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雑感・・・・「かぶれ」

2009-01-31 07:00:00 | 専門家のありよう
私は読んだことはないし、その気もないのだが、最近、中谷巌氏の「資本主義はなぜ自壊したか」という書物が売れているのだそうである。
氏は「グローバル資本主義」「市場原理主義」・・・といったアメリカ式の「思想」をひっさげてときの政府にかかえられ「構造改革」路線へわが国を推し進めた張本人を自認する経済学者である。かの竹中平蔵氏は、その継承者。
今になって、それが誤りだった、と気付いての「懺悔の書」だとのこと。

それはそれとして、29日のNHKのニュースの本人とのインタビューのなかで彼が語った言葉が気になった。
正確ではないが、「経済が、その国の文化、歴史、社会・・と関係深いものであることを忘れていた・・」「経済は人を幸せにするものでなければならない、ということに気がついた・・」との旨の言葉。

私は思わず「えっ」と思った。そうだったんだ!
別に経済でなくてもいい。なにごとによらず、そんなことは「いろはのいの字」ではないか、いい年をして何を言ってるんだ!それで学者だというのか?いや、だから学者でいられたんだ!日本はきっとそういう国なのだ!!
漢語の「経済」の出所を考えて欲しい。そして、eco‐nomy と eco-logy の eco についても・・・。考えたことがあったなら、そんな「思想」に囚われることもなかったろうに・・。

しかし、ふと気がついた。これが「いろはのいの字」と思うのは今の世では変人奇人なのかもしれない(中谷氏や竹中平蔵氏に従った小泉純一郎氏は、変人奇人どころか、いまの世の中のごく「普通」の人)。
なぜならそれは、学校の教科で、「歴史」がいい加減に扱われていることに現われている。知らなかったのだが、高校では(だったと思うが)、「世界史」か「日本史」のどちらかを選択すればいいのだそうである。それでいて「国際化」・・が平然と語られる。

「国際化」とは、「米語」を習えば済むらしい。そしてそこでさらに気がついた。かつて明治の「近代化」推進の際、西欧:英・仏・独に倣うべく努めたが、いまは米国に倣うのが「最先端」なのだ。英語(米語)を小学校の教科にしよう、などということの「理由」も分るというもの。

明治の「先進者」は、西欧に留学することを、世間の普通の人から「西洋かぶれ」と言われようが、勲章のように大事にし、願望した。
戦後、それにかわって「アメリカかぶれ」が流行った。「先進諸国」への留学はあいかわらず一部の人たちには勲章らしい。それでいて日本は先進国なんだそうだ。
中谷氏も、インタビューのなかで、アメリカが憧れだったと語っている。そういえば、竹中氏もアメリカ留学者。

私などは、そんなに憧れて、いいところなら、定住すればいいのに、と思ってしまう。アメリカは、「移民」を受けいれてくれるではないか。
だが、そうはしないらしい。「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する。
おそらく、向うには見合う職がなかったのだろう(向うに引き留められている、あるいは日本から引張られる本当の日本人学者が、たくさんいるではないか・・)。

それとも「母国」日本が好きだったからなのだろうか。
そんなことはない。自国の歴史、文化、社会・・について知らない、と言うのだから。それゆえに、「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する・・・。

それにしても、政治家を操って、いまの状況をつくってしまったことの責任はどのようにとるのだろうか。「懺悔の書」を著して売れればいいのだろうか。

実は、29日のニュースでもう一つ気になったのは、中谷氏の「転向」:アメリカ式「思想」からの撤退を、企業の中堅の若い世代の人たちの多くが批判していることだった。
市場原理主義で、日本は(企業は、なんだろうが)成長した、というのである。
例の、「できる人」が上に上がれば上がるほど、全体が底上げされる、という安直な「論理」?である。
これにも「えっ」と思ってしまった。「選民意識」がギラギラしていて、気分が悪かった。住む世界が違うらしい。

やはり、かつての「近江商人」はすぐれていた。彼らの多くは「経世済民」の意味を分っていた。「商売」「商い」の意味が分っていた。そして、「儲ける」ことの意味も分っていた。

   註 私は、終戦時にその人が何歳であったかが、
      その人の「考え方」に大きな影響を与えている、と
      勝手に思っている。
      中谷氏は1942年生まれ、ものごころついたころから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      竹中平蔵氏は1951年生まれ。生まれたときから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      きっと、相対的にものを見ること、観ることを
      学ばなかったに違いない。
      言うならばアメリカ絶対主義。

      これが1960年代以降生まれになると少し変ってくるのだが、
      しかし、TVで市場原理主義を是としていたのはこの世代。
      誰かに何か「洗脳」されているように、私には思えた。
      「氏より育ち」とは、よく言ったものだ、と思う。

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怪談・・・・「あこぎな」話

2008-03-11 03:31:08 | 専門家のありよう
[註解追加:9.57]

先般、人から聞いた話。

山に囲まれたある県。山の辺の村々では、いわゆる「限界集落」化が、静かにしかし確実に進んでいるという。

そこに目をつけた自称《コンサルタント》が、これも自称《建築士・建築家》ともども、「限界集落に暮す人びと」を一箇所に移住させ、空き家となった家々を、田舎暮らしが願望の都会の人びとに貸し出す、あるいは売りに出す、という《提案》を行政に持ちかけた(あるいは、持ちかけている)と言う話。
村の人口が増え、限界集落ではなくなるではないか、という《限界集落再開発計画》案なのだそうだ。そして、なによりも、自分たちの《仕事》も増える!

