想像を絶する「想定外」

2011-03-20 22:16:13 | 地震への対し方:対震
[註記追加 21日10.57]。[文言追加 21日 15.59][註記追加 21日 19.32][追記追加 22日 8.04][文言補足 22日 17.28]

想像を絶する津波被害には、言葉がありません。呆然としています。
そして、紛うことなき人災:原発事故。



この地図は、参謀本部陸軍部測量局によって明治22年、23年に作成された三陸海岸の1/20万地形図です(「日本歴史地名大系 宮城県」より)。上方の湾が陸前高田、続いて気仙沼、志津川(南三陸)と湾が並んでいます。最近の(震災直前の)地図と比較しようと思っていますが、できていません。


子どもの頃、「稲村が崎」の話を読んだり聞いたりした記憶があります。鎌倉の話です。
収穫の秋、村の高台に居を構える村の名主が、普段と違う地震に異変を感じ、海を眺めると潮が引いてゆく。津波の前兆と察して、収穫したばかりの稲束を集めて火をつけ、火を見た村人たちは火事と思い火の元へ駆けつけ、その結果、村人たちは津波に遭わずに済んだ、という話。

四半世紀前、三陸を巡ったとき、田老など各所の海岸で、見上げるばかりの防潮堤・水門を見て驚いたことがあります。
このたびの津波は、建設時の「想定」を越えたもので、一部が倒壊したとのことです。
三陸大津波の後、田老では、高台に居を移す話もあったそうですが、やはり、海に近い方がいい、ということで、おそらく、工学畑の専門家の進言があったのでしょう防潮堤を築造することになったのだそうです。
防潮堤の高さは、それまでの最大潮位を基につくっている。


今回の福島第一原発の恐るべき事態について、TVで、東京電力の社長が、この被災は「地震による揺れではなく、想定外の津波が非常用電源にかかり機能しなくなったため」と言っているのを聞きました。
「想定外」という大災害の後かならず聞こえてくる語が、やはり使われています。

東京電力HPに、「原子力発電所の安全対策について」という項があり、そこに、津波への対策として、次のように書かれています。読みやすいように段落は変えてあります。

  津波への対策 
  原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、
  過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価し、
  重要施設の安全性を確認しています。
  また、発電所敷地の高さに余裕を持たせるなどの様々な安全対策を講じています。

この引用は、いったい、東電(の社長)の「想定」が何であったかを知るためのものです。

私には、これを読むと、何が「想定外」であったのか、分りません。
なぜなら、「過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価し、重要施設の安全性を確認」している、と明言しているからです。この言に従う限り、今回の津波は「想定内」のはずです。

それゆえ、こう明言した上で「想定外」と言う以上、論理的には、「過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価」した「評価」が誤りであったということになります。
つまり、「発電所の設計」の「前提」が誤りであった、あの場所に原発をつくることは間違いだった、ということです。

このことは、近・現代の「工学的設計思想」の重大な「欠陥」「欠落」部分を象徴的に示している、と私は思います。

いったい、「敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価した」「評価」の妥当性、正当性について、どのような「評価」が為されたのでしょうか。
「評価を下した人たち」の「評価」にあたっての「根拠」は何だったか、明らかにしているのでしょうか?
終わってから「想定外」と言うなら、専門家でなくても、誰にでもできる。

そして何よりも、安全に扱うことができないことが分っている、廃棄物の処理も簡単にはできないことが分っている「核燃料」を、「大丈夫だ、最新の科学・技術で安全に扱うことができる」、とした「判断」の根拠は、いったいどこにあるというのでしょう?

