余談・・・・中国の建築と「貫」

2007-04-09 20:12:47 | 日本の建築技術の展開

[改訂:4月10日10.27AM]

 「大仏様」「禅宗様」は、ともに宋の影響がある、と言われていることはすでに触れた。
 しかし、両者に初めて使われた「貫」は、中国の寺院の図や写真では見当たらない。ことによると、実際には使われているのだけれども、図にない、ということなのかもしれないが・・。

 ある書物で、来日した宋の技術者は、主として、中国南部、福建省の出だと考えられる、との話を読んだ。しかし、先日の書物には福建省の寺院がでていない。
 ふと、中国各地の住居、日本で言う「民家」を集めた書があるのを思い出し、その福建省編を開いてみた。

 その書は『老房子』(1994年12月、江蘇美術出版社出版、江蘇省新華書店発行)という書物。地域ごとに、日本でいう重要文化財級の建物(住居主体)を、主に写真で紹介している。
 そして、その「福建民居」編(上下2冊)の中に「貫」「差物」オンパレードの建物があった。上掲の写真(この他にもあるが省略)。
 福建省の内陸の「永安」市の「槐南」にある「安貞堡」という建物、というか城郭都市というか・・。
 石積みの大きな囲い:城壁?の中というか上というか、木造二階建ての建物が密集している。この中に、一族郎党が住んでいる。言うならば一つの村。住居の他に公共施設も用意されている。「土堡」と呼ぶらしい。「堡」は橋頭堡の堡。
 田畑は囲いの外の平原にある。この中には1000人の人がこもって暮すことができるという(最上段の写真参照)。

 同じ福建省にある円形の「走馬楼」という同様の木造建物をTVで見たことがある。そちらは「土楼」と呼ぶらしい。石積みの代りに築地が使われている。
 これらは、農耕主体の民族が、他からの攻撃を避けるための方策だった、という説明を聞いた覚えがある。

 上掲の事例は、そんなに古いものではなく、清の時代、1850年代の建設という。しかし、「昔からのその地域の技術」:「民間の技術」が使われていると考えてよいだろう。
 残念ながら図面はないが、二階建ての場合、どうやら柱は「通し柱」で、「貫」「差物」が使われているようだ。
 これを見ると、「貫」の技術は中国の技術者から学んだ、というのは本当かもしれない、と思えてくる。

 けれども、これはいわば民間の建物、はたして、中国では、寺院建築にも使われていたのだろうか?
 あるいは、中国の工人は、日本のように「宮大工」を別格扱いするようなことはなく、同じ工人が、民間、寺院の区別なく、仕事にあたったのかもしれない。そして、そういう工人たちが日本にやってきて、寺院建築にも関わった・・・。

 先ずは参考までに。

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日本の建築技術の展開-10・・・・大仏様と禅宗様

2007-04-07 20:22:17 | 日本の建築技術の展開

[参考資料等補足追加:4月8日1.05AM]

 「大仏様」に少し遅れて、中国・宋から、寺院建築には「禅宗」とともに、いわゆる「禅宗様」というつくりが入ってきた、と言われている。
 しかし、実の所、この区別自体、どうもはっきりしない。「大仏様」の呼称は、東大寺大仏殿に使われたから、ということなのだが、確かに禅宗寺院そのものとは外観が異なる点があるけれども、技術的にはほとんど変りはないのではないか、と私には思える。

  註 「大仏様」は、当初は「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれ、
    「禅宗様」は「唐様(からよう)」と呼ばれていた。
    いずれも「和様」に対する語。 

 禅宗は、12世紀中ごろ二度宋に渡った僧・栄西が二度目の入宋で持ち帰ったとされている。栄西は天台宗の僧、しかし帰国後禅宗を説くようになって、天台宗からは異端視されたという。

 禅宗の教義は、武家階級に好まれ、鎌倉幕府、室町幕府の下で手厚く保護され、安土・桃山江戸期を通じて、隆盛を極める。

 栄西が、禅宗の教義とともに、当時の中国の建築技術をも持ち帰ったかどうかは、いろいろな説があるようだが、確かな証拠はなく、つまるところ不明である。ただ、建築史家・伊藤延男氏は、栄西が建設に関わった「東大寺鐘楼」に新しい方式が見られることから、栄西が新しい中国方式を伝えたことは確かだと言っている。すなわち、軸組は「大仏様」のように太いが、組物は細かく、頭貫を隅で組んで交差させ、その先端や肘木の先端に「繰形(くりがた)」を設ける点などは、「禅宗様」的だからである。

