こんばんは、白黒茶々です。
前回からの続きで、私は箔や波と一緒に、曳馬城(引馬城、引間城)の跡にあるコンパクトサイズの東照宮に来ています。

その入口付近には、このような重みのある石碑が……… 「石だから、重いのは当然
」という突っ込みが入りそうですけど、ここでいう重みとは歴史とか霊魂のことです。

お田鶴の方が城主となって守った曳馬城は、徳川家康によって攻め落とされました。
しかし、そのお城は手狭ということもあって、家康は付近の丘陵や谷をたくみに利用し、曳馬城を取り込む形で新たなお城を築きました。
また、その頃は有力大名の間で地名変更ブームが起きていて、織田信長は井ノ口を岐阜と、羽柴(豊臣)秀吉は今浜を長浜と、それぞれ改めました。家康もそれに乗っかったのかどうかはわからないのですけど、「曳馬や引馬は、馬を引く(退却する)に繋がるから、縁起が悪い
」ということで、この地を「浜松」と呼ぶことにしました。それにともなって、築いたお城も浜松城となりました。

では改めまして、浜松城の一部となった曳馬城跡に鎮座する東照宮を、再度参拝します。
なんか、箔と波が狛犬のように並んでいますね。いや、これは狛犬というよりは、「ドラゴンボール」のフュージョン
のポーズのほうが近いかも。

それはさておき、前回の日記の最後にも触れたのですけど、その東照宮の境内に最近、2つの銅像が設置されました。1つは、出陣前の血気盛んな若き徳川家康像。
以前にも出てきたこちらのリアルな家康を、そのまま銅像化させたような感じです。

なんか、お供ワンが追加されているようですけど、もう1つは………

お田鶴の方ならぬ、少年のようですね。果たして、その正体は……… って、案内板を見れば一目瞭然でしたね。
それよりも、我ながらかなり引っ張り過ぎのような。
それに、こちらもお散歩スタイルにさせられていますし。とにかく、彼の名前は豊臣秀吉であります。天文20年(1551年)の16歳の頃というので、まだ木下藤吉郎秀吉と名乗っていたあたりでしょうか。
その案内板によると………

武士になりたくて、生まれ故郷の尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の愛知県名古屋市中村区)を飛び出した藤吉郎は、針の行商をしながら主君を探す旅に出ました。
やがて彼は、この地域の馬込川のほとりで、豪族の松下嘉兵衛と出会い、曳馬城の飯尾氏のもとに連れて行かれました。その酒宴の席で「何か芸を見せてみろ」ということになり、お得意の猿の物マネで栗を食べて見せました。
ちなみに彼は猿顔というだけではなく、生まれた年も申年だったそうです。藤吉郎の出し物は大ウケし、彼はこのことがきっかけとなって、松下嘉兵衛に召し抱えられることになりました。このようにして、初めての仕官先が見付かったのです。せっかくなので、彼の勤務地となった頭陀寺城こと、松下氏の屋敷跡やその近辺のほうも廻ってみます。

今ではすっかり浜松市の住宅街に取り込まれている、南区の頭陀寺町。戦前まで三重塔などの大伽藍を有していた頭陀寺は、この地域にあります。

そこからほど近いところにある頭陀寺第一公園のあたりに、松下屋敷があったそうです。

今では付近の住人の憩いの場となっているこちらの公園には………

「松下嘉兵衛屋敷跡」の石碑がありましたよ。
最近の発掘調査でより確定されたのですけど、かつてその屋敷は堀や土塁で囲まれていたそうです。藤吉郎は、天文22年(1553年)3月から永禄元年(1558年)4月までの5年間、松下氏の下僕として奉公しました。
さらに、こちらでの藤吉郎の働きぶりを表している痕跡がこの近くにあるので、そちらのほうも行ってみます。箔波ちゃんも、もう少しお付き合いくださいませ。
松下屋敷から東北の方向、国道150号線をまたぎつつ、200mほど歩いていったところに………

こじんまりとした佇まいの、天白神社があります。
こちらの神社は、松下氏の護り神として祀られたそうで、その片隅には………

「豊臣秀吉鎌研ぎ池」なるものがありました。
底がコンクリートで固められているのですけど、水は干上がっているようですね。若き日の藤吉郎は、馬のエサ用の草を刈るために鎌を研ぎ、この池の端に生えている葦で試し切りをしました。切れ味はカンペキだったのですけど、以後そこに生える葦は片葉となり、「遠州七不思議」の一つとして残されています。
それだけではなく、藤吉郎は松葉で手裏剣の練習もしていたというのですよ。何ゆえに?
その松葉手裏剣は、メダカの目を直撃
藤吉郎、何てことをするんだ
それ以降、池には片目のメダカが見られるようになったそうです。
松下屋敷での下積み時代を経てから、藤吉郎は三河の矢作橋で蜂須賀小六(正勝)と出逢い(※諸説あり)、彼を介して織田信長のもとで再就職することになります。そこから彼の出世双六(すごろく)が加速していくのですけど、今回はここまでで終わらせていただきます。