「設計」という営為は、人がこの世に誕生したとき以来、人びとにより為されてきたことです。
しかし、その古来人びとの為してきた「設計」と、近・現代の「工学的設計」とは「思想」がまったく異なっています。

現在は、「工学的設計」こそ「範たる設計法」だ、という考え方が広く流布しています。近・現代の「工学的設計思想」による設計は、必ず、ある「目標(値)」を掲げ、その目標(値)の完遂を設計の指針とするのが普通です。
建物の「耐震基準」もそれです。

このような「設計の論理」は、「数値シミュレーションによる評価」がない限り、設計は行うことはできない、と言うことをも意味しています。そして、これが「工学的設計の真髄」と言ってよいでしょう。

一方、古来人びとが行ってきた「設計」は、このような「目標(値)」を立てて行われたものではない。
もちろん、彼らもまた、彼らの「経験」から、何をしたらよいか考えたはずです。
そのとき彼らは、不可能なものは不可能として認め、人にできないものを無理してまでも行おうなどという無謀なことはしませんでした。
彼らは、不可能なこと・危ないモノを、「勘」「直観」で見分けていたのです。現代の科学者たちは、それを、非科学的だと言います。
しかし、古来の人びとは、本当に非科学的だったのでしょうか?
   
   しかも、「数値シミュレーションによる評価」などせずに、
   彼らの建設した多くの構築物・建物が、数百年の時を経て、なお健在なのです。
   現代の科学者たちは、何故、この厳然たる事実に目を遣らないのでしょう。
   [註記追加 21日10.57]

古来の人びとと、近・現代の科学者たちとの最大の違いは、
古来の人びとは、世の中に在る事象、とりわけ「自然の現象」には、「人智の及ばない、及び得ない事象が多々在る」との認識を、当たり前のこととして持ち、それゆえ自然の力に対して、力ずくで対応する、などということは考えなかったのに対し、
近・現代の科学者たち、とりわけ「工学畑の科学者」には、人智の及ばない事象はない、あるいは、先進の科学・技術には人智の及ばない事象などない、という視座をとる方がたが多い、ということです。

私は、「人智の及ばない、及び得ない事象が多々在る」との認識こそが、科学的な:scientific な認識である、と思います。
逆に言えば、「人智の及ばない、及び得ない事象が多々在る とは思わない」「そういう事象に対しても、科学・技術で対応できる、それが人智だ」などと考えることこそ、non-sense であり、non-scientific である、ということです


おそらくこれから、原発の安全、危険の論議がされるに違いありません。
そしておそらく、今回の津波を基に、新たな防潮堤の「基準」づくりに走るのも間違いありません。現に、建設中の原発で、高さ12mの防潮堤を新設する、という発表があったそうです。
しかし、これで安全かどうか議論しても、不毛です。non-sense です。

肝腎なことは、自然現象を、完璧に予測できるのか、そして、核燃料・放射線物質の放射線を完全に制御できるかどうか、の問題です。
昔に比べればかなり分ってきた、ある程度は予測できる、というのは答えになりません。
なぜならそれは、完全には分っていない、という事実の裏返しの表現に過ぎないからです。
完全に予測できない以上、「耐」地震、「耐」津波・・・などはあり得ないのです。
[文言追加 21日 15.59]

そしてまた、ある程度制御できる、危険にならない程度まで制御できる、というのは答えになりません。
なぜならそれは、完全に制御できないという厳然たる事実の裏返しの表現に過ぎないからです。
放射線量を確実に0にすることができない以上、安全ということはないのです。
要するに何をしても危険は危険だ、というのが厳然たる事実
なのです。

   昨年の春先に、「現代の科学の実態」について書かれたある書物を、その書評で紹介させていただきました。
   2010年3月21日付「毎日新聞(東京)」朝刊からの転載です。再掲します。
  


まして、この程度の被曝量は、人はいつも自然界から受けている、だから問題ない、という論理で「安全」を論議したり、「安全」を説くのはやめましょう。
なぜなら、「この程度の被曝量」は、わざわざ人工的につくりだしたもの、つくりださなければ存在しなかったものだからです

人に暴行を加えておいて、この程度の暴行では人命に損傷がない、だからと言って、暴行を正当化できますか?

