続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家・補足

2008-02-11 09:13:23 | 日本の建築技術の展開

「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」(至文堂)に、埼玉県・秩父地方にある「富沢家」同様のつくりが紹介されていたので、転載(「内田家」)。

「富沢家」「内田家」ともに、寄棟造の小屋部分に床を張り、二階:蚕室として使う。そこで、小屋裏:二階に明りを取り込むため、寄棟の「平側」:長手側の屋根を切り上げ、その結果、このような形状になる。

同じく、寄棟屋根の「妻側」を切り上げ、二階の明り取りとする屋根は、東京・奥多摩や富士山麓の養蚕農家に見かける(上掲の下の写真)。
その独特の形が兜に似ているというので「かぶと造」などと呼ばれる。
「富沢家」「内田家」は、これに対して、「平側」を切り上げているので「ひらかぶと」と呼ぶという。

地図を開くと分るが、上州:群馬、武州:埼玉、甲州:山梨そして信州:長野・諏訪・佐久は、秩父山塊をもって隔てられ、現在の鉄道、自動車道に頼ると、遠回りせざるを得ないから、相互の関係が薄いように思いがちだが、人馬に依った時代には、これら地域を結ぶ峠越えの道が発達していた。
たとえば、奥多摩は、大菩薩峠を越えれば甲州・塩山である。この街道は、甲州街道の裏街道だった。
そして、塩山を北へ向えば、雁坂峠を経て秩父に至る(最近漸くトンネルが開通)。甲府盆地を西へ進めば諏訪。
諏訪から和田峠で蓼科山系を越えれば佐久(諏訪~佐久のルートは、古代の東山道。中山道もそれを引継いでいる)・・・などなど。
つまり、人馬に拠る時代は、これら各地域は、人びとの交流も盛んであり、互いに影響しあっていたのである。

   註 よく、起源はどこそこにあり、それが伝播してゆく、という
      「文化、技術伝播論」で、発祥地を探したり「系図」をつくる
      などという「研究」があるが、そういう考え方は私は採らない。

      同じような状況下では、人びとは同じようなことを考え、
      機会があれば交流し、他地域のことでも意味があるものならば
      それを吸収して地域なりに消化し、地域独特の文化となる・・。
      これが本当のところだろう、と思う。

      これは、古代、中国や朝鮮から文化・技術・・が到来したとき
      古代日本の人びとがしたこととまったく同じ。
      たとえば、建物全面の基礎に、版築の基盤をつくったのは、
      ほんの一時期。都の四周に城壁:「羅城」を設けるのもやめ、
      「羅城(生)門」だけつくった・・・などなど。


甲府盆地の東、塩山、勝沼周辺には、「棟持柱」を使った独特の「茅葺・切妻屋根」の多層の養蚕農家があり、そこから発展して、茅葺を瓦葺に替えた同じく多層(多くは二階建)の「棟持柱」による養蚕農家を今でも多数見ることができる。

次回は、この地域特有の「棟持柱・切妻屋根」の事例を紹介。

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