日本の建物づくりを支えてきた技術-3・・・・基礎と地形(ぢぎょう)

2008-08-09 11:18:29 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

掘立柱から礎石建て・石場建てへ


掘立柱方式は、柱が自立するため、仕事が容易だったことは十分想像できます。

しかし、掘立てた柱の地面に接するあたりは、かならず腐ります。
これは、地面近くは、水分と酸素がともに供給されやすく、木材を好む微生物:腐朽菌にとって最高の居住環境となるからです。
一般には、自然の状態では、寺院等の掘立柱(小さくても1尺:30cm:径以上あります)は20年ほど経てば朽ちると言われています(10cm程度の小径の杭では、数年で腐ります)。

それゆえ、人工的に腐朽菌の好む環境をつくれば(壁で木部をくるんだり、壁内に結露を起こす《断熱材》を使用したり、あるいはコンクリートの基礎で床下を閉じてしまったりすると、腐朽菌好みの環境がつくれます)、もっと短い時間で腐らせることができます。
ですから、現在の木造住宅にかかわるいろいろな規定は、木材の腐朽を奨励している、と言ってもよいでしょう。

   註 地中深くは、水分はありますが酸素が不足し、腐朽菌向きの
      環境ではありません。
      「平城宮」跡や、縄文時代の「三内丸山(青森県)」遺跡で
      掘立柱の根元が地中から見つかったのはそのためです。
      また、水中でも木は腐りません。
      それゆえ、地下水の水位の高い場所では、建物の基礎杭に
      松杭が使われます。
      旧帝国ホテルでも松杭が使われていましたが、周辺の地下水の
      汲み上げで地下水位が下がり、腐朽してしまい、その結果、
      建物が波打ってしまいました。
      (「再び、設計の『思想』・・・・旧帝国ホテルのロビーに見る」参照)
       
また、つくられた架構・建物は、地面が揺れれば、つまり地震に遭うと、足もとは地面とともに動きます。一方、架構の上部は、地面が動いたとき、元の位置を保とうとしますから(普通「慣性」と言われる現象です)、地面の揺れと慣性による力とが重なった場合には、架構・建物は激しく揺れることになります。
おそらく、掘立柱の建物は、地震で被災する例が多かったのではないでしょうか。
ただ、このことについては、掘立柱の時代の工人たちは、気がついてはいなかったと思います。比較する方式が他になかったからです。


◇ 礎石建て:寺院の場合

一般の人びとの古代の建物がどうなっていたか、それを詳しく知る資料はなく、現在残されている資料は、主に寺院関係の建物がらみで、特に「法隆寺」は資料の宝庫のようです。

上掲の図1は、「法隆寺・食堂(じきどう)」の礎石です。
礎石は、写真のように、石材に手の込んだ加工がされています。
上端は、柱の大きさに合わせて円形の平面(「円座」と呼びます)に仕上げてあります。しかも一段のものと二段のものとがあります。

段状にするのは、地面と縁を切り、水が柱に上がっていかないようにし、なおかつ柱にかかった水が柱脚近くに溜まらないようにするためです(「水切:みずきり」と言います)。
これは、「水は高きから低きへ流れる」、という理屈に従った方策です。

「円座」の中央にあけられた孔は、柱の底面につくりだされた「枘(ほぞ)」用の孔です。柱が礎石上からずれないようにするための工夫です。
そして、この孔から「円座」の外に向け刻まれた溝は、「枘(ほぞ)孔」に水が溜まらないようにするための「水抜き溝」です。これは、中国伝来の技法と考えられています。
礎石の配置をみると、「水抜き溝」が建物外部に向くように礎石を据えています。工人たちが、吹き降りを相当に気にしていたことが分ります。

ところが、実際には「水抜き溝」の効果はなく、柱側につくりだされた「枘(ほぞ)」はほとんど腐朽していたことが、解体修理時に判明しています。

中国の技法は、日本の環境には適合しなかった、と考えてよいでしょう。

図3の礎石形状図の下段は、「夢殿」の礎石です。
ここでは、「枘」を礎石側につくりだし、柱の底面に「枘孔」を穿っています。
礎石側の細工は「食堂」のそれよりも手間がかかる仕事ですが、柱側の細工は簡単で、柱のずれを防ぎ、しかも腐朽の恐れも少ない方法です。

当時の工人たちは、失敗と分ると、二度と同じことをせず、別の、適切な方策を講じるのが常であった、と考えてよいでしょう。
なお、鈴木嘉吉氏の「古代建築の構造と技法」によると、礎石側に「枘」をつくりだす例は、白鳳~天平期に多いそうです。