ところが、そんなに簡単にコトは運ばない。なぜか。
「限界集落に暮す人びと」はモノではないからだ。
《コンサルタント》《建築士・建築家》は、そのことを忘れていたのだ。いやしかし、本人たちは「忘れている」のではない。彼らはそこに暮している人たちを「無視している」のだ。彼らは、金儲けの仕掛け話に目がくらんでいるにすぎない。

限界集落、それは第三者の呼び方。
そこで暮す人にとっては、まさにふるさと・故郷。長年にわたって「つくりだしてきた」場所。
そこを捨てて簡単に移住できると考えるのは、都会暮らしに慣れて、「土地」とは無関係に暮している流浪の民。
山の辺の民は、足元の土地を耕して暮しているのだ。
だから、そこを離れて移住しろなどというのは、とんでもないこと。自分はそこで一生を終えたい。それで、村から人がいなくなったとしても、それは自然の成り行きというもの。

限界集落になり、そして村が消失して、本当に困るのは誰だ?
農村が疲弊して、農家がなくなって、本当に困るのは誰だ?
そして、そんな状況にしてしまったのは、いったい誰だ?

そしてそれを金儲けのネタにしようという「あこぎな」人たち。

ひるがえって、地震にかこつけての「耐震診断」「耐震補強」の「奨め」も、考えてみれば「あこぎな」やり方ではあるまいか。
まして、1981年:昭和56年前の旧耐震基準の建物は、診断、補強が必要、などと人ごとのように言う行政の態度を「あこぎ」と言わずして何と言うべきか。

旧耐震基準なるものの策定にかかわった人びと(調べれば直ちに分るはず)、その《普及》につとめた行政関係の人びと、特に大元の国の行政機関の人びと(これらも分るはず)が、率先してその責任を負ってよいはずではないか。

国の《指導》に従っただけの民が、診断・補強に費用を出すのは不条理。まして税金で補助するなどもってのほか。

しかし、彼らはその不条理に気付かない。それどころか、震災の恐怖をあおって脅迫を加えている。こんな「あこぎな」話はないだろう。

それにしても、なんという専横な行政・政治の横行。江戸時代は民が圧政の下にあったと言われるが、それは明治政府のタメにする作り話が大半。
江戸時代、民はもっと大事にされていた。民がいなければ、幕府も成り立たないことを、重々承知していたからだ。
それにひきかえ、いまは民主的な装いの下、民は押しつぶされる。
そして、それによりかかり、悪乗りをして、金儲けをたくらむコンサルや建築士たち・・・。何という構図だ!

ところで、
4月1日(火)19.15~ 文京シビックホール小ホールで、
『改正建築基準法はいりません!』というシンポジウムが開かれるとのこと。
「建築ジャーナル」誌主催、参加費一般2000円。
  申込は FAX 03-3861-8205まで。
  問合せ先:03-3861-8104(中村さん)。

   註 「あこぎ」とは、元は地名だという(三重県の「阿漕の浦」)。

      「広辞苑」によると
      「逢ふことを阿漕の島に引く鯛のたびかさならば人も知りなむ」
      の歌から、
      ①たびかさなること
      ②転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。

      「新明解国語辞典」では
      非常にずうずうしいやり方で、ぼろいもうけをねらう様子。
     

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20年前に考えていたこと・・・・何か変わったか?

2007-08-28 20:01:52 | 専門家のありよう
 眞島健三郎氏の論説は、約80年前の建築界の状況を教えてくれる。
 そこで、今回は、20年前に書いた文章を載せることにした(「新建築」1987年6月号)。 文字が小さいので、拡大してお読みください。

 80年前に比べて、建築界は、少しは変ったのだろうか、それを知ってもらいたいと考えたからだ。
 実は、何も変っていない。あいかわらずご都合主義が蔓延し、むしろ退行現象が進んでいると言ってよいのではないか。その一端を知っていただければ幸い。

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小坂鉱山―補足

2007-03-13 00:49:50 | 専門家のありよう

 20年ほど前、小坂鉱山のいわれを調べたことがある。東北一帯を歩いていて、何かを秘めているように感じたからである。
 調べてゆくにつれて次々に分かってくることは、まさに驚嘆の一語に尽きた。何でも自分たちでやってしまう、「専門」などないのである。しかも手抜きなし。 

 そのとき撮った写真の一部と、町史からの写真を紹介する。他にも紹介したいものは多々あるが(地元の大工さんが、多分、見よう見まねで格闘したトラスなど・・)・・。

 現在、小阪鉱山:同和鉱業は、鉱業から撤退し、IT機器廃棄物からレアメタルを抽出・精錬する事業に転換したと聞いている。

 なお、この調査結果は、和泉恭子氏(写真撮影者)が修士論文「産業の振興と地域の発展」(筑波大学)としてまとめている。諸データは同論文によるところが多い。彼女は、日本有数の女性パラグライダー選手でもあったが、論文をまとめた10年後の1998年、不慮の落下事故で急逝した。 

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「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

2007-03-11 20:15:59 | 専門家のありよう
 「水俣病」の認定問題が、最近話題になっている。国が決めた「認定基準」の是非が争点のようだ。

 水俣病は化学工場の惹き起こしたいわゆる「公害」だが、日本で最初の「公害」は、「足尾鉱山(銅山)」の鉱毒垂れ流し問題とされ、その追求に一生をかけた田中正造の名を、いまや知らぬ者はないだろう。

