日本の建築技術の展開-28・・・・住まいと架構-その5:二階建ての町家-1

2007-05-27 19:13:02 | 日本の建築技術の展開

 奈良盆地の南端に「橿原(かしはら)市」という町がある。京都から近鉄京都線・橿原線で南へ向い(京都~西大寺が京都線、西大寺~橿原神宮が橿原線、直通運転をしている)、近鉄大阪線(大阪~名古屋)と交差する「大和八木(やまとやぎ)」駅とJR桜井線「畝傍(うねび)」駅が最寄の駅となる町。
 近鉄橿原線で「大和八木」の一つ南の駅「八木西口」を降りて西に数百m歩くと、「今井町」という一画に着く。「大和川」(大阪・堺にそそぐ重要河川)の源流が脇を通っている。

 ここは、室町時代の末ごろ、称念寺を中心に一向宗の門徒の「寺内町」として開かれたという。東西600m×南北300mのまわりに大和川から水を引いて濠を設け、9ヶ所の門からしか出入りできないいわば城砦のような町で、町内の道もところどころに屈折部が設けられている。
 町の住人たちは自治組織をつくり、領主から解放され、自由な商業を行っていた。信長が隆盛の一時期は武装が解除されたが、江戸時代に郡山藩領になると、商業保護政策により町の活力が重用され、従来のように町は自治に委ねられ、ふたたび繁栄する。近世には天領となるが、自治の伝統は引継がれ、金融業を営むものが多かったため、「大和の金は今井に七分」と言われるほどの繁栄をきわめる。

  註 今から3・40年ほど前、町内の道路には、
    一方通行などの交通標識が一切なかった。
    住民の自治意識が強く、
    警察の指導を受け入れなかったからだという。
    今は変っている。

 江戸期を通じて人口4000人程度、戸数は約900、持ち家と借家(長屋)が半々の構成だったという。
 持ち家層の建物には、代々町の「惣年寄」を務めた「今西家」(1650年:慶安3年の棟札)をはじめ、現在重要文化財に指定されている建物が、この狭い町域に数多く集中して残っている。
 今回は、その中でも純然たる商家である1662年(寛文2年)建設と考えられる「豊田家」と、1830~40年(天保年間)の建設と見られる「高木家」をとりあげ、このおよそ180年の間の技術の変遷を見てみようと思う。

  註 この二つの建物は、およそ300mしか離れていない。

    なお、一帯は、今は「伝統的建造物群保存地区」に指定され、
    「書割り」の並ぶような街並みに変ってしまった。
    3・40年前は、歴史ある街に暮す人びとの息吹きが感じられたが、
    今は、単なる一観光地。
    これは「伝建地区」に共通する問題ではないだろうか。


 上掲の図と写真は、酒造業を営む「豊田家」。建物は元は材木商の牧村家の建物だった。

 「土台」の使用はなく、柱はほとんどすべて「通し柱」で礎石立て、脚部は「足固め」で固めている。
 軸部には「貫」が少なく、東側外壁面と北側小壁面に用いられているだけである。

 「通し柱」を各間仕切り交点に立て、相互を「差鴨居」で結んでいる。1間:約6尺5寸が基準寸法のようだ。
 「通し柱」は標準が仕上り130mm(4寸3分)角で、「どま(にわ)」境の2本だけが太い(いわゆる「大黒柱」:1尺1寸角、および8寸角)。
 この太物の使用は、軸部の強度を「差鴨居」に依存するための策と考えられる。
 差鴨居の詳細は、上掲分解図のとおり。
 
 東側壁面には@半間で「通し柱」が立ち、「貫」は3寸6分×1寸2分弱@約3尺2寸、屋内側表し。

  註 この建物でも柱径は130mm:4寸3分角である。
    4寸3分あれば、差鴨居の仕口はまったく問題がない。
    この寸法は、ことによると幾多の事例の積重ねによる
    経験値なのかもしれない。

    淡路島北淡町で、阪神・淡路地震で倒壊した家屋は、
    3寸5分角(仕上り3寸3分)の柱に丈1尺2寸の差鴨居が入れてあり、
    仕口部で見事に柱が折れていた。
    3寸5分角の使用は、近代になってからのことではないだろうか。

 小屋組は、145mm(4寸7分強)角の束柱相互を2寸5分×8分強の「貫」で@平均2尺5寸で縫う。軸部の柱より太い束柱は珍しい。

 二階建てだが、本格的な二階ではなく、小屋裏の利用と言う方がよく、二階には小屋組の見える場所もある(このような二階を「厨子二階(ずしにかい)」と呼ぶようだ)。

 この二階床のつくり方は、現行の方法とは全く異なり、「差鴨居」上の束柱で「根太受」(現在の「小梁」に相当)を支え、それに「根太」を掛ける方式である。二階床はそのまま階下の天井となる(いわゆる「踏み天井」または「根太天井」と呼ぶ)。

 「通し柱」の丈のほぼ中間に、二段の横架材が差されるため、「貫」で縫った軸組と同等またはそれ以上に軸組を固める効果があると考えられる。
 この方法は、商家では地域を問わず使われている。

 「みせ」のモノクロ写真は「日本の美術№288 民家」、差鴨居の分解図は「修理工事報告書」、そのほかの図・写真は「日本の美術6 町家Ⅱ」より転載。一部の図には筆者加筆。

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