 室町時代以降:13世紀中ごろ以降に、「五山十刹図(ござんじゅっさつず)」」という中国浙江省・江蘇省の有名寺院の建物の伽藍配置、平面、立面、断面図や、設備・什器などを記した写本が多数残されており、当時の中国建築の様子がおおよそ分かるようだ(筆者は内容を見たことがない)。
  
 平安時代までに、生活様式は古代の中国直伝の立式から座式となり、建物もそれに見合うように、横に伸びる:低く水平に伸びる:形に変ってきたことは以前触れた。ところが、禅宗では、ふたたび床を張らない平瓦敷きの土間での立式が主となり、つくられる建物:「禅宗様」の建物では、堂内の空間を荘厳・崇高な空間とするため、上へ伸びる:高くする:ことを好んだという。実際、内陣は見上げんばかりとなる。

 鎌倉時代の「禅宗様」の建物の遺構はきわめて少なく、「禅宗様」の代表的な建物と言われる「円覚寺舎利殿」も、現在では室町時代の建立とされている。そのため、伊藤延男氏は、「鎌倉時代の禅宗様建築」の特徴をまとめることは難しいとしている。

 鎌倉以降のいわゆる「禅宗様」と呼ばれる建物の特徴を私なりにまとめてみると、大体次のようになろうか。
 ◇柱は礎石建て、細身で長く、脚部と頂部を丸める(「粽(ちまき)」と言う)
 ◇「裳階(もこし)」を「身舎(もや)+「庇」」の本体のまわりにまわし、重
  層に見せる
 ◇「頭貫」は隅で交差させて組むため(端部が軸組の外に出る)柱群を束ねる効
  果が強まる
 ◇「頭貫」の端部には独特の「繰形(くりがた)」を彫る、「頭貫」上に平たい
  板状の部材を載せることがある(「台輪(だいわ)」と呼ぶ)
 ◇「肘木は「挿肘木」、「尾垂木」を何段にも使用する(上昇感が強まる)、柱
  間にも「尾垂木」を含む組物を設け、母屋桁を受ける(構造的にも強くなる
  が、上昇感も強まる)。材の端部には独特の「繰形」を彫る
 ◇梁(「虹梁」が多い)柱に挿す。梁上の束は丸太状の形をする(「大瓶束(た
  いへいつか)と呼ぶ)
 ◇隅部の垂木を「扇垂木」とする(隅部の垂木を平行に並べる日本式の垂木
  は、形だけで屋根を支えていないが、隅の柱芯から扇状に配する「扇垂木」
  は荷を支える)
   註 昨年11月30日の浄土寺浄土堂の天井見上図参照
 ◇柱相互を「貫」で縫う、
 ◇開口部の建具の取付けは、従来は「長押」へ軸を差し込む「軸吊り」だった
  が、長押を使わなくなったため、軸を差し込む「藁座(わらざ)」を「貫」に
  取付ける方式に変る
 ◇建具は、従来の板戸から、框戸(四周に枠をつくり、板を薄い板を嵌める。
  (「桟唐戸(さんからど)」と呼ぶ)
 ◇窓:開口を「花頭窓(華頭窓:かとうまど)」などにする
 ◇壁は板壁が多い
 ・・・・
 これらは、「大仏様」と言われる建物にも共通するところが多く、「禅宗様」と特に呼ばれるのは、いかにも中国風に見える造形(肘木や尾垂木の繰形、花頭窓、・・)を多用する場合のように私には思える。


 こういった特徴の内、「貫」や一部の装飾的造形、建具などは、いわゆる和様と言われる建物にも大きく影響し使われるようになるが、その中でも「貫」の効用は特に広く伝わってゆく(後に触れるが、民間にも広まっている)。

 上掲は、山口県にある「功山寺」で1320年の建立(筆者は実際に観たことはない)。丈の高い本体(「身舎」+「庇」)に「裳階」をまわしている。内部は、たしかに中国風だ。
 注目したいのは、仏壇前面にあたる「身舎」の柱を抜き去って大断面梁を架け、「大瓶束」で「身舎」上の梁を支えていること。
 私はここに、「身舎」+「庇」の構造方式の「しがらみ」から一歩抜け出そうとする動きの端緒を見るような気がする。

 なお、鎌倉時代、山口をはじめとして西国で盛んだった寺院復興には、東大寺再建にあたった大工職が、再建終了後に各地で関わったと見られている。
 つまり、技術の伝播は、こういった職方たちに拠るところが多いのだ。そしてそれが、各地域で消化、それぞれの地域の独自の技術として定着する。

