日本の建築技術の展開-余談・・・・時代と工人たち

2007-04-25 20:57:06 | 日本の建築技術の展開
 時代の区分は難しい。

 1185年(文治1年)~1333年(元弘3年)、鎌倉を拠点とした鎌倉幕府が政権をにぎった時代、およそ150年間が通常「鎌倉時代」と呼ばれる。

 そして、1392年(明徳3年)~天正1年(1573年:足利氏が信長により倒された年)、足利氏が京都室町に幕府を開いていた時代の約180年間が「室町時代」。

 鎌倉幕府倒壊から室町幕府誕生の1392年までのおよそ60年間は、普通「南北朝時代」とも呼ばれるが、その間も「室町時代」の前期に含める見方もあり、また、足利幕府内のいわば内乱である「応仁の乱」(1467年~1477年)から足利氏滅亡(1573年)までを「戦国時代」と区分する場合もある。

 つまり誰が統治権・政権を握っていたか、で分けるのが通常の時代区分。だから、主が誰だと明言できないと、「南北朝・・」「戦国・・」などと言うことになる。
 
 別な見方をすれば、
 〇 古代は公家が専横の時代
 〇 鎌倉時代とは武家が力を持ち、独自の政権を東国に構え始めた時代、
   だから未だ、西の公家:朝廷と拮抗する
 〇 公家が力を盛り返し、武家が逆に公家に擦り寄るのが南北朝
 〇 公家に擦り寄り共存の形をとる、というより公家の名を借りて力を維持した
   のが室町時代
 〇 武家が完全に掌握するのが戦国以降
 ということになろうか。
 そして、戦国までが、大まかに「中世」、以後が「近世」。これも諸説あり。


 建築にかかわる工人たちは、中世の初めごろまで、つまり鎌倉時代ごろまでは、大きな寺院、領主の下で「座」を形成していたという。[文の訂正:4.26・1.35PM]

  註 座:商工業者などの同業組合。
    貴族・公家や社寺の保護を受け、仕事の独占権を持っていた。

 武家が勢力を増すとともに、工人たち、特に大工は、武家の下に再編され、特に築城にあたっては、各地、特に畿内の工人たちが集められた。その多くは、それまで寺院や公家の建物にかかわっていた工人たちである。そして、その中から、仕事を統括できる「棟梁」が現れる。

 公家・朝廷にもいわば朝廷御用の工人:「大工惣官」がいたから、武家側の「棟梁」との間には権力闘争も生じたこともあったらしいが、つまるところ、武家側、幕府の下に統制されることになる。
 中でも勢力を固めたのは、法隆寺大工の出で、後に徳川幕府の棟梁をつとめる中井正清の一統と言われる。そこには法隆寺・奈良周辺の大工が集められていたという。

  註 「大工」の原義は、
    「工」:「たくみ、ものづくりを専業とする人」たちの長官。
    したがって、「大工」は、元は、一国・一政府に一人。
    その後、「大工」は、特に木工に携わる職人の「通称」になった。
 
 もちろん、これは大きな工事にかかわる工人たちで、各地の村々には村人たちの建物にかかわる半農の職人たちがいたはずである。
 当然、ときには彼らも築城をはじめ、大工事には狩り出された。おそらく、そういった現場は、技術の交流の場、醸成の場でもあったろう。

 この時代以降、木工技術の大きな進展、道具の改良・開発、あるいは矩計の術(いわゆる「木割」)の案出などが見られるのも、このような社会状況が大きく影響していると考えてよいだろう。

 註 このあたりの詳細な展開は、下記の書が参考になる。
   専門的な事項が一般向けに分りやすく解説されている。
   上記解説も、この書に拠るところが多い。
   『日本の美術 №200 平井 聖 編 桃山建築』(至文堂)
   

 特に私が感じるのは、室町~戦国・安土桃山期の「自由闊達な技術の展開」である。それは、ここしばらく観てきた城郭の建築にもよく現われている(後に触れる方丈・書院・茶室も同様である)。
 こうでなければならない、とか、こうしなければならない、こうでなければ認めない、などという決めつけがないから闊達で、それゆえ進展を見るのである。

 工人たちが幕府の下に統制されたからと言って、技術の内容まで統制されたのではない。ここが、近・現代の日本との、つまり現在との、大きな相違点。

 注意したいのは、彼の時代、いわゆる現在のような「近代科学理論」はなかった、ということ。あったのは、「工人それぞれの現場経験と彼らの感性」。それを基にして、次から次へと進展を見たのである。


 私が今このようなシリーズを続けているのも、とかく「近代科学理論」優先の技術論、あるいは「法規」優先の技術論が主流となる現在、あるいは指定した一律の考え以外では考えてはならない、という「封建主義」が横行する現在、決してそこでは本当の技術の進展はないだろう、そういう状況から脱出しなければならない、と考えるからだ。

 では、そのためにはどうするか。
 〇 技術の歴史を顧みる。
 〇 歴史上の事実を知る。
 〇 人びとが皆、優れた感性・感覚を持ち、自ら判断し、
   行動していたことを知る。
 そして、「人びとは皆、真にscientific:科学的であった」ということも知る必要があるだろう。
 「ものごとを、筋道たてて、目の前の事実・現象と対照しながら考える」こと、それがscientificということ。
 そうであれば、自ずと自由闊達な展開が可能である。

 しかし今、「科学的とは、計算できること」という《信仰》が大きな勢力を占めている。目の前に何百年も健在の建物があっても、《それは非科学的な技術の産物だ》として黙殺する。
 これはどう考えても大きな間違い。むしろ、豊穣な過去の貴重な遺産から、謙虚に学ばなければ嘘である。科学的ではない。
 このシリーズを書きながら、今でも、新しい発見、というより、これまで理解不足、認識不足だったことにぶつかる。だから面白い作業になっている。
  

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