中国大陸内陸部で巨大地震が起きた。建物の破壊も著しい。
日本の地震の《専門家》は、案の定、土や煉瓦、石でつくった建物が壊れた、つまり「組積造の建物が地震で壊れた」と公言してはばからない。
しかし、TVの映像では、石造や煉瓦造でも、地震に遭っても健在な建物が写っている。組積造でも壊れなかった建物があるではないか!。
つまり、彼ら日本の《専門家》の頭には、「組積造は絶対に地震に弱い」という先入観が、根深く巣くっている、はびこっている、と考えてよい。その目でものをみてしまうのだ。あるいは、見もしないでものを言う。
彼らは、正真正銘の「科学者」ではないのだ。
人がある場所に定住することを決めたとき、最初に彼らは何をするか。
それは、「とりあえず、毎日を営むことのできる住まい」をつくろうとすることだ。「未来永劫存在し続ける建屋」をつくることなど、念頭にない。
そして、そこで毎日を暮し続けてゆくうちに、ゆとりを持って毎日を暮すことのできる日も来るだろう。
そしてそのとき、人びとは、それまでのいわば「仮の住まい」を、「未来永劫存在し続けることのできる建屋」に建替えようと考える。そうしてできる建物は、簡単には地震でも壊れない。・・・
このあたりまえの人の営為に目を向けない《耐震》論ほど、虚しいものはない、と私は思う。
いたずらに「耐震補強」を唱える前に、まず人びとが、ゆとりを持って暮すことのできるような状況をつくりだすことこそが、必要なのではあるまいか。
組積造と地震についての西欧の人たちの考え方については、以前紹介した⇒煉瓦造と地震-1、煉瓦造と地震-2。
日本の地震の《専門家》は、案の定、土や煉瓦、石でつくった建物が壊れた、つまり「組積造の建物が地震で壊れた」と公言してはばからない。
しかし、TVの映像では、石造や煉瓦造でも、地震に遭っても健在な建物が写っている。組積造でも壊れなかった建物があるではないか!。
つまり、彼ら日本の《専門家》の頭には、「組積造は絶対に地震に弱い」という先入観が、根深く巣くっている、はびこっている、と考えてよい。その目でものをみてしまうのだ。あるいは、見もしないでものを言う。
彼らは、正真正銘の「科学者」ではないのだ。
人がある場所に定住することを決めたとき、最初に彼らは何をするか。
それは、「とりあえず、毎日を営むことのできる住まい」をつくろうとすることだ。「未来永劫存在し続ける建屋」をつくることなど、念頭にない。
そして、そこで毎日を暮し続けてゆくうちに、ゆとりを持って毎日を暮すことのできる日も来るだろう。
そしてそのとき、人びとは、それまでのいわば「仮の住まい」を、「未来永劫存在し続けることのできる建屋」に建替えようと考える。そうしてできる建物は、簡単には地震でも壊れない。・・・
このあたりまえの人の営為に目を向けない《耐震》論ほど、虚しいものはない、と私は思う。
いたずらに「耐震補強」を唱える前に、まず人びとが、ゆとりを持って暮すことのできるような状況をつくりだすことこそが、必要なのではあるまいか。
組積造と地震についての西欧の人たちの考え方については、以前紹介した⇒煉瓦造と地震-1、煉瓦造と地震-2。
という観念は根強いですね。
関東大震災の時に、東京駅は残り、ニコライ堂や銀座界隈の建物はことごとく倒壊したという話しを聞いたことがあります(乞事実確認)。
これを、濃尾地震前に建てられた組積造と、その後に建てられた組積造に分けて考えることは出来ないかという指摘をある研究者がしていました。
実際の所、東京駅などは煉瓦造とはいいつつ、鉄骨煉瓦造といったほうが良いほど鉄骨がふんだんに使われているといわれています。
いずれにしろ、被災地から発する強烈なイメージに抗することは難しいです。
要は、壊れ方の問題。
人命にかかわるような壊れ方にならなければよし、
と考えた方がよいのでは。
そして、できるならば、
壊れても、手を入れることで
修復できるような壊れ方で済むこと・・・。
その意味で「耐震」という言葉は、誤解を生じます。現に生じています。
「自然」に対して、どう付き合うか、という意味で
私は「対震」の方を採りたいと考えています。