《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その3 (完)

2009-12-11 15:02:59 | 専門家のありよう
      
       会津・喜多方の蔵造り 
        会津では、蔵造りの建屋が人びとの「願望」であった。
        煉瓦蔵は蔵造り相応の暮し易さがあり、蔵造りの技術を継承・発展させ、
        昭和30年代まで、つくられ続けていた。


[今回で終りですが、また長くなります。]

大学入試の社会科で受験生に最も敬遠される科目は、日本史と世界史であるという。
実際、入学した学生に問うてみると、高校で日本史を学んだ学生は半数にも満たない。中学校で学んだのが最後で、以後日本史とは無縁であり、ほぼ完全に忘れている。
仮に覚えていたとしても、平安京に何年に遷都したか、平安時代の文化を代表する作品は何であるか、などということだけで、それさえ覚えているのは珍しい。
当然世界史についても同様である。

《国際化》が叫ばれ、《国際交流》《国際関係》あるいは《比較文化》に関心を持つ学生が増えているが、そういう学生たちでも変りはない。
《国際的》とは、外国語が喋れ、外国に行くこと、と勘違いしているのかもしれない。そして、そういう時代だから、もはや(各国の)『歴史』を学ぶことなど無用である、とさえ思っているのかもしれない。留学生の方が日本について知っていたりすることも不思議でない。

それも無理もない。
わが国の学校教育自体が受験目当てになっているからである。受験が終われば忘れてしまうのである。
おそらく、何故歴史を学ぶのかということの認識が教育の現場から喪失しているのだろう。
とりたてて年号や作品名を覚えることを教えなくてもよいから、何故歴史を見るか、その重要なことだけは教えておいてくれないか、というのが私の願望である。
それさえあれば、逆に、時代や時代の文化の特徴も、ことによれば名前も、そして何よりも、文化とは何か、人の営為とは何か、考える姿勢が自ずと身についてくるはずだからである。

しかし、これも驚くにはあたらない。
大学の建築教育も(建築教育以外でも多分同じだと思われるが)、そしてそれを支えているはずの《大学教師》も、欧米の最新事情には(相対的に)通じてはいても、日本(の建築)の歴史を知らない、踏まえていないのが《あたりまえ》だからである。
日本の建築史は「日本建築史」の講座担当者が知っていればことが済む、おそらくそういうことなのだろう。すでにして、建築を学びあるいは教えることにとって、『歴史』を知ることがいかなる意味を持つのか、その認識が欠如しているのである。

   追記
   国際的:international この互換は、それぞれの語の意味の上で間違っていません。
   国際的:国-際 的 
   「際」:出合うこと、会うこと、交わり の意
   international:inter-national
   inter: 中の、間の、相互の という意
   ゆえに、いずれの語も、「国」「national」が、前提になります。
   その前提がないと、この語は、ともに成り立たちません。

考えてみれば、土地柄から、木材で構築物をつくるのがあたりまえであったわが国で、多くの《建築専門家》が木造を知らない、分らない、難しいと言い、木造を多少でも知っていると自ら《木造建築専門家》と称して憚らない、などという最近* の事態ほど異様なことはない(* 1993年当時の「最近」ではあるが、現在も変らない)。
そしてそれを、少しも異様と思わない《専門家の世界》は、常軌を逸していると言わねばならないだろう。

『建築史』の碩学が、いたずらに様式や細部の差異だけに目をやらず、
人びとにとって建物をつくるとはどういうことであり、
そしてそれをどうやって、何を使ってつくろうとしたか、
それが何故、どのように変ってきたのか、変らなければならなかったのか、
人びとの営為とのかかわりで建築の歴史を見る視点を確立していたならば、

また『技術史』の碩学が、技術を天から降って湧くものとしてではなく、いたずらにそのルーツを探すのでもなく、技術とはそれぞれの地域の人びとの生活を営む上での勝れた知恵の結集であるとの視点で見ていたならば、

そしてまた、『構造』の碩学が、木造を最初からダメなものと決めつけず、過去幾多の事例とその技の移り変りのなかに、人びとの知恵の結集を見るだけの素直な視点があったならば、

そしてさらに『建築計画』の碩学が、過去の生活の姿を、いたずらに《遅れた、改良すべき》生活とは見なさずに、そこに「人びとの生活」=「人びとの営為の真の姿」を見るべく努め、やたらに人びとの生活を《先導的に》《指導・改善》しようなどという大それたことばかりを考えなかったならば、

おそらく、いま目にする建築界の異様な状況は結果しなかっただろう。


かつて、《近代化》にために脱亜入欧が標榜された明治時代、将来の《先導的指導者》を約束されていた当時の帝国大学の学生たちは、捨て去るべきは過去の日本であるという「信念」の下、専ら西欧の《知識》の収集につとめたのであるが、彼らは留学先で日本のことを尋ねられ、はじめて「日本のこと=自国のことについて知っておくこと」も必要らしいと気がつく。
たとえば、わが国のおそらく最初の日本建築にかかわる辞典である『日本建築辞彙』の編著者である中村達太郎でさえ、書簡に「・・・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした。・・・・」と記している。
彼はその無知を知り、帰国後、それまで彼らが黙殺しようとしてきた大工・棟梁について日本の建物づくりの技を学び、先の著作にとりかかるのである。