 この技術の展開の過程は、法令によって全国一律に統御し、それぞれの地域、それぞれの職方の技術醸成をよしとしない現在の傾向とは、根本的に異なる。この点についてはいずれ触れたい。

 以上、解説は、伊藤延男「鎌倉建築:日本の美術198」、浅野清「日本建築の構造:日本の美術245」、「日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ」などを参考にした。

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閑話・・・・スイスの木造家屋:材料収集~刻み~建て方

2007-04-05 20:05:58 | 建物づくり一般

 上掲の図は、"Fachwerk in der Schweiz" に載っていた、近世初頭までのスイスの木造家屋の「材料の収集から『刻み(加工)』『建て方』に至る過程」の図解。
 左上から下に行き、次の段に移り上から下へ・・最後に右下へ、と見てください。

 材料を収集し、製材した後、「原寸場」をつくり、原寸図を描いて部材を刻み、地上で組立ててみて確認し、分解、現場であらためて組む、という手順が分かる。

 日本でも、小屋組の場合、材を刻んだ後、一旦小屋を地上で組んで確かめたようである。もっとも、関西だか関東だかは忘れたが、地上で一旦組んでみるなんて腕の悪い証拠・・、と言って一発勝負に出る大工さんもいたらしい。

 また、鎌倉時代のある時期には、地上で段取りをする技術がなく(言ってみれば、「図学」の知識がなく)、まったくの現場合せで小屋組をつくった頃があったようで、その際に小屋束の倒れ留めに「筋かい」が使われた、という話は以前触れた。

 「設計図」というのは、原寸場で原寸図を描く代りに、紙の上に縮小して描くことだ、と私は理解してきたが、どうも最近の設計図は、実施設計図と銘打つ図面でも、そうではないらしい。 

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日本の建築技術の展開-9 の補足・続・・・・中国では?

2007-04-04 09:49:22 | 日本の建築技術の展開

 東大寺再興で使われた「大仏様」は、宋へ行ったことのある重源が、当時の中国の技術を参考にし、宋から来日した技術者の協力を得て成された工法と言われている。
 上掲の写真と図は、「図像中国建築史」に載っていた中国各時代の「斗栱」の変遷を示した図:「歴代斗栱演変図」、および宋の時代、1125年に建てられた河南省の「少林寺初祖庵」の写真と平面および主要断面である。

 「少林寺初祖庵」の断面図を見ると、そこに「遊離尾垂木」様の架構があることが分かる。名称は「:ang」。

  註 先端は「嘴:beak of ang」
    後端(上端)は「尾:tail of ang」
    「」は「昂」の俗字、「あがる」「高まる」の意(「新漢和辞典」)

 先回(3月26日)紹介の「五台山・仏光寺」では、「尾垂木」は梁を介して母屋桁を受けている(梁で押えられている)が、この例では直接母屋桁を受けている。つまり、「遊離尾垂木」には明らかに中国の技術の影響が強く表われている。ただ、この建物では、「肘木」を何層にも重ねて軒を支える方法はとられていない。比較的規模の小さな建物だからだろう。

 一方、「仏光寺」では、「東大寺南大門」のように、「肘木」を何層にも重ねて迫り出してゆく方法がとられている。
 しかしそれは、図で分かるように、「南大門」で使われている柱に横材を挿し通す「挿肘木」方式ではなく、あくまでも通常の柱上の工作である。

 上掲の「歴代斗栱演変図」でも、また同書にある他の事例でも、「斗栱」はどれも柱上に設けられており、「南大門」のような「挿肘木」方式は見当たらない。

 また、今回は写真を省略したが、同書にある二~三層の建物の外観は、「南大門」同様、「肘木」が数層重ねられているが(「通肘木」を使った例もある)、断面を見ると、いずれも各層積重ね方式で造られていて、各層の床面を支える梁が、数層の「肘木」で支えられているにすぎない。「南大門」のように「通し柱」に「挿肘木」を用いた例は見当たらないのである。

 つまり、「遊離尾垂木」は明らかに中国に事例があるが、「通し柱」「挿肘木」「貫」の方法は、ともに、今のところ(同書を見るかぎり)中国の事例に見当たらない。
 ことによると、日本のように、素性のよい長大な柱を得ることが難しく、また、強度的にも、柱上に納める「斗栱」で十分だったからかもしれない。