 足尾銅山は江戸時代から本格的に稼動した鉱山である。明治10年:1877年、古河市兵衛が経営権を取得、新鉱脈の発見とともに産出量が増大、精錬所も設けられ、経営が軌道にのる。精錬によって大量の廃液が出るが、その放流が渡良瀬川を汚染、いわゆる鉱毒問題を起しだす。最初に鉱毒による田畑の被害が生じたのは、明治23年:1890年という。
 この鉱毒問題についての地元農民とそれを支援する田中正造の再三にわたる要求にもかかわらず、古河の改善は遅々として進まず、政府も適切な手を打たず、業を煮やした田中が明治34年:1901年、「直訴」の行動に出たことは、いまや知らぬ者はないだろう(1897年:明治30年、政府は浄水場の設置を命じているが、その後に被害が発生していることから、対策は十分ではなかったと思われる)。

 そしておそらく、大方の人は、鉱毒・鉱害は技術的に除去の難しい問題である、あるいは、除去に莫大な費用を要するものである、田中の直訴がなければ、本格的な対応・対策は進まなかった:できなかった、かのように思っているのではなかろうか。

 けれども、そうではない。
 実は、田中正造が直訴に及んだまったく同じ明治34年:1901年、「足尾銅山」に比肩する秋田の「小坂鉱山(銅山)」では、「鉱毒濾過装置」が完成、供用を開始しているのである(小坂川、その下流の米代川流域では、現在まで、鉱害被害が発生したという記録はない)。
 またそのころ小坂では、すでに、精錬にともなう「煙害」対策として、植林等の事業も着々と進行していた。植林の樹種の選定も研究され、そこで選ばれたアカシヤは今では小坂のシンボルにもなり、アカシヤ蜂蜜は特産品になっている。足尾と小坂の周辺の山々の緑の復原状況も異なることは一見しても分かる。

 つまり、「公害」として騒がれる以前、田中正造の出現する以前に、「小坂鉱山」では、鉱害や煙害という鉱山・精錬所でかならず起きる問題に対して措置が講じられていたのである。今流に言えば、「小坂鉱山」は「公害対策先進企業」だったことになる。
 けれども、小坂鉱山の経営者たちは、そのような呼ばれ方、扱われ方を拒否したにちがいない。
 なぜなら、彼らにとって、「鉱毒濾過装置」の設置などは、「先進」でも何でもなく、「鉱山を経営するにあたって当然考えなければならない一工程」に過ぎなかったからである。
 そして、現在のように、情報が容易に得られる時代であったならば、小坂で行われていることは、速やかに足尾にも、そして、ときの政府にも伝わり、解決も素早く進んだにちがいない。

 では、小坂鉱山を経営していたのは、いったいどんな人たちだったのか。
  
 京都・南禅寺の境内の南端に煉瓦造のアーチ橋がある。琵琶湖から水を引く「疎水」のための水道橋である。島根県の石見銀山には、明治中期につくられた銀の精錬所の跡が残っている。建物はすでにないが、急な山肌に高低差およそ25mにわたり9段の石垣が残っている(城郭の石垣の技術が使われたのではないだろうか)。この二つの遺構は、当時大阪に本拠をおいていた「藤田組」が建設にかかわっている。
 そして、「小坂鉱山」もこの「藤田組」の経営だったのである(この名の会社は現存しない。あえて言えば現在の「同和鉱業」の前身にあたる)。
 明治政府は、近代化のため、当初は基幹産業を直轄で経営していたが、経営に行き詰まり、民間に払い下げるようになるが、「小坂鉱山」も、明治17年:1884年、石見銀山の実績を買われ、藤田組に任される。

 藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した会社だったが、小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出たため姓が異なる)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛をきわめる。
 しかし、銀鉱石の枯渇とともに急激に業績は悪化、ついに閉山に追い込まれる。その閉山手続きのために、庄三郎の子、28歳の久原房之助が小坂へ派遣される。ところが彼は(本人は技術者ではない)、現地に常駐すると、閉山業務ではなく、石見銀山から武田恭作を技師長に迎え、地元小坂出身の米沢萬陸、青山隆太郎、大学出たての竹内維彦らに銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたのである。
 この熱意が実を結び、明治33年:1900年精錬所が着工し、1902年稼動を開始する。その前年の1901年、つまり、本格的な銅の精錬を始める前に、先に触れた「鉱毒濾過装置」が建設されていたのである。

 このこと、つまり「後になってつくった」のではなく、「あらかじめつくった」、という点に着目したい。これが、この装置を、彼らが銅の精錬の一工程として考えていた明らかな証なのである。
 これに対して、足尾では、先ず成果物、つまり銅の生産量を確保することを優先したのである。言ってみれば、まさに《近代的経営》を行っていたのだ。

 これらの努力の結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山としての地位を得ることになる。
 小坂は、今でこそ東北道が通過し、交通便利な場所になったが、明治の頃はまさに東北の山間の僻地と言って過言でなかった。
 久原房之助率いる先の技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な水や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、・・・こういったありとあらゆることをすべて彼らだけで成し遂げてしまった。
 働く人びとの生活基盤として、住宅を整え(炭鉱の住宅などとは比較にならない質の良い住宅でペチカなどもある)、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくる・・という計画を立て、実現に向け動き出す。
 これらの整備を、あくまでも、鉱山経営の一環として行ったのである。その際、必要な資材、機材(煉瓦、鋳鉄、はては発電機・・)は一部に輸入品もあるが、ほとんど現地生産を行っている。

 このような経営は、現在なら、採算を考えない非合理的な経営として批判され、また病院や劇場をつくることは、企業の利益の「社会還元」としてもてはやされることだろう。しかし、彼らは、この指摘をともに否定するだろう。
 実際、明治末年頃になると、「資本主義」の定着につれ、久原以下のこのような経営は疎んじられるようになり、藤田組本体の経営にも変化が表われる。「生産第一主義」が浸透し、久原たちの経営は「非近代的」と見なされ始めた。