おそらく現在、わが国の大半の《専門家・研究者・建築家》は、「日本建築について皆無知らない」し、知らなくてよいとさえ思っているのではなかろうか。そして、それを改めようとの気配は、ないに等しい。
それでいて日本の建築について《先導的・指導的》であろうとした場合、幾多の誤まった考え方を《先導》してしまうことさえ、十分にあり得るのである。
その一つの例を挙げよう。

会津・喜多方は蔵の多い街である。多くは土蔵であるが、それに混じって多数の煉瓦造の蔵がある。しかも町なかに限らず農村地帯にまで煉瓦蔵はある。
他の地域に例がないこの「異様な事実」に対する解釈として、東北地域の民家研究の第一人者を任ずるある研究者は「・・・・明治30年代にこの地で(煉瓦の生産が)開始(されたが)、必ずしも販路が順調では(なく)、その結果(煉瓦製造者は)出資者への配当や燃料代の支払いも滞りがちで、製品の煉瓦や土瓦を現物で引き取るよう要請されたとも伝えている。『煉瓦造蔵は作りたくて作ったのではない、作らせられたのだ』という住民の苦笑まじりの述懐もあるから、おそらく喜多方の・・・・煉瓦造は似たような事情で増加していったものだろう・・・・」(「喜多方の町並Ⅱ:伝統的建造物群保存調査報告書」より)、「・・・・昭和の初め頃まで、この付近一帯に増加した(木骨に煉瓦を被覆した)煉瓦造は、(煉瓦の吸水のため)内部の木柱が土蔵よりも腐食しやすいなどの欠陥が分って新築が後を絶った。・・・・それでも在来の白い土蔵と茅葺の集落のなかでも結構調和して見えるから奇妙である・・・・」(図説・日本の町並」より)と述べている。

同じく喜多方の蔵を紹介した『写真集・蔵』では、高名な建築技術史の権威は「明治24年の濃尾大地震後、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸み込んでいた(ので、煉瓦造は日本には定着しなかった)・・・・」と記し、大正12年の関東大震災以後には、地方でも煉瓦造建築は完全に途絶えてしまうという《通説》を展開している。

       
        喜多方郊外の散村 土蔵と煉瓦蔵(手前)が並ぶ

おそらく、何も知らない人が、これら学術図書の部類に入る報告書や解説書・紹介所の類を読めば、そこに述べられている《事実》を「真実」としてそのまま信じてしまうだろう。
なぜなら、学者・研究者が真実の探求者であるとの「通説」が信じられるならば、その言説も真実であると思い込むだろうからである。
考えてみれば、これほど怖ろしいことはない。

噂、伝聞が誤まった情報を伝えることはよく言われることである。流言蜚語(飛語)の名のとおり、その多くは、文書によらない伝聞の過程中に捻じ曲がるのであり、発信源は必ずしも誤まっているわけではあるまい。
しかし、発信源が誤まっており、しかもそれが《権威ある学者の著した文書》に明記されていたならば、これはとんでもないことになる。
《権威》のお墨付きで《世論操作》がきわめて容易に行なわれることは、明々白々だからである。

ところで、喜多方の煉瓦造建築は、明治30年代、登り窯による煉瓦製造の開始とともに始まり、大量生産工場による他地域の廉価な(しかし喜多方向きではない)煉瓦や瓦に圧倒され、登り窯の操業が経済的に困難になる昭和30年代までのおよそ60年以上にわたり建て続けられ、しかも、その後も喜多方産の煉瓦による地元の人びとの煉瓦蔵建設の潜在的需要は変らずに強かったというのが事実である。
喜多方の人びとにとっては、喜多方向きにつくられた地場産の煉瓦は、喜多方の建物づくりにとって重要な材料の一つとなっていたのである。
つまり、喜多方の煉瓦造は、他の地域がどうあれ、喜多方の人びとの、それをよしとする独自の判断によりつくられてきたのである。

ということは、先に引用した《学者・研究者・権威者》の著述はすべて《嘘》《いいかげん》であるということになる。
考えてみれば、借金の返済のために、嫌なものを60年もつくり続けるほど喜多方の人びとがお人よしのはずはなく、木柱が腐るような建て方を、60年も黙って認めるはずもない。
そして、大地震の被害のニュースを知っても、彼らは彼らの煉瓦造を断念しなかった。彼らには喜多方の煉瓦造に自信があったのである。

   註 喜多方の煉瓦造建築についての詳細は下記参照
      「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」

いったい、なぜ先の著作に見られるような《嘘》や《いいかげん》な著述が平然となされるのか。
それは、《専門家・学者・研究者》が、地域を見る目を持たない、しかも養わないからである。
彼らにある《視点》は、常に《中央》からの視点である。
《地方》は、常に《中央》のおこぼれにあずかるもの、このいかんともしがたい『地方』蔑視、地域に生きる人びとへの蔑視が、先のような著述を平然と生み出す真因になっていると見なして、まず間違いない。
地域・地方研究を標榜する一群の《研究者》たちでさえ、はたして『地方蔑視観』を根底から拭い去っているかどうか、はなはだ疑わしい。地域は単なる一つの《研究対象》にすぎないかもしれないのである。

研究社の英和中辞典の“local”の項には、わざわざ注釈として「首都に対するいわゆる『地方』の意ではなく、首都もまた local である」と記されているが*、このような注釈が施されるということは、わが国にいかに『地方蔑視観』が根強いか、『地方』“local”という語が誤解されているか、を如実に示していると言ってよい。