1986年のチェルノブイリ原発事故に際して、森滝市郎氏(当時の原水禁代表)は、次のように語っています。

・・・・
核エネルギーは軍事利用であっても、平和利用であっても、人類の生存を危うくするものであり、核エネルギーと人類は共存できないと思い定めて、核絶対否定の道を歩むことが人類の生きる道ではないでしょうか。
・・・・


   註 4年ほど前に、やはり地震があったとき、同様の感想を書いていました(下記)。
      『「想定外」と「絶対」・・・近現代工学の陥し穴』 [註記追加 21日 19.32]

   追記 [追記追加 22日 8.04]
   お寄せいただいたコメントに「基準(値)」についてのご意見がありました。
   何でも「基準」で片づける不条理について下記で書きました。
     「基準依存症候群・・・・指針、規定、そして基準」

   海外では、原発損壊で避難をしなければならないような事態になっても
   「静かな」日本人を「称賛」している、という報道があるとのこと。[文言補足 22日 17.28]
   それは「誤解」だ、と私は思います。
   近代化以前、つまり明治以前はそんなことはなかったはず。おそらく一揆が起きたでしょう。
   明治以降、人びとは「飼い慣らされてしまった」のではないでしょうか。
   天は人の上に人はつくらなかった、かもしれませんが、
   明治以降、「国」は進んで「人の上に人をつくってきた」のです。
   どんな人を?偉い人たち:学者とお役人・・・を。
   人びとは、偉い人のつくる「基準」に唯々諾々として従うのが当たり前になってしまった!
   何故?ラクだから・・・。

   そうではありませんか?

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3 コメント

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Unknown (佐々)
2011-03-21 15:33:20
「基準」ほどいい加減な、誰かに都合のいいものはないと思っています。以前、IHクッキングヒーターの電磁波について、東電に問い合わせたことがあります。ヒーターから4,5㎝鍋を離しても鍋の水が沸く、危険はないのかと。答えは予想通りですが、「国際基準を下回っています」。妊婦が調理する場合の国際基準は、もちろんありません。結局自分の「勘」を信じるしかないのですね。
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人災 (ARAI)
2011-03-21 20:51:05
 スリーマイル、チェルノブイリ、東海臨界事故。これらは操作ミスなどの狭い意味での人災。それでは今回は...下山先生ならきっと人災と言われると思っていました。
 誤った前提の上に正しい推論をどれだけ積み上げようと導かれた結論に意味はありません。今までの事故、今回の事故、素人がみたって何かあればとんでもなく危険で決して安全でないことはわかる。「危険」は「結論」ではなくてむしろ「前提」。それなのに、何をどう想定したか明らかでないのに、その前提でなにやら理屈をつけて「安全」といっても意味が無い。専門家の設計の誤り。これが一つ。
 もう一つあるような気がします。「ヒトラーだって選挙で選ばれた」とよく言われますが、原発推進に突き進むのに賛成の方がいて反対の方も止められなかったという事実。原発反対の方が悔しそうに言いました。「チェルノブイリがあっても東海臨界事故があっても原発推進の世の中は変わらなかった」。何故だろうか。
 追伸: 物流途絶えるいわきで自分も「想定外」の経験をしました。なんとか無事に過ごし、本日避難しました。
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東電で左遷された人を探せ (ishi goro)
2011-03-23 16:47:05
阪神淡路大震災のほぼ一年前に発生したカリフォルニアでの地震被害を見た日本の専門家が、ああいうこと(高速道路の高架がなぎ倒される)は日本では起きないと言い放ったという話を聞いたことがあります。事実ではないかもしれませんし、無用な不安をあおらないためのコメントだったのかもしれません。
インドネシアでの大震災で発生した津波を、東京電力の方々は画像でごらんになって、同じ津波が原発を襲ったらどうなるか「想定」なさらなかったのでしょうか。
東電の社員の中にそういう想定をして、正面切って会社の中で議論しようとした人がいたことを信じたいです。
東電の中で原発の根本的な安全に疑問を投げかけるような発言は許されないのかもしれません。
そんな中で、左遷覚悟で(すでに左遷されていると思いますが)まっとうな主張した人が一人でもいれば、まだ東電も救われると思いました。
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