 久原房之助は、いち早くこの「変動」を察知、明治38年:1905年、小阪に見切りをつけ、茨城県・日立で新たな鉱山経営をすべく、小坂を去る。
 久原とともに歩んできた技術者集団も(40名を超えたという)、彼に続き続々と小坂を去り、日立へ移る。そして、竹内維彦は日立鉱山営む日本鉱業の社長、小平浪平は日立製作所を、米沢萬陸は日立鉱山所長に、青山隆太郎は同精錬課長に・・といった具合に、日立で活躍する。実は、これが後の「日立製作所」の発祥に連なるのである。

 一部が折損した有名な日立の大煙突は、煙害防止策の一環で、小坂にも煉瓦造の大煙突があった(現存しない)。日立市の武道館になっている「共楽館」(1917年建設)は、元は働く人たちのための劇場であった。病院も整備された・・。しかし、これらはすべて、すでに小坂で構想済みのものを、日立で実施に移したものなのである。
 小坂には、明治43年:1910年に建てられた「康楽館」という木造擬洋風の劇場が現在も保存・活用され(重要文化財に指定)、1908年には当時東北一と言われた木造の総合病院も建設されている(1949年焼失)。

 つまり、同じ「近代化」でも、経営者・関係者の思想一つで、大きく結果が分かれてしまう、という事実を、足尾と小坂は如実に示している。古河が《近代的》経営者だとすると、多分、久原は旧弊な経営者と見なされたにちがいない。久原には、まだ江戸期の人たち、特に「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」の心意気が残っていたのではなかろうか。 

  註 地方巧者については別途紹介予定。⇒下記[註記追加:2010年5月9日]
    地方巧者・・・・「経済」の原義
     

 所詮、技術を含め、すべてはかかわる人間の器量次第なのである。 

 久原は、後に、政商と言われるようになるが、小坂での彼の仕事はあまり知られていない。
コメント (2)
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勝手のし放題・・・・最近の建物の外観・形状

2007-03-09 12:03:08 | 専門家のありよう
 一昨日、本当に久しぶりに東京へ出た。今年になって初めて・・。
 かつての「仲間」が30数年ぶりに会う会合。浦島太郎だ、などと言いながら集まった。
 しかし、東京の街並み、家並み、というよりビル並みの方が浦島太郎だった。久しぶりの街の風景に、目を白黒するばかり。僅かな間に、乱雑さが激しくなっていた。と言うより、設計者が、ますます勝手をし放題になっているように思えた。

 何よりも不快だったのは、外面にネットやフィルムを張ったような装いの建物、意味不明な曲面のガラス面を差しかけた建物の多さだ。
 つくば市のある大学にも、都会の流行に負けじとつくったのではないかと思われる建物が最近建ったが、ほぼ全面、真っ向から西日を受けるつくりで、その面全体に「ネット」が張られている。どうやらそれが「デザイン」の目玉らしい。というのも、そのほかの面は、どう見ても、気配りが感じられないからだ。このネットは、西日よけのためらしい。しかし、何も西日に面するようにしか建てられない敷地ではない。そんなことをしなくても十分西日を避けて建てられる。とすると、この設計者の目的は「ネットを張ってみたい」ということにあったことになる。

 農村には、防風ネット、防鳥ネット、遮光ネット、遮光フィルム、マルチ用フィルム、シート・・など、各種各様そして色とりどりのネットやフィルムそしてシート類がある。農業者は、それらを「用」に「応じて」使い分ける。その使い分けの根拠は、農業の必然だ。風当たりが強い畑には防風ネット、しかも風の強さに応じて網目を選ぶ。鳥には防鳥ネット、これも鳥に合わせる・・・。どうしてもこれを使いたい、使ってみたい、というような選択は、無意味だから、しない。だから、それらが用いられた田園を見ると、地勢や何をつくっているのか、おおよその見当がつく。

 ところで、ある土地・場所に建物をつくるということは、その「ある土地」の「既存の環境を改変する」ことだ。そして、既存の環境の改変は、単に物理的な環境のみならず、その場所に暮す人びとの暮しそのものの改変でもある。
 かつて、人びとは、このような改変を行おうとするとき、その土地に宿る神に、改変の許しを請うた(日本では、すべてのものに神の存在を見た)。それは、その土地は、あくまでも神のものであって、自分たち個々人のものではない、使わせていただくのだ、という認識だ。そして、そのために営まれたのが「地鎮祭」であった。無断借用・使用、妥当ではない使用は神の怒りに触れる、それが転じて現今の工事の無事祈願の儀式となったのだ。
 かつては、たとえ一個人のものであっても、建物づくりは、そこの既存の環境を見据えた、言い換えれば、そこに暮す人びとを見据えたものに自ずとなっていたのである。だからこそかつての街並みは暮しやすいのであり、日照権騒動などが起きるわけがないのである。つまり、「個」のものでありながら、「公」のものに自ずとなっていたのだ。

 しかしながら、その意味が分からない装いを持つ建物の、そうなる必然・理由は、私には、設計者の《造形意欲》あるいは《差別化願望》にしか求めようがない。建物づくりとは、そういうことだったのだろうか。
 私のような浦島太郎には、それはまちがいとしか映らない。もしも、どうしても自らの《造形意欲》を示し、《差別化》を表してみたいなら、自らの金で、普通の人の目に触れないところで(普通の人に迷惑をかけないところで)やってくれ!、同好の士の間だけでやってくれ!と言いたくなる。
 