   * 研究社「新英和中辞典」の local の項には次のようにある。
     ①場所の、土地の
     ② a (特定の)地方の、地元の、地域特有の〈首都に対するいわゆる「地方」の意には
       provincial を用いる;首都もまた「一地方」なので local である〉。
       ・・・・
       b 以下略

かつて人びとは、ものごとの真実を自らの身をもって判断していた。判断の「基準」は、それぞれの地域の人びと自身のものであった。同じものごとが、異なる地域によって別の意味、別の理解を与えられることも、またあたりまえであった。
むしろそうであるからこそ、明治以前、人びとは、他国を含めて他の地域との『交流』により、いろいろなことを虚心坦懐に学び得たのである。

すなわち、判断の基準が、地域により、人により、つまり(それぞれの)「生活の必然」の違いにより異なり、画一的ではないこと、これが人びとにとっては当然すぎるほど当然の認識であった。
その意味では、古代以来江戸時代までの日本人は、現在よりも数等『国際的』であった、と言うことができるかもしれない。

しかしながら、おせっかいな人たち(先の《肩書》の人たち=《先導的》であることを自負する人たち)は依然として、地域により、人により基準がまちまちでは、ものごとがいいかげんになる、と思っているようだ。

しかし、よく考えてみよう。
人は、自らのために、自らの生活遂行のために必要なものごとを、いいかげんに為すものだろうか。
人びと=「一般大衆」は、それほど愚かなのだろうか。
《学者・研究者》は、それほど賢いのであろうか。


ここでもう一度喜多方の煉瓦造に触れれば、煉瓦を多用した喜多方の人びとには、とかく一般にありがちな、煉瓦でつくれば洋風になる、という考えはなかったことに注目すべきである。
彼らにとって煉瓦は、たまたま目の前に現われた、彼らの建物づくりに使えると判断された一材料にすぎなかったのである。

彼らは、《中央》の人たちのような煉瓦造に対する思い入れはなく、それまでに培われていた自前の技でそれを巧みに使いこなしたにすぎないのである(使えないと判断すれば、使わなかったに違いない)。

そして、これも重要なことなのだが、煉瓦を使うようになっても、それ以前の技術はもとより、職人の仕事も、決して切り捨てることがなかったことも、注目してよいだろう。それまでの職人組織が破壊されることなく、新たに生まれた「煉瓦職」とともに共存したのである。

この柔軟さこそ、本来、地域の人びとそれぞれが持っていた力なのであり、その連続的行使が明治以前の日本の建築の歴史であったということを、いまあらためて確認する必要があるだろう。
そこには明らかに、現代の切り捨て・廃棄が当然の《合理主義》とは根本的に異なる「思想:考え方」が背景にあったのである。


木造に関するここ数年の動きをいろいろ見聞きするなかで、私によく分ったのは、関係者はもとより、木造に関心を持つ人びとが、あまりにも、わが国固有の木造建築技術・その歴史について、そして、わが国の木造建築が現在の状況になった『いわれ』について、知らない、知りたがらない、触れたがらない、ということであった。
私には、最近の動きは、《単なる木造に関心を引くためのキャンペーン》にすぎないように見えた。《この春の流行は〇〇色・・・・・・》という化粧品のキャンペーンと何ら変らない一過性の動きにさえ見えたのである。熱が冷めれば、季節が、時代が変れば、また関心は別の所に向いてしまうかもしれない、そういう類の動きである。

わが国の木造建築をとりまく状況は、たしかに早急な対症療法とリハビリテーションが必要に思える状態であることは事実である。出血があれば止血しなければならず、社会から遠ざけられていたからには社会復帰のためのリハビリテーションも必要であると考えたくなるのも事実だろう。

けれども、その「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションは、単なる病の転化にもなりかねない。必ず、症状の真因を究める必要があるはずである。
残念ながら、最近の木造再興に関する論議には、この視点がまったくない。

   追記
   この文章を書いてからおよそ15年、相変わらず木造で林業振興を、国産材を使おう、という動きはあります。
   しかし、山林の多くは相変わらず荒れたままです。
   一部の《篤林家》が居ることは居ますが、それを《ブランド》にしてしまう場合も多く見かけます。
   どこまで行っても、稼ぐことが先行する、ここでも近江商人がいないようです。
   しかしそれは、林業家のせいではない、けしかける《建築家・専門家そして行政》のせいなのです。
   「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションを考えるからなのです。
   そして一方では、原始林を伐採した廉価な外国産材が相変わらず大量に輸入されています。
   極端な話、外国産材の量が減れば、否が応でも国産材を使うはずなのですが・・・・。

この「真因」:わが国の木造建築の現在の悲しむべき状況を生みだした根本的な原因については、・・・・「新建築」誌1987年6月号の「流浪の木造校舎:木造建築の悲哀」* において概略のべさせていただいたが(* 先回転載してあります)、
一言で言えば、(「真因」は、)木造建築を取り巻く《専門家・建築家》の世界の《異様さ》にあると考えている。

しかし残念ながら、この《異様さ》は、建築界では一向に実感されていないように思われる。《異様さ》は気付かれもせず、気付こうともしない。
《異様さ》が日常になる、それに気付かなくなる、これは最も怖ろしい症状である。
私自身も、ともすれば、その《異様な日常》に埋没してしまいかねない。
それを放置したままでの木造再興論議は、かつての建築界の過ちを再び犯すことになるだろう。

