続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の農家:補足

2008-02-16 08:51:39 | 日本の建築技術の展開

先回、山梨県:甲府盆地の東部に、当初は屋根裏使用目的のなかった「茅葺切妻」農家、17世紀末建設の「広瀬家」があったことを紹介した。

現在この建物は、小田急線「向ヶ丘遊園」(新宿から急行で20分ほど)下車、南口を出て徒歩10数分のところにある「川崎市立 日本民家園」に移設・保存されている。
なお、この民家園では、各地から移設した建物を、周辺環境をできるだけ元の様子に近く展示している点に特徴がある。「日本民家園」のHPに保存リスト等が載っている。


南側の軒がきわめて低い(頭すれすれである)のは、古い住居の建物に共通する特徴。大分前に紹介した「古井家」も軒が低い(「古井家」については、06年12月13日、07年3月17日に紹介)。

「上屋」+「下屋」方式であるが、小屋組は、東西妻面、平面図の「いどこ」と「なかなんど」境の柱を「棟持柱」、「いどこ」「どま」部分は通常の小屋組方式:柱に梁を架け渡し棟束を立て棟を受ける:を採っている。
もっとも、東妻面では礎石から通しの柱だが、西妻面では、外観写真のように、差物で棟持柱を受けるかたちになっている。
この西側妻面の柱と横架材のつくりなす壁面構成は、巧まずして美しい。

外壁に開口が少なく、内部はきわめて暗い。甲府盆地は、冬季寒さが厳しいこと、そして、建具の加工技術がいまだ完全でなかった時代の建設であったことが、こういうつくりにしたのではないか、と言われている。

「いどこ(ろ)」は、当初、いわゆる「土座」:土間に直接「莚(むしろ)」や「茣蓙(ござ)」などを敷く:であったらしい。

民家園に移築時点では、養蚕農家として、規模は小さいが、写真のような「高野家」同様のつくりに改造されていた。

注意したいのは、17世紀の末の地域の大工さんたちが、理に適った、しっかりとした仕口でつくっていることだ。
これに比べ、現在あちらこちらで見かけ、法令も容認し奨めている架構や仕口は、いかにいいかげんなものか、分るように思う。
およそ300年経った今、《近代科学》が、技術の衰退を強いたのだ。

なお、写真および図版は、「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」(中央公論美術出版)から転載。写真中の文字は追記。

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