 昨年12月8日、ベルラーヘの言動を紹介した。彼は19世紀末のヨーロッパの建物は虚偽に満ち溢れている、過去の各種の様式を、その意味も顧みずに皮相的に寄せ集め貼り付けた建物が横行している、として批判した。
 もしも彼が今の姿を見たら何と言うだろうか。19世紀末には、まだ過去(の様式)との何らかの脈絡はあった。しかし、今は、何の脈絡もなく、支離滅裂。

 19世紀末に生まれ、20世紀初頭に生涯を閉じたオーストリアの詩人リルケに、次のような詩がある。彼もまた、世紀末の世の様相に批判的だった。

  ・・・・・
  今の世では、嘗てなかったほどに
  物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
  それは
  それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな
  用具に過ぎぬからだ。
  拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
  内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
  おのづから忽ち飛散するだろう。
  鎚と鎚とのあひだに
  われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
  歯と歯とのあひだに
  依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
  ・・・・・・
                    「第九の悲歌」より
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実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか

2006-12-14 11:09:53 | 専門家のありよう

先に、明治の建物づくりにかかわる「実業家」にとっては、「何をつくるか」は自明であった、と書いた。
しかし、明治になって新たに誕生した「建築家」にとっては、「何をつくるか」が最大の問題であった(あるいは、今でもそうなのかもしれない)。

「アーキテクチュールの本義は・・実体を建造物に藉り意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と説いた伊東忠太の主導する教育の場面では(12月5日紹介)、立面図を先ず作成、その立面の建物はいかなる用途に供すべきか、という《設計》演習が行われていた(平面図は存在しない!)。実際にその《演習成果物:図面》を見たときは、さすがに絶句した記憶がある。図面自体は実に見事ではあったが・・・。

けれども、最近都会に建つ建物を見ていると、それが真美であるかどうかはさておき、《実体を建造物に藉り、巨大造形あそびをしている》ようで、「建築家」の世界には、この間、何ら進展がなかったのでは・・とさえ思う(ただし、成果物は、かつての学生の方が上出来!)。

第二次大戦後、困窮下の日本で、建築界は二つの大きな派に分かれ、論争が華やかに行われていた頃があった。1950年代のことである。その論争各派のいわば代表が、西山卯三氏と丹下健三氏である。

西山卯三氏の論は、「国民住居論攷」の延長上で論じられたもので、その趣旨は上掲の図式でまとめられよう。それは、先ず「生活(の型)を決める」「用を考える」ことから始まる、という論と言ってよい。同書は1944年:昭和19年という戦争末期の刊行ではあるが、その後の「建築計画学」研究のバイブルとなり、そして51C型(1951年:昭和26年:公営住宅標準設計)に始まるいわゆる〇DKという呼称で知られる戦後の公営住宅標準設計の基礎となった書である(住宅を〇DK、〇LDKなどとして表す方式は、今もって健在である!)。

一方、丹下健三氏は数々の建物をつくるかたわら、「建築計画学」の研究、そしてそれに基づく建物づくり(上掲の図式の過程を追う設計法)を「調査主義・・」として批判し、「・・機能と表現の統一の過程が建築の創造そのものである。その統一を可能にする為には、現実の認識に於いて、その土台と上部を、その展開しつつある全体像に於いて捉えることを必要としている。現実の認識とは、現実の現象のありのままの反映ではなく、獲得しつつある現実の反映である。・・」と書いている(「新建築」誌 1956年6月号。なお、「新建築」誌をはじめ当時の建築系雑誌では、この前後、いろいろな論が毎号を賑わしていた。今の建築ジャーナリズムからは考えられない)。

この丹下氏の一文は、はたして書いている本人も理解しているのかどうか疑わしい文意不明な言い回しの連続だが、要するに「かたちをイメージすること」の内に、すでに「(獲得しつつある)現実の認識」がある、つまり、先ず「かたちのイメージ」「形の考察」から始める、ということだろう。

ただ、はっきり言えることは、両者の見解には大きな隔たりはあるものの、その底に共通して、建物づくりにかかわる人としての「倫理観」があった、ということである。それは、困窮下の社会状況に在る者として、当然のことだったのだろう。
その点では、最近の「建築家」の「かたち論」は、もはや、両氏と通底するところはまったくない(もはや、戦後ではない!?)。「実体を建造物に藉り、自らの造形センス(?)を発揮する」のが建物づくりと思い込み、ベルラーヘの言い方で言えば(12月8日紹介)、「まがいもの、借り物(模倣)、無意味な(虚偽の)」建物ばかりになっているように私には思える(反対の極に、これと呼応しつつ「実体を建造物に藉り、金儲けに徹する」人たちがいる)。

西山・丹下論争、つまり「用か美」か、「用か形」かという論争は、私には、「卵が先か、鶏が先か」という不毛な論争に思えた。かと言って、その論争の上を行く、その両論を論破するだけの力は、当時の私にはなかった。

論破する論の構築のきっかけになったのは、いくつかの書物。そして得たのは、簡単に言えば、根本は「ものの見かた」にあるということ。世にはびこっていた「いわゆる科学的方法」を見直す必要があるということだった。
先に紹介したハイゼンベルクや、ハイデッガー、サンテグジュペリの書も、見直しのためのきっかけになった書の一つ。