今回私が、「木造建築を増やすための提案」という趣旨の編集者の依頼に反して、いろいろな局面の《異様な》症例を多々書き連ねてきたのは、《建築界の異様な日常》をより詳しく具体的に示すことにより、《異様さ》を思い起こす一つの契機になれば、と願ったからである。


これからのわが国の学校などで木造建築が増えてくるには、木造でそれらの建物をつくることが、何ら特別のことではなく、かつてのように『あたりまえ』に扱われるようになることが必要だろう。
したがって今後、木造建築が増えるために必要なのは、木造が『あたりまえ』になるための条件・環境整備である。
すなわち、『異様さ』を改めることである。《専門家》はそれに係わる必要があるだろう。

しかしそれは、木造復活のためと称するまた新たな《先導・指導》《管理》のための画策を企図することではない。
《専門家》自らが率先して、自らの考え方、その拠って立つ立脚点を正常に戻すことである。
そして、わが国の建築の歴史について、わが国の木造技術について、その持つ豊饒(豊穣)な可能性について、あらためて根本的に学び直すことである。

もちろん、このような根底に戻る、文字通りの radical な論議は、やっている暇がない、それほど事態は切迫している、との異論を唱える人もいるだろう。
しかし、この《異常さ》は、普通の人びとの意志とは関係なく、
《専門家》と称する一握りの人たちの手によって、ここ1世紀以上という長きに* わたって(* 明治以降)、
「それ以前の人びとの営みの積み重ね」=「歴史」を徹底的に破壊し、切り捨てることにより、人為的につくられてきたものである。

その結果として生じた《異常さ》の修復が、一朝一夕でできると考えることの方がおかしい。
田畑の耕土は、一朝一夕にはできない。耕土にするための人びとの長い年月をかけての営みが必要である。
しかし、その耕土を破壊することは容易である。一日でもできる。
そして、一度破壊された耕土の復活には、ほとんどゼロからの出直しに近い営みが必要なのだ。

もしも《専門家》が、これを一晩で再興できると思っているのならば、
あるいは対症療法で再興できる程度の認識でことにあたっているのならば、
そのような木造復権論議は、あまりにも事態の認識が浅すぎる。事態の理解が甘すぎる。

そうであれば、そうであるからこそ、今先ず必要なのは、
『《専門家》のノーマライゼーション』なのではあるまいか。

    ・・・・たとえば、農村、漁村、散村、どれもこれも国土の大事な一部分です。
    そこに住んでくれる人がいなくては荒廃してしまう。住む人なしでは、
    そこに祖先が長い歳月をかけて育て上げ、そして伝えてきた文化も消えうせてしまう。
    それぞれの土地の食事や祭といった文化を担っているのはあくまでも人です。
    その人がいなくなっては、なにもかもなくなってしまう。
    ・・・・・・・・
    自分たちの食事や自分たちの祭りを手放すということは、
    自分たちの立っている大地と切れてしまうのと同じこと、やがてわたしたちは、
    どうして自分たちがこの日本という土地に住んでいるのか分からなくなってしまいそうです。・・・・
                       「毎日新聞」1992年10月26日『井上ひさし 響談』より  
                                                      〈完〉

   追記
   おしまいまで読んでいただきありがとうございました。

   正直な気持ちを言えば、
   ノーマライズできない人、したくない人、現状のままでいたい人・・・・は、
   「名誉専門家」の称号を差し上げますから、今すぐ引退していただきたい、という思いです。
   普通の人びとを馬鹿にしてはいけません。
   フランス映画だと思いますが「自由を我らに」というのがありました。
   そうなのです、「自由を我らに!」なのです。何か封建領主との斗いみたいですが・・・。    

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《専門家》のノーマライゼーション-その2:補足

2009-12-09 12:09:56 | 専門家のありよう
[語句追加 14.45][註記追加 22.41]

明治の「近代化」以降現代に至るまで、わが国の建物づくりでは、ひたすら「木造からの脱却」を目指した策が講じられてきました。
その実相を「新建築」誌1987年6月号に「流浪の木造校舎―木造建築の悲哀」で簡単に記したことに触れました。

   註 全文は下記を [註記追加 22.41]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e

その中から、学校校舎の場合について、その「策」の変動の様を如実に示す文書を紹介します。
実に僅か25年ほどの間に、「変動」が意図的に起こされたことが分ります。

先ず、1959年(昭和34年)の文書から。これは「鉄骨校舎のすすめ」です。
ここでは、第二次大戦後、学校校舎の建物について、何がなされてきたか、おおよその経緯も書かれています。言い回しが変な文ですが、原文のままです。

     

そして、そのおよそ25年後、1985年(昭和60年)の文書から。これが「木造校舎のすすめ」。

     

こんな風にコロコロ変るのは「指導」ではありません。朝令暮改の見本です。

ところで、この木造からの脱却を説き、そして木造への復帰を説く、実は、その背後に、建築側として(語句追加 14.45)、見え隠れしているのが同一人物とその周辺の人たちである、と知って驚かない人はいないでしょう。
節操のない、恥を知らない《専門家》の代表です。
そして、勘のいい方は、おそらく推定できる筈です。そうです。例の「一統」の「祖」となる方たちなのです。変り身の早さ、抜群の方たち。その《自分たちの伝統》は、実に見事に継承されているのです。

暮しやすく、安全な建物づくりのすべてを、人びとに任せれば、かつてのように(近世までのように、近現代なら昭和初頭までのように)、ずっとよいものができるはずです。
コメント (7)
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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その2

