建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「冬」とは何か・・・ことば・概念・リアリティ

2006-11-25 20:28:00 | 「学」「科学」「研究」のありかた

例年よりも相当遅れて、木々が紅葉しだした。遅いとは言え、間違いなく、そこまで「冬」が近づいている。写真は、数日前の、近くの農家の屋敷林の風景。高さ20メートルを越えていそうな見事なケヤキ。
  
ところで、私たちはいつも、冬になった、冬が過ぎて春が来たらしい、などとなにげなく語り済ましている。だが、もしもことあらたまって、「冬」とは何か、と問われたとして、私たちに、「冬とはかくかくしかじかのものである」、と明確に定義・説明ができるだろうか。

もちろん、冬という季節が備えていると思える特性をいくつか並べることはできる。寒い、冷える、太陽高度が低い、日射が少ない、夜が長い、落葉樹の葉が無い、・・特性とおぼしきものは、多分際限なく挙げられるだろう。ちなみに国語辞典には、「四季の一、秋と春の間の季節、太陽暦では12月~2月を指す、天文学では冬至から春分まで、夜が長く四季の中で最も寒い、・・・」とある。

だが、いかにこういった特性を数えあげてみても、また外枠から(秋と春の間というような)規定を試みても、それで私たちが抱いている冬の概念、冬のイメージが語りつくせるわけではない。それらはたしかに冬の属性ではあるけれども、あくまでもある局面で切りとったいわば冬というものの一側面、一断片にすぎず、一方私たちが冬なるものとして心のうちに抱いているのは、そのような断片ではなく、そうかといってそれらの断片を寄せ集めたものでもない。

私たちが「心のうちに抱いている冬」は(この「心のうちに抱いているもの・こと」という意がconcept:概念ということばの本義である)、私たちが、それぞれの「冬の情景・リアリティ」を通して得ている、「ある『漠然とした』冬の全体像」なのである。

ここで『漠然とした』ということばの意味は、冬というものが「あいまい」で「いいかげんな」概念だ、ということではない。なぜなら、「冬」は私たちの中に厳然として存在するからだ。つまり、ここでの「漠然とした」という意味は、抽象的な言辞によっては、その概念の内容を明確に規定できず、「その意味であいまいにならざるを得ない」ということを意味しているにすぎない。

では、どうしたら厳然として存在する「冬」を正確に語り、伝えることができるのだろうか。
それには、私たち個々の「まったく個人的な冬での経験」、「そこでみた冬の情景」を語ればよいのである。


こう言うと、いまの世の中は一般に、なにごとをも数字で比較し判断することに慣れてしまっているから、これではあまりにも情緒的で、しかも個人的だ、同一性にも精密性にも欠け、不確実極まりない、と思う人が多いだろう。
しかし、そうではない。誰かが、窓に息をふきかけたらたちまちのうちに凍ってしまった、と語ったとしよう。そういう経験は私にはない。しかし、私には「分かる」。その情景を想像してみることができる。


もちろん、その想像してみた情景は、伝えてくれた当人の直面した情景と同じという保証はまったくない。それでもなお、氷点下○○度などという表現よりも、想像で私のなかに生まれた「了解」の方が、よりリアリティに近づいていることは確かである(氷点下○○度という表現から、窓に息をふきかけると凍りつく、という情景は、直ちには浮かんではこない)。

つまり、
互いに異なる情景を語ることによって、私たちは互いに、よりリアリティに近づいて「冬」を語り、伝えあうことができる。
それは、私たちは互いに異なった事象にめぐりあいながらも、「冬」についてのある「概念」を、それは決して明確には指示できないのだが、共有しているからだと考えてよい。
というより、それを「共有している」からこそ、私たちは単に「私」の寄せ集めではなく「私たち」という一人称であり得るのであり、そして、「私たち」が存在するからこそ『冬』という「ことば」が存在し、また、その『冬』という「ことば」に、私たちそれぞれの冬の情景を託すことができる。

これが、「ことば」というもの、「概念」いうものの本質であって、人間が、それぞれの集団・社会ごとに、「言語」というものを持ち得た所以なのである。


いま一般に、ある「概念」・ことばの背後には必ず私たちそれぞれの感性に拠ってとらえられたリアリティが存在するのだという厳然たる事実が、忘れ去られる一途にあるように思える。
概念はすべて精密に定義・記述されなければならないと信じこみ、精密にいわば指折り数えられないものは不確実なものとして捨て去るか、あるいは、指折り数えられるように実態を改変して見ようとする《努力》が、《科学》の名の下で重ねられる。
後者の場合、すでに対象は似て非なるものに変ってしまっているにもかかわらず、それに気がつかない(むしろ、気がつきたくない)。


建築の世界でも、対象を似て非なるものに置き換えて得られた《考え方》が横行し、そのおかしさを指摘しても、なかなか納得はしてもらえない。《数値化》できたのだから科学的なのだと、信じて疑わないからだ。

そこで、大分昔読んで、大いに感銘を受けたある物理学者の一文を紹介しよう。
「・・現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・安定しているという経験である。・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・。というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。・・」

                      (ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳 みすず書房)

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