今日は、もう一つ、別の書物から、わが意を得た一文を、少し長いが紹介させていただく。
  ・・・・
  我々はすべていずれかの土地に住んでいる。
  従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を『取り巻いて』いる。
  この事実は常識的にきわめて確実である。
  そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、
  ひいてはそれの『我々』に及ぼす影響をも問題とする。
  ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、・・・・
  それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。
  しかし我々にとって問題となるのは、
  日常直接の事実としての風土が、はたしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。
  自然科学がそれらをそのまま自然現象として取り扱うことは、それぞれの立場において当然のことであるが、
  しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。
  ・・・・
  風土の現象において最もしばしば行われている誤解は、
  自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、
  それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、
  単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。
  ・・・・                      (和辻哲郎『風土』:岩波書店刊 「風土の現象」より)

対象を分解し分析することをもって「科学的方法論」と見なす考え方をくつがえすにはこれで十分。
生活と空間、生活と環境、自然と人間・・こういった二項対立的発想法・考察法は、こと人のかかわる問題には本質的に不向きなのである。

しかし、大方は、依然として「用」か「形」のどちらかだけで建物づくりを考える。「用」なるものを重視すれば11月23日の「道」で紹介した「迷子を誘発する病院」になり、「形」なるものを重視すれば、最近の都会のビル群となる。

いったい、建物づくりとは、何をつくることなのだ?

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「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃

2006-12-10 00:10:25 | 専門家のありよう
 12月5日の『日本の「建築」教育の始まりと現在』で、「建築」の語は、本来はarchitectureの意ではなかった、と書いた。
 そして、「建築」が字の通り「建築」の意であったころの1890年(明治23年)、『建築学講義録』という著作が刊行されている。その「内表紙」と、その書の刊行の「主意」(目的)、第一章のはじめの部分が上掲のコピー。

 これは、大阪に設立された「工業夜学校」の建築学科の講義の内容で、当初は月刊だったが、1896年(明治29年)に全三巻からなる合本が出版され、以後1910年(明治43年)まで、16版を重ねるロングセラー本であった。

 著者の滝大吉は、1883年(明治16年)の工部大学校第6回卒業生だから、伊東忠太(1892年:明治25年卒業)の先輩にあたる。
 工部大学校の卒業生は、他の官立学校の卒業生同様、そのほとんどすべてが中央や各県の官庁のエリートとして権勢をふるうのが常だった。
 滝大吉も、当初は陸軍の嘱託として軍関係の建物づくりに関与していたが、1890年(明治23年)、大阪に「工業夜学校」を開設し、自ら建築学科で「建築学」を講義することになる。その講義内容をまとめたのが「建築学講義録」。

 この「夜学校」の受講生は、主として、建物づくりにかかわる各職の職方・職人の人たち、同書では、「職人」のことを「実業家」と言っている。この語はまことに言い得て妙。官製のエリートたちが権勢をふるう前、日本の建物づくりは「実業家」:職人・職方に大半が委ねられていた。江戸幕府の作事奉行も、彼ら職人の技術・技能をよく知り、彼らを信じて指図をしていたことがいろいろな事例から分かる(現代の役人と大きな違い!)。
 「実業者」:職人たちは、日本の「技術」とそれを適切に用いる「技能」を身につけていたが、新来の、しかも急速に導入される西欧式技術については知らなかった。

 一方で、西欧化を至上命令としたエリートたちは、西欧式技術の《知識》は持っていたが、日本の技術は知らず(知る必要も認めず、ゆえに知ろうともしなかった)、もちろん自ら手を下して建物をつくる「技能」を持っているわけもなく、有能な職人の協力をかならず必要とした。
 滝大吉は、この現実を身をもって知り、西欧式技術を、広く世に開示しなければならない、と考えたのである。
 もっとも、官の側も、少し遅れて、西欧式建物を実際につくれる職人の養成のための「工業学校」、「工手学校」の開設の後押しをしている。

 けれども、職人は、いつの時代でも、その性分:職人気質として、新しい技術の修得に目を輝かす。彼らが「工業夜学校」にすすんで通ったのは、かならずしも建物の西欧化に賛同したからではなく、むしろ、新しい技術の修得が目的であった。「建築学講義録」が16版を重ねるロングセラーになったのも、日本各地の職人:実業家たちが、競って西欧式技術を知ろうとしたからであり、今でも各地の代々職人のお宅を訪ねると、蔵の奥に、古びた同書が積まれていたりする。
 各地に、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物があるが、それは、西欧式技術を身につけた職人たちが、自ら蓄えていた日本の技術にそれを融合してつくりあげた例が大半なのである。

 さて、上掲の講義録の「主意」を要約すると、次のようになる。
 「世の中では、かつての萬屋主義は不可という意見が強く、あえて反論はしないが、そうかといって造家の分野について言えば、高踏な話はいくらもあるが、実業者に役に立つ書物さえないではないか。これでは話にならないゆえ、この書を世に出すのだ。・・・」
 また、「建築学の主意」では、
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
とのまことに明快な解説が施されている。
これは、言うならば、「デザイン」ということばの本義に等しい解説だ。

 ここで注目する必要があるのは、エリートたちが「どのような(様式の)建物をつくるか」という議論をしているにもかかわらず、「実業家」:職人たちは、それには興味も関心も示していないことである。
 それは、彼らが「建物づくりの専門家」だったからである。彼らにとって「何をつくるか」は自明のこと、「いかにつくるか」が問題と言えば問題だったのだ。だからこそ新技術書が広く読まれ、そして、それゆえに「擬洋風」の建物をつくり得たのである。
 では、彼ら「実業家」にとって、なぜ「何をつくるか」が自明であったのか。
 それは、当時の「実業家」:職人は、常に人びとの生活と共にあり、そこにおいて、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」自ら検証を積み重ねていたからにほかならない。
 実は、それが専門職の専門職たる由縁、そして「技術」「技能」はその裏づけのもとに、はじめて進展し得たのだ。