また、礎石の上に載る木造架構がしっかりとつくられるようになれば、個々の礎石の上の柱それぞれが礎石からずれることを気にする必要がなくなります。木造の架構全体がずれなければよいからです。
平安~鎌倉の境につくられた「浄土寺・浄土堂」では、礎石の上面は平らで、柱の底面も平らのままでした。ただ、柱の底面には、通気のためと思われる溝が十文字に彫られています(「浄土寺・浄土寺・・・・架構と空間の見事な一致」参照)。


図3で注目したいのは、礎石の地中に埋まる部分の形状です。底に向かっていわば先細り:尻つぼみの形に加工してあります。

現在だと、礎石は、裾拡がり:台形状にして、底面を平らに加工するのが普通でしょう。
礎石は、柱を介して架構の重さを受けています。底面が広ければ広い方が、重さが分散し、礎石が地面にめり込みにくくなるからです(ハイヒールのかかとで踏まれると重さがいわば一点に集中するため痛みを感じますが、スニーカーで踏まれた場合は重さが分散するため痛くない、この理屈です)。

しかし、この「法隆寺」の礎石は、「食堂」「夢殿」とも、いわば先細り:尻つぼみに加工されています。
おそらくこれは、据付けの際の「仕事のし易さ」を考えてのことだと思われます。

市販の小さな台形状のコンクリート礎石を据えつける場合、底面がぴったりと掘った地面の底に接し、なおかつ礎石上面が水平になるように据えることは、簡単のようで結構難しい作業です。
作業は、上面の高さ位置から逆算して掘った孔の底を固め、そこに小砂利や砂を敷き、礎石を載せ、所定の高さで水平になるように、上面をハンマーで叩いて据え付けるという工程をとります。
しかし、上面が所定の高さで水平になったとしても、はたして底面全体が孔の底面に密着しているかどうかは確認できません。底面の中央部に空洞ができたりしているかもしれないのです(だから、不安なときは、敷く小砂利や砂にセメントを混ぜておきます。そうすれば、地面の湿気でしばらくすれば固化するからです)。

それに対して、この「食堂」「夢殿」の礎石は、こういう形状をしているため、その重さに似合わず、比較的容易に据えることができると思われます。
当然、据えつける孔底を叩き締め、小砂利などが敷かれ、そこへ数人がかりで据えつけると考えられますが、こういう形状なら、いわば、ボールを砂に埋めるのと同じで、石の下に空洞ができにくいはずだからです。最後に、小砂利を叩き締めれば、それで据付完了です。

今の「専門家」がこの礎石の形を見たら、底面を狭くするなど、非合理的、非科学的だ、と言うでしょう。
しかし、このような形状でも、先の砂の中のボールの理屈で、礎石下部の斜めに削った部分が叩き締めた小砂利を介して地面に密着しているわけですから、礎石の上に載っている建物の重さは確実に地面へと伝わり、何ら問題はないと考えてよいでしょう。

つまり、この形状は、実際の作業で、礎石が地面へ馴染みよく据え付けられることを考慮して考えられた、まさに「現場で生まれた合理的な知恵」であって、机上では決して生まれないアイディアと言えるのではないでしょうか。

一般に、机上でだけものを考える人は、できあがった姿:礎石が据えられた場面だけ考え、「実際に据える作業」のことなど考えないのです。
と言うより、今の大方の「専門家」は、現場を知ろうとしませんから、作業の状況を想像することもできないのだ、と言った方がよいのかも知れません。
蛇足ですが、現在の建築にかかわる法令が規定している事項は、そういう「現場を忘れた、あるいは知らない」規定だらけだ、と言っても過言ではありません。


◇ 石場建て:一般の住宅の場合

一般の住宅の例は、時代が下らないと事例がありません。上の図4は、川島宙次著「滅びゆく民家」に掲載されていた近世の住宅の柱脚です。

ここで使われているのは、自然石そのもので、上面を平らには加工していません。一般の人びとにとって、石の上面を平らにする、などということは大変なことだったのでしょう。
そのため、柱の底部は、自然石の形状:凸凹に合わせて加工しなければなりません。
「石場建て」とは、「石の合い場を合わせる」という意味と言われ、このように石の形状に合わせて加工することを「石口をとる」「合い口を合わせる」、関西では「ひかる」と呼ばれます(「滅びゆく民家」による)。今は、一般に、「ひかりつけ」と呼ぶのではないでしょうか。ただ、その語源はわかりません。
一般の住宅では、江戸中期から見られる方法のようです。

