが開発した歴史を知ると、竜ヶ岩洞は今までとはまた違ったように見え、ありがたみも増します。こちらでは、今日に至るまでに様々なドラマがあったのですね。 「竜ヶ岩洞物語」にはそれらの話が詰まっていて、読み進めていくと、彼らの熱い思いも伝わってきます。こちらでしか扱ってないので、竜ヶ岩洞にお越しになったらぜひ1冊お求めくださいませ。
竜ヶ岩洞に行ったら、まずは顔ハメから入りたいという方は、こちらに投票してやってください。