2009-12-08 18:07:27 | 専門家のありよう

本題と関係ありません。神社の杜の様子です。

[前回の続き:今回も長くてくたびれるかもしれません。ご容赦を]
[文言追加改訂 23.07][文言追加 9日 15.14][註記追加 9日 22.20]


かつて、日本中の学校はほとんどが木造であった。
そのとき、木造であることを高らかに標榜した《意欲的》な建物があったろうか。《斬新な》技術を示威した建物があったろうか。
あるいは鉄筋コンクリート造の学校が現われたとき、《斬新さ》や鉄筋コンクリート造であることを示威的に標榜した《意欲的》な建物があったろうか。
そうではないだろう。
最近の学校建築に比べて、一般的な木造校舎や、敗戦直後の鉄筋コンクリート造の学校建築(たとえば、昭和25年:1950年建設の「西戸山小学校」など)の方が、よほど清々しく、空間としてよく考えられていたように思えてならない。




私が通った小学校は、当時の木造の標準的な校舎であったが、窓まわり一つをとっても、その神経の行き届いた配慮・丁寧さは*、最近の設計とは比べものにならないほどよく考えられていた。

   * 腰壁から上、窓は3段の構成になっていて、どれも引き違い戸でした。
     1段目は、窓台から座った子どもの頭くらいの高さまで、2段目は、そこから内法高まで、
     そして3段目は、内法から天井近くまで、いわゆる欄間、子どもの手ではなかなか開けられない。
     ときどきの気象状況に応じて、開ける窓を選べたのです。
     ある年代の方々は、こういう学校で育っていて、知っています。

そのような「使える建物」を考えた設計による建物は、当然「使いこなし」「維持」も容易である。なぜなら、それこそが設計の焦点だったからである。
そして当然そこでは、子どもの神経がさかなでされるようなことはなく、使われた材料をこれみよがしに示威するようなところも、また設計者の存在を誇示するようなところも、いささかもない。そういう意味では、少しも《意欲的》でもなく、《斬新》でもない。

しかし、「使える建物」をつくるという点では、きわめて「意欲的」であり、常に「斬新的」であったのではなかろうか。
いかなる材料であれ、当時の「建築家・専門家」は、学校という子どもたちの住む(暮す)空間をつくる、という一点に神経を払っていた。
これに対して、最近の木造建築は、木造で建物をつくるのではなく、専ら《木造の表現》にうつつをぬかし、それに反比例して、こまやかな配慮が抜け落ちているように私には見える。

明治のはじめ、若き伊藤忠太は「建築とは『実体を建物に籍り(かり)意匠の運用により真美を発揮する』ことである」と定義したが、いま《建築家》は、建物に名を借りて、巨大な《積木遊び》に夢中になっているのかもしれない。
要するに、《建築家》は木造を「あたりまえ」に扱っていないのである。

もちろん、最近の木造建築は、《木造であること》を社会に強く印象づけること=キャンペーンをはることが、木造の復権のために必要なのだ、という《政策的》考え方の反映としてあるのかもしれない*。

   * 私は、木造建築で林業の振興を、という論に乗ることを拒否してきました。
     それを言わない、といって非難もされました。
     しかし、その考えは、今でも変りありません。
     建物をつくるのは、林業のためではないからです。
     林業が衰退したのは、木造建築がないがしろにされたこともありますが、
     それよりも、低い関税で外材を輸入する策にこそ、最大の原因があるのです。
     日本の環境に適さない2×4工法を導入することと、外材の大量輸入は併行しています。
     これが最大の原因なのです。[文言追加改訂 23.07]
     「木造推進⇒林業振興」に触れた文書を、9日に「補足」として載せました。[文言追加 9日 15.14]
    
しかしながら、いま、《専門家・建築家》には、そのようなキャンペーンを展開する前に、あらためて思い起こしてもらいたいことがある。

一つは、すでに冒頭にも触れたが、明治以来のわが国の建築の歴史は、《先導・指導的》であらんとする(人びとを管理したがる)《専門家》による、あるときは鉄筋コンクリート、またあるときは鉄骨をと、ひたすら木造からの脱却を目指したキャンペーンの連続であったこと、そしてその結果こそが現在の木造建築衰退の状況である、という歴史的事実についてである*。

    * これについては、事例をあげて論評した一文があります。
      「流浪の木造校舎」(「新建築」1987年6月号)
      9日に「補足」として、事例の「文書」を載せてあります。[文言追加 9日 15.14]
      なお、この一文は、下記に全文を載せてあります。[追加 9日 22.20]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e


そしてもう一つは、そもそも《建築家》と呼ばれる《専門家》は、明治以来の《近代化》策とともに、それまでわが国の建物づくりを担ってきた大工・棟梁の系譜とは一切無縁に、むしろ進んで縁を切ることを目指して発生した存在であった、という事実についてである。

この認識の作業は、すなわち、《専門家》の行為のありようとその基盤についての「歴史的再認識」の作業にほかならない。
しかしながら最近、《専門家=学者・研究者・建築家》は、これらの経緯についてなかなか振り返りたがらない。
過去の世代の引き起こしたことには、関係がないと思っているのかもしれない。
過去よりもこれから先を急ぐことが大事なのだというのかもしれない。

