こんばんは、白黒茶々です。
前回から、私とたつぴは会津若松市の飯盛山に来ています。
飯盛山といえば、さざえ堂はハズせないのですけど、白虎隊のことも忘れてはいけませんよね。ということで、これから彼らの痕跡をたどっていくことにします。

会津若松駅前には隊員の銅像があるのですけど、まずはこれを見ながら白虎隊について説明させていただきます。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥を悟り、3月10日に改めて軍隊の編成替えをおこないました。
そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとにした、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の4隊でした。
それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって「士中」「寄合」「足軽」の3隊に分けられました。白虎隊は14~17歳の少年兵で編成され、当初は総勢343名にもなりました。
そのうち戸ノ口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした。しかし、明治元年(1868年)8月23日、戸ノ口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走。そのうちの17名は、無事に鶴ヶ城(※正式名は会津若松城なのですけど、別名のこちらのほうが有名で、地元民にもそのように呼ばれているので、こちらでは『鶴ヶ城』とさせていただきます)に入城。残りの20名は負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。

その時彼らは、猪苗代湖からの灌漑として掘られたこちらの戸ノ口堰洞穴を通ってきたと云われています。

飯盛山の中腹をさらに南の方に進んでいき、行き止まったところには、このような慰霊碑と石像があります。
ここからは………

鶴ヶ城が……… そこそこ、白いポールに重なるようにして復興天守が見えるでしょ?私は最初は「このポールはお城にかぶるから邪魔だな」と思っていたのですけど、それがあったおかげですぐにお城を見つけることができたので、見直しました。
それに、ちょっと場所を変えれば、ポールから分離した鶴ヶ城を見ることもできますし。

話はもとに戻って、先述した飯盛山に逃れてきた白虎隊の20人は、そこから見えた光景に愕然としました。「お城が燃えている………」実際には鶴ヶ城は無事で、まわりの武家屋敷などに火が回っていたのですけど、彼らは鶴ヶ城が落城して黒煙と炎に包まれたと思い込み、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったといち早く負けを悟り、次々と自らの命を絶っていきました。
………と、その日まで私もそうなったものだと思い込んでいたのですけど、違っていました。
翌日に乗ったタクシーの運転手さんの話から、新事実がわかったのです。
生き残った隊員の証言などによると、飯盛山に逃れてきた白虎隊の20人は、すでに行き場を失っていて精魂尽き果てたことから、鶴ヶ城が落ちていようがいまいが関係なく、お城が見えるところで自害するつもりでいたそうです。最年長でも17歳なんて、たつぴと同じ年齢じゃないですか。
彼らが自刃したところから、北側に戻っていったところには………

このような広場があります。
飯盛山の階段を登り詰めると、こちらに出るのですけど、さらにその奥には………

白虎隊士19名のお墓があります。彼らは、新政府側からしたら朝廷に叛いた逆賊という扱いを受け、その遺体を埋葬することも許されませんでした。それは、そのことを不憫に思い、秘かに弔おうとした人まで罪に問われるほど徹底していました。
それでも、明治2年(1869年)になってようやくお墓を造ることを許され、白虎隊士たちはこの場所で静かに眠っています。そんな彼らを供養するために手向けられた線香の煙が、絶えずに上がっていました。「飯盛山で20名の白虎隊士が自害したハズなのに、1人足りないのでは?」という、そこのアナタ。いいご質問です。
ここでまた飯盛山内を移動させていただきます。

場所が前後するのですけど、白虎隊士のお墓と彼らが自刃した場所の間には、飯沼貞雄の墓碑があります。飯沼貞吉(のちに貞雄に改名)は他の隊員たちと一緒に自刃したのですけど、ただ一人蘇生し、印出新蔵の妻ハツに助けられました。
その後、彼は逓信省の技師となり、仙台の地で国の通信事業に多大な貢献を果たしました。そして、昭和6年(1931年)に78年の生涯を閉じました。彼は白虎隊の唯一の生き残りで、隊のことは彼の記述などによって後の世にまで伝えられました。
戊辰戦役90年祭がおこなわれた昭和32年(1957年)に、貞雄の遺言などにより、多くの友が眠るこの地に墓碑が建てられ、彼の遺髪や歯が納められました。
私は、そんな彼らを悼んでから「今から喜多方ラーメンを食べに行く」ということを誓いました。
喜多方ラーメンの本場の喜多方市は、会津若松からは列車で30分ほどで行けるので、私はそれも旅行のコースに入れていました。

………ということで、やって来ましたよ
喜多方駅に。その駅で、老麺会に加盟している喜多方ラーメンの名店が載っている食べ歩きマップをもらい、それを頼りに私たちは市内に繰り出していきました。まずは老舗の有名店のNに行ってみましょう。そうしたら………

