道・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係

2006-11-23 16:21:49 | 居住環境
◇「地理に明るい」とはどういうことか

先回、道に迷った話を書いた。なぜ迷うのか。あたりの地理を知らない、地理に明るくない、つまり分からないからである(地理=地にきざまれている理屈:その土地の様子)。
地図を見れば分かるではないか、という人もいるかもしれない。最近なら、カーナビを使えば一発だ、と言われるだろう。

しかし、地図を見るにあたっては、先ず、「今どこにいるのか」を知らなければならない。
原野のまっただなか、どうやって今いる位置を知るか。それには、現在位置が分かるところまで、戻るしかない。
カーナビなら、現在位置などすぐ示される。そうかもしれない。
しかし、それは「分かったこと」ではない。「分かった」と言えるのは、同じ場所へ、カーナビにたよらなくても、次からは迷うことなくすいすいと行けた場合のことだろう。
カーナビの場合、人はあたかもベルトコンベアーに乗せられた荷物のように、「指示」に従うだけで、「分かって動いている」のではない。

「カーナビにたよる」ことは、「人に案内されて目的地に行く」のと似ている(タクシーで目的地に行くのも同じ)。二度目に一人で行けるかというと、必ずしもそうではない。自分の中に、目的地までの「案内」が構築されないからだ。カーナビの場合は、おそらく、いつも、いつまでも、カーナビにたよるしかないのではないか。

◇人は、どうやって「地理に明るくなる」か

頻繁に訪れる場所でないかぎり、その場所の地理に明るくなる必要はない。しかし、頻繁に訪れる場所については、回数を重ねるたびに、自然に地理に明るくなる。
初めて訪れるとき、「私に分かっている」のは、その初めての場所への「入口」までである。目的物は、目の前のいわば未知の大海の中にある。だから、「入口」とは、私のよく知っている世界(自由自在に振舞える世界)からの「出口」と言ってもよい。
その未知の大海の中の目的物へ向って、人は、「多分こちらだろう」と「見当」をつけて歩き出す。「見当」をつけないかぎり、つまり、「入口」と「目的物」を結ぶ線上にいるのではないか、と思わないかぎり、足は動かないからだ。
別の言い方をすれば、人というのは、いつも「自分の所在位置の確認」をしながら歩いている、ということになる。
だから、初めての土地では、きわめて不確かで不安な状態が続く。地図を持っていて、地図と対照すると多少は不安は消えるが、ほんとに解消するのは目的物へ到達したときだ。
もちろん、自由自在に振舞える世界にいるときでも、人はかならず「自分の所在位置の確認」を行っている。ただ、不安に感じることがないから、意識に上らないだけにすぎない。

この「所在位置の確認」は、「自分の目の前の空間の様態(目の見える人の場合)」、あるいは「自分の身のまわりに広がる空間の様態(目の不自由な人の場合)」から、感覚的に(その人の感性で)捉えられるのが常だ。「この先には、多分、こんな空間があり、そこは、目指している目的物のある所へ続く」と「勝手な想像」をするのである。人は常に、無意識のうちにこの「勝手な想像」を繰り返している。そして、その「想像」が裏切られなければ、不安は起きない。

◇建物の設計とは

だから、建物の設計とは(街の計画も含め)、『人の「勝手な想像」を裏切らないような空間の様態をつくること』と言ってよいだろう。人の感性に絶大な信をおかないとできない。人それぞれの感性に信をおく、ということである。

こういうと、たいてい、人それぞれ、十人十色、そんなことはあり得ない、と言われるのが常だ。
しかし、
十人十色ということは、ものに対する人の感覚が人によってまったく異なる、ということではない。
むしろ、ものに対する人の感覚は人によらず共通であり、しかし、そこでそれぞれが捉えたものに対してのそれぞれの反応・解釈に、十人十色の違いが生まれる、と考えた方がよいだろう。
そうだからこそ、人の世界に互いに通じる「言葉:言語」が生まれたのだ。


けれども日常、得てして、「ものに対する率直な感覚」と、「感覚で捉えたものへの反応・解釈(簡単に言えば「好き嫌い」)」とを混同してしまいがちだ。そこの見極めのためには、素直にならなければならない、先入観を捨て去るようにつとめなければならないのだが、これが難しい。

過日紹介したA・アアルトの設計は、「人の想像を裏切らない設計」の好例と言えるだろう。
一方、上に掲げた図は、そのまったく逆、人の想像を裏切り、人を不安に陥れることを目指したかのような設計の実例である。
これはある大病院の外来部の平面図である。
この病院では、初診の外来患者はもとより、ときには再診の患者さえも、迷子になる。外来診療室へ簡単にたどりつけないのだ。
患者は、目の前に広がる空間の様態から判断して、平面図の〇で囲んだ《交差点》を直進してしまうのである(外来診療室:網を掛けた部分:へは左に曲がらなければならない)。

最近、このような設計が多い。「案内板:サインで分かりやすくなる」と思っているようだが、それは大きな誤解。
先の病院の《交差点》にも、外来診療部は左へ、という案内板はあるが、人は、案内板にたよるより前に、先ず自分の感覚をたよりに行動するものなのだ。

〇なお、この件については、先に茨城県建築士会会報「けんちく茨城:№62」にも『疲れる建物・疲れない建物』という表題で書かせていただいた(そこでは別のアアルトの設計例を「好例」として挙げた)。図はその際作成したものの転載である。 

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