つい先日世を去ったドイツのブラント元首相は、「国民の半数はヒトラー時代の責任とまったく関係ない世代になったが、それでもだれ一人、歴史から免れることはできない」と語ったという。
残念ながら、最近のわが国では、歴史は《免れるため、忘れるため》にあるようだ。
「日本の歴史教育は忘れることを教え、ドイツのそれは想い出すことを教える」。これは最近、新聞紙上で読んだある評論家の言葉である。


もちろん《専門家》たちの歪みは、ただ木造建築についてのみならず、(建築にかかわる)ありとあらゆる局面にわたっている。
・・・・「筑波研究学園都市」に・・・・数年前* に話題になった鉄筋コンクリート造の学校がある(* 1993年当時の数年前)。
《新しい世代の学校の創造》として《専門家》の間で《評価》が高いようなのだが、私にはその理由がまったく分らない。
これは「やりきれないな」というのが私の正直な感想である。
感受性豊かな子どもたちの感性を、日ごと「やすり」で削り落とすような建物だからである。

《F・Lライトの本質に学んだ》という[設計者の理念]が盛られた《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》(《 》内の文言は、日本建築学会「作品選集」からの引用)は、子どもたちの前に「もの」として、「視覚風景」として立ちはだかり、知らぬ間に彼らの感性に傷をつけ、ひいては子どもたちの「創造力「想像力」さえ奪ってしまうだろう。

なぜなら、本来私たちは日常、それぞれなりに、またそのときなりに、私たちのまわりに空間を感じ、その意味を読み取りつつ生活をしている。それを通じて、私たちそれぞれのなかに、それぞれなりの「心象風景」が形成される。

これに対して、強制的なあるいは一方的な意味の押し付けとなるようないわば威嚇的なまでの「視覚風景」の存在は、私たちの空間での自由を束縛することになりかねない。
形状面での《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》は、かえって逆に人の「心象風景」を画一的・単調にしてしまうという単純な事実が分っていないのである。

この学校に見られるような、子どもたちの「心象風景」の形成を無視した「視覚風景」の造成は、単なる設計者の勝手な思い込み、あるいは《遊戯》にほかならず、子どもたちの感性にとっては「やすり」同然となる。
いったいライトの設計思想のどこに、このような考えがあったのだろうか。
「師」と仰がれたライトが唖然・呆然としていることは間違いない。
何もこの例だけではない、私たちが生活の中で接する最近の建物には、概してこういう傾向の建物が多いのである。

   追記
   幼稚園、保育所というと、多くの場合、《大人の幼児感》が建物の形に表れる。
   たとえば、はでな色彩、童話をモチーフにした形、などなど・・。
   私には、これは《大人の(勝手につくった)感覚》の押売りにしか見えない。

もとより《建築家》各々が、誰に学ぼうと自由である。
何を考えてつくろうが、それをどのように説明しようが、それもまた自由である。
学校建築の《専門家》を自負することも自由である。
そしてまた《専門家》の集まりである《学会》が、あるいはまた《評論家》や《ジャーナリズム》が、そのお先棒を担ぐのもまた自由である。
実際、いま*《建築界》では、これらの自由は見事に花開いている。

   * 1993年当時の「いま」であるが、今もまたあいかわらずである。

けれども、ここに唯一、行使されていない『自由』がある。『批判と論議の自由』である。
いかに崇高なる考えの下で設計がなされようが、おかしいものはおかしいのである。
おかしいと思う者が、誰もいないなどということはあり得ない。
おかしい、と相互に批判がなされてよいはずなのである。それがあたりまえである。

この素朴な論理が通用せず、互いに顔色をうかがい、そういう考えもあるだろうと仲良く認めあい、『批判と論議の自由』の権利が放棄されている《建築家》の世界は、どう考えても「あたりまえ」ではない。

そもそも、先のような自薦他薦の《解説》が学会の名の下で平然とまかり通り、相互に何の批判も論議も交わされないまま放置されるのであるならば、《学会》もまた学会とは名のみの「異常な集団」といわなければなるまい。それとも「学会」とは同業者の「権利(利権?)を護る寄合い」にすぎないのだろうか*。

   * そういう「批判・文句」があるのならば、学会に加入してそこでやれ、とよく言われたものです。
     「異常」だから入らないのだ、ということが分らないようなのです(今でも)。
     それゆえ、私のような「発言」は、なんとかの遠吠え、と見られるらしかった。


かつて、建物をはじめ、ものごとのよしあしは『普通の人びと』により判断された。
そして、よいもの、間違いのないものをいつでもつくれる工人は、人びとから安心して仕事をまかせられ、尊敬された。
つくるものが人びとのものであって、工人のためのものではなかったからである。
というより、工人の考えることと人びとの考えることが一致していたのである。
彼らは『何をつくるのか』『人びとの生活が何を必要としているか』『人びとの必然は何か』、あたりまえに分っていたから、あたりまえのように『人の住む空間』がつくれたのである。
それゆえ、そこに生まれる空間は、《単調に陥らないデザイン上の工夫》などという姑息な手段で装う必要もなかったのである。
それができること、それこそが『専門家』の専門家たる所以であった。
したがって、彼がどこでその技を磨こうが、何を考えようが、最後は人びとにより、できあがったものにより判断されてきた。

残念ながら、昨今、ものごとの判断が他人まかせとなっている。
というより、人それぞれに判断がまかされることが疎まれている。
人びとにまかせると判断を誤まるとでも思うのだろうか、判断の絶対的《基準》をつくり、絶対的《評価》を下したがるおせっかいな人たち=各界の《権威者・識者・専門家》がいる。
しかし、誰が、いつ、彼らに「判断」を委ねたのであったろうか。