まだ17時台なのに、材料切れとなって閉店していました。
ま、まあ、人気店ならよくあることですし、次に行ってみましょう。

ところが、私たちが次に行き着いたHも、その近くにあるK軒も、閉まっていたのです。
まだ閉店時間になっていないというのに………
それでも、ここまで来たらあきらめるワケにはいきません
私たちはマップを頼りに、手当たりしだいにラーメン屋を訪ねていきました。

4軒、5軒、6軒、……… しかし、どのお店も早仕舞いしていて、なかなかラーメンにありつくことができませんでした。
お腹が空いて足も疲れてきたので、早くラーメンを食べたい。そのような中で………

まだ人の気配がするお店に行き着きました。今度こそ、私たちが本場の喜多方ラーメンを初めて食べることになる、記念すべき場所となりそうです
まずはお店の外観を撮っておいてから、その戸を開けて……… あれ?、カギがかかっていて開かないぞ。
中から人の話し声や調理の音らしきものが聞こえるのに、入れないなんて……… こういうの、かなりの失望感に襲われるので、やめてもらえませんか?
そうしていくうちに、片付けをしているお店を見付けました。「ムリを承知で食べさせてくれ」なんてことは言いません。
せめて話だけでも聞かせてください。「もう終わっていますよね?」「すみません、終わっちゃいました」それだけならともかく「もうやっている店はないと思いますよ」私たちに追い討ちをかけるような一言を。「そ、そんな………」
これ以上探しても、徒労感と空腹感が増えるだけとなりそうなので、私たちは駅の方に引き返すことにしました。
その途中にまだやっているお店があったら、いや、そう簡単に見つかることはないでしょう。

………なんて言いながら、大通りに入る角を曲がったら、営業中ののぼりが上がっているお店がありましたよ
うおおおぉ~~~、喜多方ラーメンキターーー
10軒目にして、やっと巡り逢えましたよ。
そのお店の名前は蔵美(くらよし)さんといって、ラーメンマップの案内には「『安くて旨い』と評判の店。人気の理由は、店主が時間をかけて丹精込めて作り上げたどこか懐かしくやさしい味わいにある。特にスープは、豚骨と鶏ガラ、昆布に煮干し、そのほか様々な野菜を使用し、甘みとコクのある味わいになっている。」とありました。
店内は混んでいたのですけど、私たちはなんとか座ることができ、「目前で売り切れ」なんていう事態にも遭わずに済みました。また、有名店とはいっても偉ぶることは全くなく、親切に対応してくださりました。
そのような中でしばらく待っていたら………

待望の喜多方ラーメンが来ましたよ
ちなみに私はお腹が空いていたので、チャーシュー麺に小ライスを付けました。そうしたら、いっただきま~す
ずずずっ………

うむ
喜多方ラーメン特有の縮れた太うち麺に、素朴ながらも味わい深い醤油味のスープが絡んで実に美味しい
私はこれを、麺・麺・スープ・ご飯や、麺・スープ・チャーシュー・ご飯とやったりして、いろんなパターンで楽しみました。蔵美さん、美味しいラーメンをありがとうございました。おかげで心もお腹も満たすことができ、充実した気分でお店を出ることができましたよ。

私たちは再び列車に乗って、会津若松市に帰還。
写真は翌朝のものなのですけど、その駅前にある駅前フジグランドホテルが、その日の宿となりました。

2人用のそのツインルームが、1泊朝食付きで8800円(ポイント利用で8300円)と、かなり格安でした。
ホテル内に大浴場のようなものはないのですけど………

近くにある、日帰り温泉の富士の湯と提携していて、そこの入浴券も付いてきました。
こちらは通常の湯舟だけではなく、泡風呂、薬湯、壺風呂、黄金風呂、………など、種類が充実しておりました。

その風呂上がりには、入浴券に含まれている館内着を着て、コーラで乾杯
キリがいいので、今回はこのあたりで締めさせていただきます。今回の二人旅の最終話となる次回は、翌日に会津若松市内を観光した様子などをお伝えします。

「喜多方ラーメンおあずけレポート」に、ラーメン食べたい中枢を刺激された方は、こちらに投票してやってください。
前回から、私とたつぴは会津若松市の飯盛山に来ています。



会津若松駅前には隊員の銅像があるのですけど、まずはこれを見ながら白虎隊について説明させていただきます。

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥を悟り、3月10日に改めて軍隊の編成替えをおこないました。
そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとにした、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の4隊でした。