全部の柱の礎石が自然石ですので、礎石の上端は同じ水平面上にはありません。また、柱間:柱と柱の間隔を精度よく据えなければなりません。このように据えることはまさに至難の業です。どこが基準になる水平線か、自然石のどこが柱芯なのか、定かではないからです。
それゆえ、柱の長さは一本ごとに異なり、柱の長さの設定・測定に、大変時間がかり、柱間隔の調整にも時間がかかります。
そこで、柱の長さの基準として、ある柱だけ掘立柱として、それを基準にする場合もあったようです。

また、自然石の上に、樫(かし)や欅(けやき)製の「礎盤(そばん)」と呼ばれる板を置く方法を採る地域があります。
各自然石礎石上の「礎盤」の厚みを調整することで、「礎盤」上面を同じ水平面上に設定することができますので、柱の長さを一定にすることができます。
また、腐朽は「礎盤」から始まりますから、腐ったときは、「礎盤」だけ取り替えれば済みます。

後に、礎石の上に先ず「土台」を据え、その上に柱を立てる方法が採られるようになりますが、これも、柱の長さ設定を容易にし、更に柱間:柱の間隔の精度を上げるための工夫と考えられます(工期短縮が求められた城郭の建設にあたって生まれた技術と言われています)。


◇ 「根伐り(ねぎり)」と「地形(ぢぎょう)」

礎石を据えるには、柱を立てる場所の地面を、「安定した固い地盤」になるまで掘って、礎石を据える準備をします。
地面を掘り、表の土を取去る作業を「根伐り」と呼んでいます。
そして、礎石を据える準備作業~礎石の据付けの工事を「地形」と呼びます(「地形」は「地業」と表記する場合があります)。

この作業は、寺院も一般の住宅の場合も同じです。

この作業は、建物ができあがると見えなくなる部分にかかわる作業ですが、その「良し悪し」は、仕上がった後の「建物の行く末」に大きな影響を与えますから、丁寧な仕事が要求されます。

かつての「地形」は、掘った孔の底に「割栗石(わりぐりいし):玉石を割ったもの」を、尖った先を孔の底の地面に並べて突き差し(「小端立て:こばだて」)、
叩いて搗き固めます。
「割栗石」を搗き固めると、そこへ「目潰し砂利(めつぶしじゃり)」を敷きこみ、礎石を据え、同じく叩き締めます。「目潰し砂利」は、先に触れた寺院の礎石を据えるときと同じで、礎石を馴染みやすくするためです。

叩いて搗き固める作業は、「胴搗き(どうづき)」「地搗き」と呼ばれ、図5のような道具が使われました。

「胴搗き」は、建物の大きさ:重さによってその程度が異なり、それに応じて大小の道具があったのです。
「大蛸(おおだこ)」「小蛸(こだこ)」というのは、堅い木の角材や丸太に取手を取付け、数人で持ち上げては落す、という作業のための道具で、蛸(たこ)に似た形からこの呼び名があります。木の代りに石を使ったのが左上の図です。
これらは、「ランマー」が普及するまで使われていました。

図の左下の「真棒胴搗き」は、大型の「地形」用で、曳き綱を引いて「真棒」を持ち上げ、曳く力を弱めて「真棒」を重力に任せて落す、という作業を繰り返します。曳き手は、女性が多かったように思います。

丸山明宏(現在、美輪明宏)作詞作曲の唄に「よいとまけの唄」というのがありますが、その「よいとまけ」とはこの作業のことで、道具自体をも「よいとまけ」と呼ぶことがありました。

   註 この唄は昭和41年(1966年)に発表され、丸山明宏の
      幼少期の体験が基になっているとのことです。

      私の記憶では、「大蛸」「小蛸」も含め、これらの道具を、
      昭和30年代まで、あちこちで見かけたような気がします。

      また、初めてランマーによる作業を見たとき、作業が早く、
      人手もかからないのですが、搗き上り:仕上りに不安を
      感じたことを覚えています。
      人力作業のときは「搗いたあと」を確認しながら作業を
      進めていたのが、機械任せになり、確認作業を怠るように
      なってしまったのです。

最近の「地形」を見ていると、基礎のコンクリートを信じるあまり、「地形」自体がおろそかにされているように思えてなりません。
あらためて「古法」を学び直し、「地形」の意味・原理を考え直してみてもよいのではないでしょうか。

さて、礎石が据えられると、その上に軸組が建てられることになります。
しかし、掘立柱とは違い、柱は自立できません。それゆえの新たな工夫が必要になります。
そのあたりについて、次回以降触れたいと思います。

次回へ続く
コメント (1)
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