おそらく人びとも、このおかしさに気が付いているはずである。疑問に思っているはずである。ただ言わないだけなのである。あるいは、言えないだけなのである。
長年飼い慣らされた結果であろうか、《権威》に盾ついても所詮だめ、との諦観に達しているのかもしれない。
(近現代の)日本はいわれるほど「民主的」でない。閉鎖的である。素朴に、率直に、「王様は裸だ」と声を出さねばなるまい。孔に閉じこもらずに、「王様の耳は驢馬の耳」と叫ばねばなるまい。

   追記
   私にとって、ブログは、予想外の、またとない手段でした。
   何の気兼ねもいらずに、言いたいことが言え、それへの「反応」が直に伝わってきます。
   いわば、自由な「一人出版社」。   
   それでいて嘘は言えない。本名で書くのは、その保証のため。
   おそらく、いま転載している一文を読まれる方の数は、掲載誌上で読まれた方よりも
   多いのではないかと思っています。
   そして、読まれる方の「熱心さ」も違うように思います。
   
いまから20年近く前* のことになろうか(* 1970年代の中頃のこと)、南会津の村を訪れたときのことである。
村の中心部の一画に、見るからに倒れそうな小屋が一軒建っていた。何の変哲もない鉄板屋根の小屋である。
住宅のようでも集会所のようでもあり、とにかく外目にはその用途を推し量ることはできなかった。
村人の話では、これはこれから先も取り壊すことのできない大事な建物なのだという。
何故このようなボロ家が彼らにとって大事なのか、不審そうな表情が私の顔に浮かんだのだろう、彼らは説明を加えてくれた。

かつて四周を山に囲まれたこの村は、冬季交通が途絶し、夏季は冷害に悩まされ、自給できる人口に限りがあり、次男三男は婚姻を許されず、長男が嫁を迎えると居づらくなり、そのような者達が寄り合う場所として自力でつくりだしたのがこの小屋なのであるという。
いまでこそそのような事態が解消されたとはいえ、その彼らの言い知れぬ苦労を考えたら、その小屋を取り壊すなどという哀しいことが、どうしてできるか、というのである。

農業経済学が専門の玉城 哲氏も、その著『水紀行』の中で、氏にとって衝撃的であったある体験を語っている。そのまま引用しよう。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・冷害の青森県上北地方(かみきた)をあるいていたとき・・・・《田舎のバス》はそのうち橋にさしかかった。
橋のたもとに「一級河川・相坂川」という看板がでている。・・・・建設省が掲げたものである。

相坂川といっても、ほとんどの人はどんな川か知らないであろう。私も・・・・あの有名な奥入瀬川が「相坂川」であるとはまったく知らなかった。
そこで、私もいささかいたずら心をおこして、隣りのおばあさんにきいてみた。
 「おばあさん、この川の名前知っているかね」
 「おら知らねえな、よその人はオイラとかいうがな」
たぶん、そんなような返事だったと思う。私はいささか唖然として、思わずききかえした。
 「おばあさん、川の名前知らないのかね」
 「川の名前など、おら知らねえ、松の木があれば松の木川だ」

そのときうけた私のショックを、ここで表現することは容易ではない。私はしばらく、何と言ってよいかわからないまま、まったく沈黙に陥り、車窓の風景を眺めるだけであった・・・・。

私たちは気軽に、地図に書いてあるからということで、利根川とか、淀川とか、木曽川などといっている。そして、それが地元で何と呼ばれているかなどということなど考えてみもしない。ところが、それはしばしば地元の人びとにとってはよそ者のいい方なのかもしれないのである。・・・・

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――    
考えてみれば、建物を建てるのも、ものに名前を付けるのも、それにはすべてそれなりの『そこに生きる人びとにとっての必然』があるからである。
そうであるならば、そうしてつくられた建物の場合、それがいかに貧弱であろうと、いかにみすぼらしかろうと、そしていかに壊れそうであろうと、人びとにとって大事であることに変りはない。

おそらく、いかなる建物であれ、あるいはまた行事や慣習であれ、名前であれ、およそ人びとの為してきたこと=営為は、それが目に見えるものであれ、見えないことであれ、それらを為すための技をも含め、すべて人びとにとって大事なものごとなのであり、好き勝手に、また簡単に、捨て去り、切り捨て、忘れ去ることのできるはずのものではないのである。

このことを、ふと忘れてしまいそうになっていた私にとって、南会津での体験は実に衝撃的であり、玉城氏の述べられた事例もまた同様であった。
よそ者が(《専門家》が)背後に隠されたその地の「物語」を知らずして地域に介入したり、地域のものごとの当否や価値を勝手に決める:流行の言葉で言えば《評価する》:などという、いま世の中で通例になっているやりかたが、いかに無意味にして重大な誤りであるか、あらためて気付かされたのである。

最近* 知った話であるが、地域主義、地域の復権を唱え、各地の自治体などをまきこみ、《共同体的設計組織》をつくり、その実、その組織を多弁な弁舌で言葉巧みに牛耳ることで仕事を増やしている《東京在住の建築家》がいるそうである(* 1993年当時のことだが、いまも変らない)。
東北のある町での彼の仕事を見たが、単にその地域のつくりを形状だけまねたものにすぎず、その地域独特の技術や材料について、まったく何等顧みられていない、その唱える《地域主義》とはいったい何なのか、と思わざるを得ない内容であった。
地元の人もおかしいと思ってはいるが、《民主的》装いをとる組織を牛耳る詭弁に近い多弁さゆえに、口下手な地域の人びとは、意見が言いづらいのだという。