その時彼らは、猪苗代湖からの灌漑として掘られたこちらの戸ノ口堰洞穴を通ってきたと云われています。


飯盛山の中腹をさらに南の方に進んでいき、行き止まったところには、このような慰霊碑と石像があります。


鶴ヶ城が……… そこそこ、白いポールに重なるようにして復興天守が見えるでしょ?私は最初は「このポールはお城にかぶるから邪魔だな」と思っていたのですけど、それがあったおかげですぐにお城を見つけることができたので、見直しました。



話はもとに戻って、先述した飯盛山に逃れてきた白虎隊の20人は、そこから見えた光景に愕然としました。「お城が燃えている………」実際には鶴ヶ城は無事で、まわりの武家屋敷などに火が回っていたのですけど、彼らは鶴ヶ城が落城して黒煙と炎に包まれたと思い込み、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったといち早く負けを悟り、次々と自らの命を絶っていきました。

………と、その日まで私もそうなったものだと思い込んでいたのですけど、違っていました。



彼らが自刃したところから、北側に戻っていったところには………

このような広場があります。


白虎隊士19名のお墓があります。彼らは、新政府側からしたら朝廷に叛いた逆賊という扱いを受け、その遺体を埋葬することも許されませんでした。それは、そのことを不憫に思い、秘かに弔おうとした人まで罪に問われるほど徹底していました。

それでも、明治2年(1869年)になってようやくお墓を造ることを許され、白虎隊士たちはこの場所で静かに眠っています。そんな彼らを供養するために手向けられた線香の煙が、絶えずに上がっていました。「飯盛山で20名の白虎隊士が自害したハズなのに、1人足りないのでは?」という、そこのアナタ。いいご質問です。


場所が前後するのですけど、白虎隊士のお墓と彼らが自刃した場所の間には、飯沼貞雄の墓碑があります。飯沼貞吉(のちに貞雄に改名)は他の隊員たちと一緒に自刃したのですけど、ただ一人蘇生し、印出新蔵の妻ハツに助けられました。


戊辰戦役90年祭がおこなわれた昭和32年(1957年)に、貞雄の遺言などにより、多くの友が眠るこの地に墓碑が建てられ、彼の遺髪や歯が納められました。
私は、そんな彼らを悼んでから「今から喜多方ラーメンを食べに行く」ということを誓いました。



………ということで、やって来ましたよ


まだ17時台なのに、材料切れとなって閉店していました。



ところが、私たちが次に行き着いたHも、その近くにあるK軒も、閉まっていたのです。

それでも、ここまで来たらあきらめるワケにはいきません



4軒、5軒、6軒、……… しかし、どのお店も早仕舞いしていて、なかなかラーメンにありつくことができませんでした。


まだ人の気配がするお店に行き着きました。今度こそ、私たちが本場の喜多方ラーメンを初めて食べることになる、記念すべき場所となりそうです


中から人の話し声や調理の音らしきものが聞こえるのに、入れないなんて……… こういうの、かなりの失望感に襲われるので、やめてもらえませんか?

そうしていくうちに、片付けをしているお店を見付けました。「ムリを承知で食べさせてくれ」なんてことは言いません。


これ以上探しても、徒労感と空腹感が増えるだけとなりそうなので、私たちは駅の方に引き返すことにしました。


………なんて言いながら、大通りに入る角を曲がったら、営業中ののぼりが上がっているお店がありましたよ



そのお店の名前は蔵美(くらよし)さんといって、ラーメンマップの案内には「『安くて旨い』と評判の店。人気の理由は、店主が時間をかけて丹精込めて作り上げたどこか懐かしくやさしい味わいにある。特にスープは、豚骨と鶏ガラ、昆布に煮干し、そのほか様々な野菜を使用し、甘みとコクのある味わいになっている。」とありました。

店内は混んでいたのですけど、私たちはなんとか座ることができ、「目前で売り切れ」なんていう事態にも遭わずに済みました。また、有名店とはいっても偉ぶることは全くなく、親切に対応してくださりました。


待望の喜多方ラーメンが来ましたよ



うむ




私たちは再び列車に乗って、会津若松市に帰還。


2人用のそのツインルームが、1泊朝食付きで8800円(ポイント利用で8300円)と、かなり格安でした。


近くにある、日帰り温泉の富士の湯と提携していて、そこの入浴券も付いてきました。



その風呂上がりには、入浴券に含まれている館内着を着て、コーラで乾杯






喜多方ラーメン、美味しそうです~!ヽ(^o^)丿
それにしても…ラーメン屋さん、閉まるのが早すぎですよね?
読んでいてビックリしました!
私の方の夜9時閉店のところでも「早すぎ~」って思っていたのですが…(^_^;)
無事、食することができて良かったです♪(^^)/
そのラーメン屋といえば、一般的には夜遅くまでやっているというイメージですけど、喜多方のお店は特別でした。
そのぶん、行き着くことができたときのありがたみは増しました。