波と狛のつれづれ日記

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世紀の大発見!?浜松城とリアル家康像

2015-08-19 00:21:02 | 探求シリーズ
こんばんは、白黒茶々です。
白黒茶々地方にある浜松城は、これまで箔波日記にもしばしば登場してきました。最近、そのお城で定説を覆すような発見があったというので、私は喜び勇んで訪れることにしました。 ただし今回は炎天下なうえに、室内展示の見学がメインなので、箔と波には最後のあたりに登場してもらうことにします。



………ということで、やって来ましたよ 浜松城に。



こちらの案内には「家康公の城展示館」とありますね。 このお城は、以前からあった今川方の引馬城を、徳川家康が元亀元年(1570年)に大改築して築いたとされてきました。少し前の解説本には、「荒々しい野面積みの石垣は、家康の頃からあった」と書かれていましたけど、その後、家康のあとに入城した堀尾吉晴が築いたものと判明。 そうしたら、家康の頃の浜松城はどのようなものだったのか?ということになります。



その浜松城の天守曲輪(てんしゅくるわ)の南側で、家康が築いたと思われるお堀の跡が発掘されたのですよ



地上からもその遺構の一部を見学できるのですけど………



こちらの仮設ながらも冷房の効いた展示施設では、その断面の標本や、そこで出土した茶碗などの資料を見ることができるのですよ そして、今までの研究や今回の発掘調査によって、家康時代の浜松城の様子がかなりわかってきました。 気になるその実像は………



う~む……… お城のシンボルともいうべき天守や石垣がなくて、土を固めて築いた土塁の上に木柵や板葺きの屋形や物見櫓などがあって、お城というよりは砦(とりで)といった趣ですね。 それでも、その時代のお城はみんなしてこのような感じだったのですよ。元亀3年(1572年)に三方ヶ原の合戦で大勝した武田信玄は、その勢いで浜松城を攻めると思われたのですけど、「この城は家康が堅固に改築したこともあって、落とすには時間がかかり過ぎてかなわん」と、スルーしたそうです。

ちなみに高い石垣や深い堀、瓦葺きの城郭建築が登場するのは、鉄砲が武器の主流となり、城攻めのスタイルが変わった16世紀末あたりからで、織田信長の安土城が手本となったそうです。
話はもとに戻って「家康公の城」の展示は9月14日まで、屋内展示のほうは10月25日までの土日祝日におこなわれています。



その徳川家康の絵姿は、一般に老年期に入ってからのものが出回っています。しかし、彼はそのあたりになるとシワが増えたうえに小太りしだして、貫禄ありありの姿となっていました。 そうしたら、若い頃の家康公はどのような姿かたちをしていたのでしょうか?



浜松城の本丸跡には、「若き日の徳川家康公」という銅像があります。彼は29歳から46歳までの17年間こちらのお城に在城したので、こちらの像はその頃の姿をイメージしたものと思われます。 彼はそのお城で、三方ヶ原の敗戦、妻子の処分命令、秀吉との対決と和睦などの苦難を経て、出世の道を歩んでいったのです。しかし、彼の若い頃の肖像画のようなものはほとんど残っていません。
そこで、家康研究の第一人者ともいうべき静岡文化芸術大学教授の磯田道史氏の監修のもと、特殊メイクアーティストのJIRO氏が手掛け、老年期の家康像から割り出し、再現されたのが………



模擬天守内に展示されている、こちらの像にございます。 う~む……… 若い頃の家康さんは、このような姿をしていたのですね。 ちなみにこの像は、出陣前の血気盛んな彼の姿を写しています。 さらに近付いてみると………



今にも動き出しそうなくらい、リアルですね。 奥二重の大きな目に、真一文字に閉じた口。それに、ヒゲや毛穴まで忠実に再現されていますよ。三方ヶ原に出陣するときも、このような表情をしていたのでしょうね。しかし家康はその戦で、信玄に完膚なきまでに叩きのめされてしまいます。 命からがら浜松城に逃げ帰った彼は、その後どのような行動を取ったのかというと……… 戦に負けた悔しさと恐怖に怯えた感情が入り交じったその姿を、なんと絵師に描かせたのです。