 だが、新たな職種「建築家」:エリートたちの誕生とともに、かつての真の専門職は、単なる作業者に貶められ、そして彼らに蓄積されていたノウハウは、近代化の名の下に、切り捨てられ継承さえままならなくなってしまった。とりわけ、木造建築が受けた「被害」は、甚大である。
 そして、それは、現在まで、尾をひいている。


 追記 滝大吉は、わが国で最初に建築事務所を構えた人物である。
コメント (3)
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建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-3・・・・杜撰な言葉遣い

2006-11-04 19:32:44 | 専門家のありよう
 「杜撰(ずさん)」=押えるべき大事な点に手抜かりが多く、ぞんざいなこと。いいかげん。(『新明解国語辞典』)

 昨今、建築の世界では、あたりまえのように、「耐震」「断熱」「防湿」・・・といった「杜撰な用語」が飛び交っている。

 たとえば「耐震」。「耐」とは「支えることができる、負担することができる・・」といった意味。
 昨年来話題になった《耐震偽装問題》のとき、「この建物は震度7程度の地震に耐える基準を充たしている」云々という文言がよく聞かれた。この言葉から、基準を充たしているとされた高層の集合住宅に住んでいる人たちが、文言通りに、「この建物は、震度7程度の地震に耐えられ、地震後も住み続けられる」と思っても何ら不思議はない。
 しかし、先の文言は、「震度7程度の地震で、人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」という意味に過ぎず、「地震に遭っても住み続けられる」ということは一切、まったく保証していない。つまり、「耐震基準」の「耐」の字を字義通りに理解すると、とんでもないことになる。
 しかし、「耐震基準」をつくった人たちは、行政も含め、この意味するところを正確に伝える努力をせず、ただ念仏のごとく「耐震」を唱えている。
 最近増えた「耐震診断士」なる資格(?)を得た人たち(当然、建築にかかわる人たち)も、皆が皆、この「真実」を正確に認識していると思えない。そのとき、彼らの下す「耐震診断」とは一体何なのか?提示した「耐震補強」策は一体何なのか?自ら考えた、あるいは、考えようとしたことがあるのだろうか。
 先のような意味をもって、「耐震」と定義するのは間違い。こういう杜撰な言葉遣いは、誤解の元。また、そういう基準や規定に唯々諾々として従うのもいかがなものか。「耐」の字の使用はやめる必要がある。
 
 「断熱」という語も、大きな誤解を生んでいる。
 「断熱」とは、字義通りに解釈すると「熱の伝達を断ち切る」こと、そして「断熱材」とは「熱を伝達しない材料」ということ。しかし、世の中、そのようなことはあり得ず、そのような物質もない。「熱が伝わりにくい、伝わるのに時間がかかる」物質があるだけのこと。
 けれども、建築の世界では、この語も大手を振ってまかり通り、ときには、この語を使う本人(建築の設計者)も、その語に惑わされる。
 たとえば、RC造の屋上スラブ上に10~15cm程度の厚い《断熱材》を敷けば、スラブ下の屋内は、日射の影響を受けないと考える。実際そのような設計の建物で暮したことがある。たしかにすぐにはスラブは暖まらないが、時間が経てば(夏の日射ならば1時間程度で)必ずスラブも熱せられる。そして、暖められたスラブの熱は、《断熱材》のおかげでスラブ内に蓄熱され、夜遅くまで室内に向けて熱を放射・放出し続ける。設計者は、《断熱》の語に惑わされ、この事実に思い至らなかったのだ。
 
 「防湿コンクリート」を建物、特に木造建物の布基礎に囲まれた床下に打つことが、「防湿シート」の敷き込みとともに奨められ、実施例も数多く見かける。
 しかし、布基礎の建物の床下が湿気るのは、布基礎に囲まれた床下に、湿った空気が溜まり、淀んでしまうからであって、地面から滲み出したのではない。湿気は通常地面に吸収されるのだが、地面が飽和すれば、湿気は溜まる一方。空気が過湿になれば、コンクリートの表面に結露するのが目に見えている。防湿どころか迎湿だ。その結露防止のために、コンクリート下に《断熱材》の敷きこみが奨められたりもする。理詰めに考えれば、床下の湿気による木部の腐朽多発の因は、布基礎方式そのものにあることが分かるはずだが、多分、勝手に名付けた「防湿」の語に惑わされ、湿気が防げると思い込むのだ。

 これらの例には、いずれも、「理詰めで考えた」形跡がどこにも見当たらない。だから、「建築にかかわる人たちは、ほんとに《理科系》なのか」という疑問が沸き起こる。
 しかしながら、昨今、各地で、というより全国的に、高校の《必修科目の履修不足》が話題になっている。しかも、これは今に始まったことではないらしい。
 たとえば、外交官志望の大学生で、高校で世界史を履修していない、地理も知らない、などというのはざら・・。入試選択科目以外は履修しないのが受験生の《常識》だという。
 ということは、「理科系」という人も、単に入試で「理科系科目」を選んだにすぎず、もちろん、福沢諭吉の教えにしたがい「一科一学」で学問に励んできたわけでもない、ということなのだろう。
 だとするならば、「建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか」と問うのは、そして、「理科系ならば、もっと理詰めに考えてほしい」などと願うこと自体、無意味で馬鹿らしいことなのかもしれない。
 ただ、そうでありながら、彼らが「専門家」を名乗ることは、どうしても腑に落ちない。

 加藤周一氏のエッセイ、『山中人話:スタインバーグは言った・・・』に、次の一節がある。
 「・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・廊下を歩きながら呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも・・極めてむずかしいことだろう。
 『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。」

 スタインバーグとは、長期にわたり『ニューヨーカー』誌の表紙を描いたアメリカのイラストレータ、漫画家を指すものと思われる。

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建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-2・・・・「専門」とは何?

