日本の建築技術の展開-12・・・・多層の建物:その2-鹿苑寺金閣

2007-04-13 04:33:00 | 日本の建築技術の展開

 「鹿苑寺」:通称金閣寺は「金閣」があるための呼称。
 「鹿苑寺」は足利義満の菩提寺として、1420年(応永27年)ごろ、義満の「北山殿」の屋敷、建物の一部を引継ぎ、創立された臨済宗の禅寺である。
 「金閣」は、義満の「北山殿」の一部、「北御所」(義満自身の居所)の舎利殿として、1398年(応永5年)に完工。
 つまり、「鹿苑寺」創立前からあった建物。もちろん今の建物は昭和の再建。

 第一層は寝殿造形式で住宅様、第二層は和様の仏堂風、そして第三層は禅宗様の仏堂風。言ってみれば、各層が当時の建物様式を紹介する展示場。

 第一層と第二層は5.5間×4間の同形。ただし、1間は7尺2分(約2.1m)。
 側の柱を通し柱とし、各層とも大梁で床を支え、第三層は第二層の南北の大梁の上に直交する桁を土台として別途組まれている(図参照)。
 柱は4寸5分角(約135mm)。大梁の高さは約1尺5寸(約45cm)。柱も梁も、寸面はそんなに大きくない(今の《在来工法》だったら、柱は5寸以上、梁は2尺・・になるだろう。第一、こんな建物、「確認」が下りない!)。

 一・二層では、南面の広縁部で、柱を抜いて約17.5尺(≒5.3m)とばしているが、これは古代以来の一間ごとに柱を立てる方法から脱した最古の例という。

 通し柱に梁を差して総二階をつくる、柱を抜く・・などをする一方、古代にならった方法で第三層を載せる、等々、この建物では、その当時までに得られていた、あるいは到達していた技術が、総動員されていると見ることができるのではないだろうか。

 この建物は、当時の中心、京都にある。国の中心の卓抜した工人たちの仕事であることはたしかである。
 しかし、それは都だけの話ではない。
 そのころ各地で寺院が再興、修復されていることでも分かるように、東大寺が再建されて約200年、建物づくりの技術は、各地の工人たちの間でも、静かに、着実に、確実な進展を見せていたのである。
 そしてそれは、明らかに、次の発展を予感させる。さらにたくましく、そしてさらに繊細に・・・。

 上掲の図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より転載、編集。
 解説も同書を参考にした。

 ここまで見てきたように、古代、中世・・と、人びと:工人たちのたゆみなき工夫の数々が技術を発展させてきた。そしてそれは、これから触れる近世でもまったく変わらない。
 そうであるのに、近代以降、突然進展が停まる。むしろ退化している。人びとの自由奔放な工夫も萎えている。というより、工夫しなくなった。いや、できなくなった。むろん今は・・。
 それは何故だ?

 近代以降、たしかに「封建時代」ではなくなった。
 しかし、「封建主義」が、「封建時代」よりも、むしろ強化されたからではないか、と私には思える。

  註 封建主義:支配的立場にある人が下の者を、文句を言わずに
           服従させるやりかた。 
    封建時代:君主が土地を諸侯に分け与えて領地を治めさせる代りに、
          国家有事の際に忠誠を誓わせたこと。
                            「新明解国語辞典」による
コメント (6)
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