波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

もう一人の女城主・お田鶴の方

2016-02-03 00:33:10 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
「女城主」と呼ばれるお姫様の話は、全国各地にありますよね。 岐阜県の岩村が有名ですけど、来年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公こと井伊直虎(次郎法師)も、浜名湖の北部にある井伊谷城の城主となったことがあります。その浜松市にはもう一人、女城主となった女性がいるのですよ。 本人には失礼ですけど、かなりローカルなその人物の名前は……… お田鶴(たづ)の方といいます。今回、私は箔と波を引き連れて、彼女の痕跡を歩きながら、その生涯をたどっていこうと思います。



浜松城の東北方面、無料駐車場からは国道152号線を隔てた東側には、森の茂みに覆われた小丘が見えています。



そこにずいずいと迫っていくと、現在その場所には………



きらびやかな彩飾や彫刻で飾られ、まる1日眺めていても飽きることのない陽明門。



最近修理を終えたばかりで、金箔の輝きがまばゆい権現作りの拝殿や本殿。



それに、見ざる言わざる聞かざるの「三猿」の彫刻で有名な神厩舎。



………などの建築物を有する日光東照宮とは違う、こじんまりとした東照宮が構えられているのですよ。 ちなみにこのあたりは曳馬(引馬、引間)城の跡で、東照宮は明治時代に建立されたのですけど、第二次世界対戦中の空襲によって焼失。現在の社殿は、昭和30年代にコンクリート製で建てられたものであります。



曳馬城は16世紀初期に、今川氏によって築かれました。さらに永正11年(1514年)からは、飯尾氏が城主となります。浜松まつりの縁起にも出てくる飯尾豊前守連竜は、長男義広の誕生を祝って、その名を記した凧を城中高く揚げたと云われています。そんな彼の妻が、お田鶴の方なのですよ

お田鶴の方(以下、お田鶴とさせていただきます)は鵜殿長持の娘で、徳川家康の正室の築山御前とは母同士が義理の姉妹であり、幼名は築山殿が鶴姫であるのに対して、亀姫といったそうです。それだけではなく、青年期を同じ駿府で過ごした家康とも面識があるのに加えて、彼の初恋の相手だったという説もあるのですよ。 別々の道を歩むことになった二人。お田鶴はその後、今川氏の臣下の飯尾連竜に嫁ぐことに。

しかし、連竜は今川氏真に謀反の疑いをかけられ、永禄8年(1565年)に駿府に誘い込まれて殺害されてしまいます。 彼の嫡男の義広はまだ幼少だったので、母親のお田鶴の方が彼に代わって曳馬城の城主となりました。



このあたりで一旦こちらから離れて、次の目的地に向かわせていただきます。 曳馬城から程近いところには、玄黙口(元目口)なるものの案内が立っています。 このあたりにかつては浜松城の搦手門(裏門)がありました。元亀3年(1572年)の三方原の戦いで武田信玄軍に大敗した徳川家康は、逃げ帰った際にこちらから城内に入ったと云われています。 その案内に沿って、次のチェックポイントに向かいますよ ちなみに、私たちが目指しているのは……… そこにも記されているのですけど、椿姫観音というところであります。

今から15年以上も前のことになるのですけど「家康の散歩道」なる、浜松市内に点在する徳川家康にゆかりのある歴史ポイントを廻り歩くコースが整えられました。 ちなみに距離は、10kmほどです。そのことを記念しておこなわれたウォークイベントに、私は参加したことがあるのですよ。 その中に椿姫観音も含まれていたので、私にとってその観音様は、その時以来ということになります。それにしても………
あ、あれっ 確かこのあたりにあったと思うのですけど、なかなかそれっぽいお堂が見えてきませんね。それでも、ご心配には及びません。手元にあるスマホで検索すれば、しっかりと導いてくれるので。 「つばきひめ………」ポン(検索 )ところが、このようなときに限ってスマホは要領を得なくて、椿姫観音の場所をなかなか教えてくれませんでした。 それだけではなく、そのバッテリーのほうも果てそうですし。 そこにたどり着けなかったら、お田鶴の物語を続けられないというのに………