その情けない姿の絵は「しかみ像」といい、家康は冷静さを失って多くの城兵を犠牲にしてしまった自分を戒めるために、生涯この姿絵を手元に置いていたそうです。



実はその「しかみ像」のほうも最近、3Dというかリアルに再現されたのですよ 昨年復元された、こちらの天守門の中に………



ありましたよ 模擬天守内の出陣前の血気盛んな姿とはうって変わって、いかにもというぐらい敗軍の将の姿を表しておられる。



目をカッと見開き、歯を食いしばっているだけではなく、右手は震える足を抑え、左手は首がつながっていることを確認してるようですね。果たして、これ以上の悔しさと恐怖を表した姿があるのでしょうか?
しかし、それだけではありません。これから巻き起こるであろう「しかみ像」ブームを先どって………



天守門の外に、しかみ像の書き割りが設置されているのですよ これはもう、顔を突っ込むしかありません。ただし、その際にはそれっぽい表情をしなければならないので、お気を付けくださいませ
これらのように、現在ではさまざまな徳川家康像が出回っています。さらに、それらに加えて………



昨今では、家康を現代によみがえらせたという出世大名家康くんが活躍していて………



歴女が増えるきっかけにもなっている戦国無双の家康は、かなり独創(独走?)しているような……… それでも、彼女らの心情を理解している箔母さんによると、彼女らはどのような家康像を見ても、脳内変換で自動的にこのような姿にしてしまうそうです。 たとえそれが、家康くんだとしても………

そういえば、箔と波の出番がまだでしたね。さらに、老年期の家康像は顔の部分が抜けるようになっているので………



双方を合体させてみました。 こちらは徳川家康ならぬ、箔川家康ってトコでしょうか?私が言うのもナンですけど、けっこうサマになっていますよ。



そうしたら、波川家康も。 いや、徳波家康、徳川波康、徳川家波、……… こちらは名前の中にうまくはめ込めないのですけど、彼女にも征夷大将軍になってもらいました。 さらに彼らには、浜松城の天守門前にある「しかみ像」の書き割りも、やってもらいたいですね。ちなみに浜松城でのリアル家康像とリアルしかみ像の展示は、10月25日までおこなわれています。 夢にまで出てきそうなほどリアルな家康像を拝んでおきたいという方は、その日までに浜松城にお越しくださいませ


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 リアル家康像に一目惚れしてしまった方は、こちらに投票してやってください。

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2 コメント

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Unknown (ももにゃん)
2015-08-21 10:41:06
白黒茶々さん こんにちは^o^
浜松城の詳しいレポート、さすがおしろ通ですね(*^^*)
私は歴史に疎い割には大河ドラマが好きです!
特に戦後時代の家康、信長、秀吉の頃のものが

箔川家康
波川家康…徳波家康、徳川波康、徳川家波…爆笑しましたよー
vivi川Lamb康←やはり横文字では 様になりませんね~^_^;
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ももにゃんさん♪ (白黒茶々)
2015-08-22 01:25:01
ももにゃんさん、こんばんは~
開発の波に押されて、かつてのものよりこじんまりとしてしまった浜松城ですけど、最近になってその跡からいろんな遺構が発見されるようになりました。 大河ドラマでも、戦国時代のあたりはいいですね。 来年は、真田信繁(雪村)を主人公にした「真田丸」ですし。今から楽しみにしています。

昨年の秋に関ヶ原に行ったときに、波が石田光波(みつなみ)でうまくハマっただけに、今回は苦闘してしまいました。
vivi川Lamb康公は、創作歌舞伎あたりに出てきそうないいお名前ですよ。
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