過渡期の体験

2007-08-15 23:06:31 | 論評
[タイトル変更:8月16日0.18AM」[記述修正:8月16日8.08AM]

そのとき、甲府盆地の西端の町、山梨県中巨摩郡竜王町(最近、甲府市に合併したらしい)の「国民学校」3年生だった。1年の終りごろか2年の初め(昭和19年の初めごろだったろう)、東京から疎開していたのである。「集団疎開」に対して「縁故疎開」と呼んだ。伝手をたどっての疎開と言う意味。大きな農家の土蔵を借りていた。甲府盆地は夏暑く冬寒いところ。あとから考えてみると、土蔵の中は、たしかに夏涼しく冬もそんなに冷えなかった。

   註 「国民学校」はドイツの真似であった(Volks Schule)。

その日、8月15日はものすごく暑く、空は抜けるように高く、空気はカラカラに乾いていた。ただ、どういうわけか、雨滴が落ち、乾いた赤茶色の土煙を立てたことを覚えている。夕立でもあったのか、そのあたりはよく覚えていない。

1年のときは東京郊外の学校、しかし、学校での風景は記憶にない。防空頭巾を持ち登校し、着いたと思うとほとんど間髪をいれず、それを被って走って帰ったものだ。家まで約300m。9時ごろには決まって警戒警報、空襲警報が出たからである。もう戦争も末期に近く、B29の空襲はもちろん、艦載機による攻撃も始まっていた。夜の空襲では、地上からの高射砲の軌跡はB29のはるか手前で屈折し、昼間の地上からの戦闘機も、近づく間もなく撃墜されていった。これは無理だ。それが急遽疎開することになった理由だった。

しかし、疎開した先も決して安泰だったわけではなく、甲府も空襲で焼けた。竜王の町の南隣の村には、非常用の滑走路があり、日本軍虎の子の僅かばかりの戦闘機が藪かげに隠されていた。学校にも軍隊が駐留していた。しかし、幸い、それらは攻撃の対象にはされず、空襲警報に怯えることなく、終戦・敗戦を迎えた。
農村とはいえ、食糧は足りなかった。野蒜などの野草の類を集めに歩きまわった。サツマイモの蔓も食べた。食糧を求めて、炎天下、近くの農村を訪ね歩いたりもした。

ここでも学校での風景はあまり記憶になく、あるのは、近在のガキ大将に連れられて歩き回った野や川での風景だ。
竜王の町のすぐ西を釜無川という暴れ川が流れている。富士川の上流にあたり、信玄堤で有名な川。石を詰めた何本もの竹で編んだ蛇籠が川岸に直角に並べられていた。後で知ったのだが、それが信玄堤と称される治水法だった。
農家では養蚕やスモモづくりが盛んで、甘いものがなかった時代、桑の実(たしかガミとか呼んでいたようだ)を採って食べ、ときにはスモモを丸かじりした。

   註 当時の中央本線は、甲府以西は電化されておらず、
      蒸気機関車が牽引する時代。
      竜王から西は小淵沢に向けてかなりの登り坂。
      機関車は気息奄々、汽笛を吹鳴しながら登ってゆく。
      「遠くで汽笛を聞きながら」という歌をきくと、
      いつもその情景を思い出す。
      とりわけ、夜の機関車の響きと汽笛は
      あたり一帯にこだましてうら寂しいものだった。 

東京に戻ったのは4年生のとき。まだ「国民学校」だったと思う(名称が「小学校」に再び戻ったのは、5年生のころではなかったか)。
しかし、学校で何か学習があったという記憶がない。教室で、何となくざわざわとすごすばかりだった。教師が教室に出てこないのである。後から想像するに、教える内容が、定まっていなかったからにちがいない。教科書は、古いもの。墨を塗る「作業」も経験した。どこかを探すと、しまってあるかもしれない。
教科書が新しくなったのは、たしか5年生になってから。新しくなったといっても、ちゃんと製本したものではなく、製本以前の大判の紙に裏表印刷され裁断前のままが配られ、各自で製本をする。これはそれなりに楽しい作業だった。

学校には、「新制中学」も同居するようになった。これまでの中学・「旧制中学」は高校になる。旧制と新制とが同居した時代である。高校に行っても大学に入っても、常に近くに、旧制の高校生、大学生がいたから、その両方の様態を知ろうとしなくても知ってしまった。

今考えてみると、このようないわば過渡期を過ごしたこと、すなわち、昨日と今日が簡単に眞反対になる事態、一日で平然と宗旨替えをする人たち・・・、を目の当たりにして、何が妥当で何が不当か、常に「自分の感覚」で考えなければならないこと、常に「自分の感覚」で考える癖を、自然と身に付けてしまったらしい。


戦後使われるようになった「言葉」には、いろいろ考えさせられる語がたくさんある。例えば、「教育基本法」、そして例えば「建築基準法」。
「基本」と「基準」、似ているようでまったく異なる。「基本」はまだ分る。しかし「基準」は、少なくとも「建築基準法」の場合は不可解である。なぜなら、「基準」と言いながら一定せず、頻繁に変るからである。そういうのを「基準」と呼ぶことは、「基準」の語の意味を逸脱している。例えて言えば、それは、メートル法の基準である1mの長さ(メートル原器)を随意に変えるに等しいからだ(昔と今では、1mの規定の仕方こそ変ったが、1mの長さそのものは変っていない)。

ところが、「建築基準法」の「基準」は安易に変えられてきた。そういうのを見ると、「これは怪しい」と過渡期の暮しで身に付けた「癖」が動き出し、基準法そのものの規定、規定の仕方を疑いだす。私が「在来工法」なる「学術用語」に疑義を抱いたのも、私の「癖」のなせること。
簡単に言えば、おかしなこと、おかしいと感じられることは、とことんおかしくなくなるまで考え続けよう。これが私が「過渡期」で学んだこと。

世のなか、おかしくなりつつある。「右へ習え」が、そして、「一色に染める」こと、「一色に染まる」ことが、またぞろ好まれる時代が来そうな気もする。それで本当にいいのだろうか。

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