犬山城の紹介のときに、松本城の土台の支持柱について触れた。
上の図は、松本城の天守台上の基礎伏図と土台・根太伏図。
赤く印を付けたのが、土台を支えるため、GLから立上がる支持柱。土台には枘差しで納めていたという。
図は、「日本建築史資料集成 十四 城郭Ⅰ」より転載・編集。
GLから天主台まではおよそ5m。
今なら、盛り土をしたあと、天守台上に墨出しをして杭を打つだろうが、この場合は、GL上で石垣とともに支持柱の位置を決め、盛り土をしているわけだから、相当に精度よい測量がなされていたことになる。
しかも、角度を持って積み上げた石垣の天端は、建物四周の土台に見事に一致しているのである。
先に紹介の丸岡城では、石垣天端は建物四周の土台と一致せず、土台に水切のための小屋根をかけて隙間を覆っている(4月15日付、丸岡城の図、写真参照)。
ここに、この間の技術の進展の様子がうかがえるのではないだろうか。
城郭の構築にかかわったのは、古代以来の社寺の建物づくりとは大きく異なり、おそらく武家の周辺にいた民間の工人たちで、城郭には、民間の工人たちの知恵が集積したのではないだろうか。それが、どちらかと言えば無骨な、しかし確実な城郭のつくりかたに現われているように私には思える(古い住居建築に通じるものがある)。
そして、城郭づくりで一挙に進展した技術は、ふたたび民間の建物づくりへと還元されていったのである。