2006-10-31 00:12:17 | 専門家のありよう
 先に(10月16日)、世界で最初にI型の鋼材を考案・使用したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットと言われていることを、その設計した7階建ての工場の図面とともに紹介した。
 この工場の建設・設計を依頼されたころのワットは、肖像彫刻をつくる機械(a machine for making portrait statuary)の考案に熱中していたと言う(S・ギーディオン「空間・時間・建築」による)。あのマイヤールもまた、建築も土木も関係なく仕事をした。
 「いったい彼らは何が専門なのだ」と今の人なら思うかもしれない。しかし、あの時代、engineerとはこういうもの、それがあたりまえだった。むしろ、今の方がおかしいのだ。
 なにも、イギリス、ヨーロッパだけの話ではない。日本でも同じだった。
 江戸時代初期、小貝川流域の新田開発(旧谷和原村、旧伊奈町一帯)や、水戸の備前堀開削を差配した伊奈備前守は、測量、新田計画、土木工事、営農指導、経費の算段・・・およそ新田開発において必要なことを何でもやった。こういう人は各地にたくさんいて(甲州の信玄堤などもその成果)、「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」と呼ばれていた。二宮尊徳もその一人。
 江戸中期の平賀源内は、国学、蘭学、本草学・・に精通し、摩擦起電機をつくり、戯作をつくるなど、今流に言えば、理科から文科まで何でもやっている。
 江戸後期の田中久重(からくり儀右衛門)。九州・久留米生まれの彼は、からくり、万年時計(万年自鳴鐘)、蒸気機関・蒸気船、銃砲・・・なんでもつくった。彼のつくった電信機製作の田中製作所が今の東京芝浦電気:東芝。

 決してこれは特殊な人物だけがやったことではない。
 かつては、「何かをする人」なら皆(農業であれ、商業であれ、工業:ものをつくること:であれ・・)、その「何か」にかかわることなら、多かれ少なかれ、何についてでも関心をもち、知り、学ぶのがあたりまえだった。
 たとえば、近世初頭までに、すでに、建築を含め各種の工作技術は多様な展開・進展を見せているが、これは決して指導者・学者がいて先導・指導したものではなく、また、時の政府が法律などで差配・誘導したものでもない。
 その成果は、すべて、「何かをする人」たち自身の日常的な営みの継続の結果であった、と言って過言ではない。

 人びとのこのようなあたりまえの営みを、「萬屋(よろずや)主義」として排斥につとめた人物がいる。福沢諭吉である。
 福沢は、一般に、日本の「近代」創生の重要人物として賞賛されるが、同時に「現代の停滞」の因をつくった人物でもある、と私は思う。
 彼は著書「学問のすすめ」で、西欧の文物に学ぶために、「一科一学」を説いた。江戸時代までのような「萬屋主義」では、西欧文物の会得には時間がかかる、手分けして学べ、というのである。「科」の字は、「分ける」「分類」の意。植物の○○科、学校の「教科」の「科」である。
 実は、この「一科一学」が「科学」なる語の語源というのが目下のところ有力な説。「科学」を字義どおりに解釈すると「分けて学ぶ」になる。そして、今一般に、「科学」とは、「専門に学ぶこと」として理解されている。
 しかし「科学」の語の当てられた“science”の語には、「分けて学ぶ」などという意味はまったくない。その原義は「ものごとのすじみち:理:を究めること」という意(「英英辞典」を参照されたい)。だから、scienceの訳語には「究理」が適切だ、と言った物理学者がいる。

 以来、近代日本は、行方を誤った、と言えるかもしれない。なぜなら、まわりの見えない、まわりを見ない、まわりを見たがらない《専門家》だらけになってしまっている。それでいて、その《専門》をもって、一般の人びとを指導したがり、時の政府もそれに従う。《専門家》も政府も、人びとそれぞれが、自らの意思で自由に考えることを嫌うようになった。

 本来、本当の専門家であればあるほど、その専門にかかわることについては、それがいわゆる《文科系》のことであれ《理科系》のことであれ、知ろうとし、学ぼうとするのがあたりまえ。残念ながら、そうでないのが今の《専門家》。むしろ、好んでそうすることを拒否しているように見える。
 《建築の専門家》もまったく同じ。あるいは一番ひどい内に入るかもしれない。何故か。

 英語の疑問詞には、who,what,when,where,why,howそしてwhichがある。私が中学のころ、前者の「5w1h」で物事を考えよ、と教えられた。これは正しい。ある事象を考えるときに、とても大事なことであるし、そうすることで事象が分かるようになる。これはこれまでの経験で実感できる。
 ところが、今の《建築の専門家》は、whichの問についてのみ答が出る。ことによると、○×式の教育の《成果》なのかもしれない。何択かの問題が出されれば答えるが、自ら問題をつくらない、考えない。たとえば、法律でAと規定されれば、Aを選んでよしとする。それにあわせようと《努力》する。批判精神などどこにもない。過日「その1」で書いた「耐震スリット」について、疑問を呈した《建築の専門家》はいるのだろうか。
 これでいいのか、《建築の専門家》諸氏!
 ほんとに理科系ならば、理詰めで考えて欲しい。 

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