………ということで、再び曳馬城跡の2体の銅像のところに戻ります。これから戦に向かおうとする勇ましい姿の徳川家康に対して、猿のマネをしながら栗を食べる少年の木下藤吉郎。
それらが並んでいると、ちぐはぐなようにも見えるのですけど、これには深い意味があるのですよ。
家康は曳馬城を拠点にしてから浜松城を築き、それから幾多の戦や試練を経て、有力大名へと成長していきました。
一方の木下藤吉郎は、曳馬城に招かれたことがきっかけで、武士への道に進んでいき、果ては天下人の豊臣秀吉となりました。
二人の出世の起点となった曳馬城跡は、出世のパワースポットとして注目されるようになり、さらにはそこに建つ東照宮にも出世のご利益があるとして、信仰されるようになりました。
その出世のシンボルとして、家康と藤吉郎の銅像が設置されたのでした。出世できるかどうかは本人次第ですけど、彼らにあやかったり、銅像と愛犬とのお散歩写真を撮ったりしたい方は、曳馬城跡の東照宮にお越しくださいませ。

なんか、2体の銅像が美味しそうなチョコレートに見えてきたという方は、こちらに投票してやってください。
前回からの続きで、私は箔や波と一緒に、曳馬城(引馬城、引間城)の跡にあるコンパクトサイズの東照宮に来ています。


その入口付近には、このような重みのある石碑が……… 「石だから、重いのは当然



お田鶴の方が城主となって守った曳馬城は、徳川家康によって攻め落とされました。





では改めまして、浜松城の一部となった曳馬城跡に鎮座する東照宮を、再度参拝します。




それはさておき、前回の日記の最後にも触れたのですけど、その東照宮の境内に最近、2つの銅像が設置されました。1つは、出陣前の血気盛んな若き徳川家康像。



なんか、お供ワンが追加されているようですけど、もう1つは………

お田鶴の方ならぬ、少年のようですね。果たして、その正体は……… って、案内板を見れば一目瞭然でしたね。




武士になりたくて、生まれ故郷の尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の愛知県名古屋市中村区)を飛び出した藤吉郎は、針の行商をしながら主君を探す旅に出ました。




今ではすっかり浜松市の住宅街に取り込まれている、南区の頭陀寺町。戦前まで三重塔などの大伽藍を有していた頭陀寺は、この地域にあります。


そこからほど近いところにある頭陀寺第一公園のあたりに、松下屋敷があったそうです。


今では付近の住人の憩いの場となっているこちらの公園には………

「松下嘉兵衛屋敷跡」の石碑がありましたよ。



松下屋敷から東北の方向、国道150号線をまたぎつつ、200mほど歩いていったところに………

こじんまりとした佇まいの、天白神社があります。


「豊臣秀吉鎌研ぎ池」なるものがありました。


それだけではなく、藤吉郎は松葉で手裏剣の練習もしていたというのですよ。何ゆえに?




松下屋敷での下積み時代を経てから、藤吉郎は三河の矢作橋で蜂須賀小六(正勝)と出逢い(※諸説あり)、彼を介して織田信長のもとで再就職することになります。そこから彼の出世双六(すごろく)が加速していくのですけど、今回はここまでで終わらせていただきます。


………ということで、再び曳馬城跡の2体の銅像のところに戻ります。これから戦に向かおうとする勇ましい姿の徳川家康に対して、猿のマネをしながら栗を食べる少年の木下藤吉郎。


一方の木下藤吉郎は、曳馬城に招かれたことがきっかけで、武士への道に進んでいき、果ては天下人の豊臣秀吉となりました。
二人の出世の起点となった曳馬城跡は、出世のパワースポットとして注目されるようになり、さらにはそこに建つ東照宮にも出世のご利益があるとして、信仰されるようになりました。






箔ちゃんと波ちゃん、かわいいですね!
本当になかよしでうらやましいです。
早く立派なスピになれるよう、精進します!
あと、勝手に私のブログにリンクを貼らせていただきました。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
こちらにご訪問&コメントをくださり、ありがとうございます。
それから、箔と波にお褒めのお言葉もいただけて、とても嬉しいです。
ゴロー君とユキちゃんのワン生は、これから本格化していくことになりますよね。
リンクの張り付け、ありがとうございます。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。