 一説には、「大仏様」は福建省あたりの技法の影響ではないか、との説もあり、そのあたりについて、どなたかご存知の方がおられたら、是非ご教示いただきたい。

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日本の建築技術の展開-9 の補足・・・・細部は簡単!しかし・・

2007-04-03 10:11:33 | 日本の建築技術の展開

[註追加:11.19AM]

 南大門の各部の納まりが「文化財建造物伝統技法集成」(文化財建造物保存技術協会刊)に載っている。上掲がそのコピー。
 よく見ると、驚くほど簡単な納まりであることが分かる。

 柱頂部と「大斗」は、通常は「太枘(ダボ)」で取り付けるが、ここでは「頭貫(かしらぬき)」の天端を柱の頂端より4寸高く据え、その分「大斗」の底を十字形に欠き込み設置して固定している。それゆえ「太枘」はない。この方が確実かもしれない。

 「貫」は、同じ高さで柱を直交貫通する。交叉する「貫」は、交差部を半分ずつ欠きとり、柱内で噛み合わせ、孔の隙間に楔を打つことで噛み合い、柱と一体になる。孔の大きさ:丈:は、噛み合わせ分だけ、余裕:逃げが必要。
 「貫」を継ぐ場合は、端部を下段の図にあるように鉤形に加工して(丈、幅とも材の1/2)柱内で噛み合わせて継ぎ、「楔」で締めて固める。
 ともに、一見面倒で難しそうに見えるが、よく見るときわめて簡単、しかも理に適っている。噛み合って楔で締められれば柱と二本の「貫」は、ほぼ一体になる。

  註 「頭貫」は「貫」ではない。

 下段右上の写真は、単材に「添え木」をして軒の反りを造っている箇所。従来なら、一木から造りだしたにちがいないが、当時、大寸の材の確保は難しくなっていたからと考えられる(奈良時代の末ごろには、すでに、近畿周辺で材を確保することは難しくなっていたという)。
 東大寺復興のための木材は、遠く山口あたりから取り寄せ、その海上輸送などをも含め、一切の手配をしたのが重源という。

 右下は、桁の継手。「目違い」だけの簡単な継手。桁の載る相手がしっかりしていれば「鎌」や「蟻」は不用という考えだろう。

 かなり綿密に計算された計画でありながら、やりかたは大胆。しかし、理屈は通っている。

 この建物の構築で、一番手がかかったのは、材料の手配もさることながら、太い木材:柱を貫通する孔を穿つこと、そして、あの長い柱を立ち上げることだったろう。今なら機械があるからなんて事はない。小さな建物でもアームの長いクレーンが入る。

 しかし、これも機械があり簡単なのに、「貫」工法は行われなくなった。
 それは、1950年制定の建築基準法が、「貫」の効能を認めなかったからだ。
 10数年ほど前から「貫」を認めるように変ったが、それはあくまでも耐力壁の下地としてであって、本来の「貫」の効能が認められたわけではない。

 今も、市場には「ヌキ」と呼ばれる材が出回っているが、それは正味厚さ14mm程度の薄い板のこと。こうなったのは、「貫」が構造材として使えなくなってからのことだ。かつて、「貫」に使われた材の寸面は、近世の農家や商家、武士の普通の住居建築でも25~40㎜×90~120mm程度はあった(厚さは柱の太さによって異なり、大体柱幅の1/4~1/5の厚さ。南大門では、柱径の1/4はありそう)。
 ところが、改変された法令の小舞土塗り壁の《貫》は、なんと15㎜でもよいことになっている(105㎜角の柱で1/7しかない!)。これでは、単に小舞の下地であって、「貫」の効能は認めていない証である。
 
 これまで何度も触れてきたが、今の「理論」で解析ができないからと言って、「本来の貫の効能」を無視・黙殺するのは科学的(scientific)ではない。南大門は、建設当時の材のまま、800年以上にわたり、無事に建っているのだから。
 先ず、この「事実」の正当な認識から始めよう。

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日本の建築技術の展開-9・・・・何が変ったか

2007-04-02 01:26:06 | 日本の建築技術の展開

[補足追加:9.07AM]

 東大寺の復興にあたり採用されたいわゆる「大仏様(だいぶつよう)」の実施例については、すでに昨年10月20日、11月28~30日に載せている。
 ここでは、「大仏様」が、それ以前の方法とどこがどのように変ったか、という点で触れる。
 そのためには、図面を並べて見るのが一番分かりやすい。かと言って、この画面上に全部を横並びはできないから、文章で述べることになる。