そのような調子で、箔と波を道連れにして小一時間歩き回ったのですけど、椿姫観音の「つ」の字も見付かりませんでした。 こうなったらやむを得ない ちょっと遠回りになるのですけど、かつて「家康の散歩道」のスタート地点だった「徳川秀忠公誕生の井戸」なるところに行けば、案内看板などの手がかりがあるかも知れません。



………ということで、やって来ましたよ 秀忠誕生井戸に。秀忠は徳川幕府の二代将軍で、浜松城下のこのあたりにあった屋敷で生まれました。ちなみに、彼の母親は西郷局(お愛の方)。誕生井戸は遠鉄の遠州病院前駅の片隅にあり、秀忠の産湯の水を汲んだとされる井戸のモニュメントなどがあります。
それから、私が推測した通り、そこにはわかりやすい案内看板がありましたよ 私たちの本来の目的地は、ちょっと北に外れた元魚町にあるみたいですね。 そこを目指して歩いていったら………



あ、ありましたよ 椿姫観音のお堂が。 街角にポツンとたたずむ小さなお堂。こちらにたどり着いたということで、お田鶴の方が曳馬城の城主となったところから話を続けさせていただきます。



永禄11年(1568年)、三河からこの地に進出してきた徳川家康はお田鶴に、城を明け渡せば、彼女や家来の身を厚遇すると持ちかけました。ところが、お田鶴は拒否したので、やむ無く家康は曳馬城を攻めることに。 築山殿も含めて、相手のことをよく知っているだけに、敵味方に別れて戦うのは、どのような心境だったのでしょうか?

お田鶴は侍女18人とともに戦ったものの、家康軍に対しては多勢に無勢。全員戦死してしまいました。 彼女は生年不詳なのですけど、築山殿と同世代だとしたら、20代中頃でその生涯を終えたことになります。
家康は彼女らの遺骸を町の外れに埋葬し、そこに塚を築きました。築山殿もその死を悼み、その塚に100本あまりの椿を植え、供養しました。塚にはやがて一面に赤い椿の花が咲いたことから、「椿姫塚」と呼ばれるようになりました。



後の世になって、椿の咲く塚があったあたりに椿姫を祀る椿姫観音堂が建てられました。 昭和19年(1944年)に建立されたものの、翌年の空襲によって焼失。現在の建物は、地元の有志たちによって昭和27年(1952年)に再建されたものです。ちょっと控えめサイズで、街中にひっそりと佇んでいます。



そこのご神体となる椿姫観音は、このようなお姿をしているみたいですね。なんか優しい表情をしていて、お田鶴の人柄を表しているように思えます。



それから、最近お田鶴の生きざまを描いた寸劇が公開され、お堂の中にはその時の記念写真も飾られていました。 出世大名家康くんと一緒というのが、なんとも言えませんね。 そうしたら今度は、彼女がどのような姿をしていたのか、気になりますよね。 しかし、肖像画の類いは残っていないのですよ。そこで、現代風に甦らせたのが………



こちらになります ………って、これはちょっとやり過ぎでは。 何ゆえにヘソ出し?確かに、「戦うお姫様」ではあるのですけど。そうしたら、やっぱり………



緋縅の鎧に白柄のなぎがた、丈なす黒髪に純白の鉢巻きのこの姿のお田鶴のほうを、私は応援したいです。 ちなみにこちらのイメージ作品も、同お堂内にあるどう



納得いくまで椿姫観音を参拝した私たちは、再び曳馬城跡の東照宮へ。 その周辺は入りくんでいて、お城の土塁やお堀の面影が残っているようです。その境内に最近、新たに銅像が設置されたというのですよ。 しかも、2体も もちろんこの機会に取材に行って、皆様にもお披露目しますよ。



まず1体目は、出陣前の血気盛んな若い頃の徳川家康です。こちらは昨秋に私が見に行った、リアル家康像を、そのまま銅像化させたみたいですね。 ちなみにこちらの像は、静岡文化芸術大学の磯田道史教授が監修されたとのことです。さらにもう1体のほうは………



こちらは、少年の像ですね。………って、お田鶴の方ではないのですか せっかく彼女のことで盛り上がったところなのに、空気読……… なんて言ったら、製作者たちに失礼ですよね。 これには、ある意図があってこの地にこの2体が置かれたのです。その謂れと、少年像の正体については、次回触れさせていただきます。


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