続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家

2008-02-15 11:06:00 | 日本の建築技術の展開

松本行の中央線は、笹子トンネルを抜け、眼下に甲府盆地が拡がり始める頃、「塩山(えんざん)」駅に着く。四月ごろの甲府盆地は、桃や李の花が咲き、全体がかすんで見える。

その塩山の駅のすぐ北側(歩いて数分)に「高野家」(重要文化財)がある。三層茅葺切妻屋根のきわめて大きな家。

高野家は古くから薬草の「甘草(かんぞう)」を栽培、販売していたため、「甘草屋敷」とも呼ばれている。現在の建物は、19世紀初期:1800年代初期の建築。
つくりは、先に紹介した養蚕農家同様、屋根裏のほとんどを使っている。ただ、用途は蚕室ではなく、甘草の乾燥用。

先に紹介の養蚕農家「富沢家」と大きく違うのは、「富沢家」が「茅葺寄棟」であるのに対し、「高野家」は「茅葺切妻」であること。
いわゆる「合掌造」も茅葺切妻だが、「高野家」のそれは、それとは大きく違う。言ってみれば、通常の切妻屋根の建屋が背伸びをした恰好。

茅葺屋根は寄棟、入母屋が普通で、茅葺切妻は、全国的に見てもきわめて少なく、関西・北陸では岐阜、大阪、奈良、富山、そして中部以東では山梨にしかないという。
大阪、奈良などの茅葺切妻は江戸時代も後期になってから現れるが、山梨は1700年代:18世紀前半にはすでに一般化していたようだ。

山梨の茅葺切妻屋根は、屋根裏を蚕室として使うために生まれたという説もある。
しかし、この形式は、この地方で養蚕が盛んになる以前の17世紀後半:1600年代後半に既に見られ、現存最古とされる17世紀後半建設の「広瀬家」が、現在、山梨県から川崎市立日本民家園に移設、保存されている(重要文化財)。
この建物では屋根裏は使われていないが、「棟持柱」による茅葺切妻屋根である。
なぜ甲州・山梨に茅葺切妻が生まれたのか、未だによく分っていないらしい(この項、「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」の解説による)。

この「高野家」は、山梨の茅葺切妻に共通する特徴がある。
それは、棟木を「通し柱」の「棟持柱」で支える構造を採ること、棟の一部を一段高くしていわゆる「煙出し」を設け、また屋根裏へ明りを取り込むために屋根面の一部を突き上げていること。煙出しと突き上げの様子は、外観写真にみえる。
「富沢家」のように、平側の屋根を全面切り上げていないのは、切妻屋根のため、妻面からも明りを取り込むことができるからである。

   註 このような甲州の切妻の棟持柱方式の建屋を、
      甲州では「切破風(きりはふ)造」と呼び、
      また、「棟持柱」は「うだつ」、「破風」を
      「はっぽう」と呼ぶことから、妻側の棟持柱を
      「はっぽううだつ」と呼ぶという。
          この項川島宙次著「滅びゆく民家」より。


「高野家」は私が見に行ったころは、まだ建屋に家人が住まわれていて、写真を撮るのは遠慮させていただいた。
上掲の写真、図は、上から、「南面外観」(「日本の美術」より)、「平面図・立面図・断面図」(「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」より)、「二階内部」(「日本の美術」)、「三階内部」「妻面参考写真」(「滅びゆく民家: 間取り・構造・内部編」より)。

「棟」の位置は、平面図上で、桁行方向、座敷部を南北に二分する位置にある。
土間境の太い柱:通称大黒柱も同じ線上(これは、後述のように通し柱ではない)。
土間右手:東側の部屋は、八畳敷の部屋の真ん中に柱がある。これも「棟持柱」。じゃまな柱を取り除く工夫を普通ならするのだが、それをしていないのは、その柱が「棟持柱」だからだろう。

二階内部写真に見える異形の柱は、ほぼ二尺径のクリ材の大黒柱の頂部で二股に分れ、三階床の桁行方向の梁:「中引(なかびき)梁」(通し柱~通し柱の中間で床梁を乗せ掛ける桁行の梁、床梁をこの上で継ぐことが多い)を受けている。

この建屋の「棟持柱」は、梁間の中央を切った「桁行断面図」の、左から、「西妻面」、「部屋境の2本」、土間東の「八畳間の中央柱」、そして「東妻面」の5本で、いずれもきわめて長大。
三階内部写真に見える棟を支えている柱が、部屋境の2本の「棟持柱」である。

各階では、この「棟持柱」に差口で納めた「梁」が、南北に伸び、入側では、「管柱」の支える「桁」がそれを受ける(「管柱」が直接「梁」を受ける、つまり「折置」にする場合もあるようだ)。
つまり、「梁行断面」は、言ってみればヤジロベエ型になる(梁行断面図は「修理工事報告書」にあるはずだが、不勉強でまだ見ていないので紹介できない)。

この方法だと、入側に、ベランダ様の「跳ね出し」を自由に設けることができるなかなかすぐれものの工法なのだが、しかし、隅柱を通し柱、という現行法令の想定範囲にはない工法である。

「高野家」の妻面は、撮影が難しい場所にあり、同様のつくりの建屋の妻面の写真を「滅びゆく民家」から借りた。
少し太めの「棟持柱」に、桁行の「中引梁」が「ほぞ差し鼻栓」で納められていることが分る。
各層の「床梁」は、写真では見えないが、「棟持柱」に「差口」納め。各床梁間に数段見えるのは「貫」。これらがそのままこの建屋の「意匠」になっている。

この地域には、屋根が瓦葺きになった(したがって、屋根勾配は5寸~6寸程度)同様のつくりの建物(棟持柱、越屋根、突き上げ屋根)が、多数現存している(たとえば、塩山から雁坂峠へと向う街道筋)。かつて撮ったそういった建屋の写真を、現在捜索中。

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