 南大門の架構方式
 1.柱を屋根面近くまで伸ばして、「斗組」は柱の上から下に組む。
     註 従来の工法は、「斗組」を柱の上に順に組上げてゆく。
 2.伸ばした柱の上部に、梁行方向に貫通する孔を開け、差し通した横材(「挿
   肘木:さしひじき」と呼ぶ)の先端に「出桁:でげた」を流し、「垂木を受
   ける。
 3.「出桁」を受ける「肘木」の上に、さらに短い「挿肘木」を設け、柱列と
   「出桁」との中間の「桁」:母屋に相当:を受ける。
 4.「出桁」を受ける「挿肘木」の下にも「挿肘木」が何段も設けられ、その内
   の一または二段おきの「挿肘木」は、柱を貫き内側に伸ばされ、反対側の柱
   に至り、柱を貫通して「挿肘木」となる。
   この柱を貫く部分を、通常「貫(ぬき)」と呼ぶ。
   「貫」は柱に楔(くさび)で締め付けられる。
     註 言い換えれば、「貫」の両端が側柱の外側で「挿肘木」になる。
   この「貫」と同じレベルで、桁行方向にも「貫」を通す(補足追加)。
   柱相互が、縦横に「貫」で縫われた結果、柱が撓む(挫屈)恐れはなくな
   り、「柱」と「貫」で強固な立体に仕上がる。
     註 木製の梯子(はしご)を想像すればよく分かる。
       二本の細い材を何段もの横材でつないだ梯子は、梯子面の側面から
       押しても撓まない(横にして梯子の面を垂直に置けば、梁にも使え
       る:細い材でつくる「合成梁」の一種。通常、内法上の小壁も合成
       梁になっている。

       柱相互を何段も「貫」で縦横に縫うと、梯子四本で直方体をこさえ
       たことと同じになり、全体が強固な立体になる。
       それゆえ、壁がなくても壊れにくい。南大門が《耐力壁》がなくて
       も強い理由。
 5.「挿肘木」を何段も設けたときに、柱を貫通する孔が接近しすぎないように
   するため、「挿肘木」間の「斗」の下部に皿上の繰り出しを設けて「斗」の
   高さを高くしている(「皿斗」と言う)。
 6.側柱の中間で(桁行方向の柱と柱の中間で)、「頭貫」の上に「蟇股(かえ
   るまた)」様の座を支点として垂木勾配なりの独立した斜材を桁行方向に据
   え、柱間中間の母屋を受ける。
   この斜め材を、「遊離尾垂木(ゆうりおだるき)」と呼ぶ。
   この呼称は、材が独立していることからの命名。
   この材は、垂木が架けられてはじめて安定し、効力を発揮する。
     註 通常の「尾垂木」は、後端を上部の小屋組で押える。
       「遊離尾垂木」は「浄土寺浄土堂」でも用いている。
 7.軒を支えるために深く突き出た「斗組」相互を、肘木数段おきに横材(「通
   し肘木」)を流してその横振れを防ぐ(上掲写真参照)。
 8.垂木の先端に「鼻隠し」を設ける。
   「鼻隠し」は、「出桁」からの垂木の出が短いことを隠し、また垂木先端の
   狂いを防ぐ意味があったと考えられる。
     註 従来の架構と比べ、軒桁からの垂木の出が少ない。

 以上が「南大門」にみる「大仏様」の特徴である。なお、「浄土寺浄土堂」と「南大門」は、軒先部分が異なる。

 以上の特徴の中で特筆すべき点は、「貫」の工法である。これにより、部材が一体の立体に組立てられ、「長押」の時代に比べ、格段に頑強な架構が確保できるようになったからである。
 それゆえ、「大仏様」そのものは広まることはなかったが、「貫」の効能は、その後広く民間にまで行き渡る。
 その意味で、その後の「日本の建築技術の展開」の礎になったことは間違いない。


 なお、一般に、「大仏様」は、「貫」を含めて、中国「宋」の技法の影響と言われているが、「図像中国建築史」を通観したところ、「貫」に類する技法は見当たらないので、もう少し調べてみたい。
 ただ、先回紹介の「山西五台山 仏光寺」(唐の時代)の断面で、柱頭に何段もの肘木と梁を縦横に架け渡しているところは、若干似た雰囲気があり、それは「宋」の時代でも同様である(挿肘木ではない)。折を見て、中国の「仏光寺」以外の時代の例を紹介する。
 

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