ここまで巧妙になると、私は絶句するだけだ。「唾棄(だき)すべき」という表現は、まさにこういうことへのための言葉としてあるのだろう。
《専門家》の唱える「民主的」「地域主義」のなかみは、概してこの程度なのである。

   追記
   何か「木造建築」をめぐる現在の動きと似ているところがありますね。
   実は、この方は、現在、日本の木造建築を引っ掻きまわしている「一統」と
   同じ研究室の出身なのです。
   この研究室は、どういうわけか、そういう「性向」があるみたいです。
   ちなみに、教師時代、学生たちに、将来郷里に戻るのならば、
   卒業後直ぐに戻るべきだ、故郷に錦を飾ろう、などというのはやめなさい、
   と私は言ってきました。   
   これを傍で聞いた私の元同僚(この方も「一統」の一人で、例の「木の建築フォラム」の理事です)に、
   「各地に網を張る準備ですね」と言われました。
   私がその「意味」に気が付いたのは、ずっと後になってからのこと。
   これなども「一統」の「性向」の一端を示す例と言えるでしょう。

かつて、各地域では、建物をはじめ当代以前の人びとの手により営まれつくられてきた事物は、すべて、先の南会津のエピソードで触れたような意味で、人びとによって大事にされてきていた。彼らの生活の場である「環境」に対してもまったく同様であった。

彼らには、現在のような《文化財》や《環境》という概念は存在しない。
彼らには、基本的に、その事物が立派だから、代表的なものだから、資料として価値があるから、という類の《選別基準》《評価基準》はないのである。
しかし彼らは、現代の《文化財》概念や《環境》概念を持つようになった人びとよりも、環境や先人の為してきた事物を、大事に、大切に扱ってきたのである。

彼らにあったのは、彼ら以前の人びとの営為を尊敬し、尊重する精神であった。
彼らの『今』は、彼らにとっては『過去』、彼ら以前の人びとの『今』があってはじめてあり得たのだという『歴史』認識、現在ではすっかり消滅してしまった理解・認識がごくあたりまえに彼らの内に在ったからだと言ってよいだろう。
したがって、かのボロ家が物理的に崩壊してしまったあとでも、彼らは何らかの「証」をその地に刻む作業を、当然のごとく行なったにちがいない。それが彼らの『今』を保証してくれたものだからである。

残念ながら、このような『歴史認識』は、いま、《専門家》の意識から完全に欠落し、そしてそれが《あたりまえ》であるかのように事態は進行しており、また誰もそれに気付かない。気付いていても言おうとしない。そのまま見過すのがまた《あたりまえ》だと思われている。

むしろ、《専門家》は、次から次へと新たな《評価基準》をつくることに汲々としているとさえ言ってよいだろう。
いわば勝手に《基準》をつくり、それから落ちこぼれるものは廃棄する、切り捨てる、考えてみると(考てみるまでもなく)これは怖ろしい《思想》である。

いったい、どうして《専門家》に一義的に、一方的に《価値》を定める権利があるのだろうか。
いったい、いつ、誰が彼らにそれを委ねたのであったろうか。

[長くなりました。以下は次回にまわします]

付録
先回、体育館の地盤が転石だらけの急斜面、と書きました。
ここは、筑波山で有名な「男女川(みなのがわ)」の源流近くで、一説によると、中世には寺院があったが、土石流で流され、以降放置されていた、と言われています。
転石だらけでボーリングなど不可能な土地です。
この場所での基礎の施工の様子の図版を載せます(「住宅建築」1987年7月号)。
場合によると、巨岩の上に鉄筋を組み立て、コンクリートを打って岩に一体化する方法も採っています(写真右)。





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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その1

2009-12-05 00:06:37 | 専門家のありよう
倒壊した「木造3階建住宅・震動台実大実験」の試験体について、主催者の「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」に、その設計図・仕様などの詳細な資料の「事前開示」を要望し、先月(11月)19日に「事前開示の準備中、今しばらくお待ちください」との旨の連絡をいただいてから、半月近く経ちました。
おそらく準備に手間がかかるのでしょうから(設計図はあったはずだから、普通はそんなに時間がかかるとは思えないのですが・・・)もう少し待ってみようと考えています。

本当は、今回の「倒壊」事件の検証は、実験当事者ではなく、「第三者委員会」で検討すべきことがらではないか、とも思っています。
なぜなら、実験だからよかったものの、もしも実際の建物であったならば大ごとで、当然、設計者ではない第三者が原因究明にあたるはずだからです。

ところで、「(財)日本住宅・木材センター」のHPから、当該実験についてのニュースが消えたことはすでに触れましたが、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」のHPでも、そのニュース:「実験の案内PDF」:が読めません(それ以外の記事:PDFは、時間が経ったものでも載っています)。
それゆえ、その実験がどんな実験だったかを知るには、「公式」には「(独)防災科学技術研究所」のHPの報道機関向け9月28日付け「案内」だけになりました(ケンプラッツの10月30日記事は見ることができます。4日には最新のコメントも入りました。http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20091030/536517/)。

その一方で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」「(財)日本住宅・木材センター」HPでは、ニュース筆頭に「木造建築のすすめ」「伝統的木造軸組構法実大静加力実験結果速報」の「PDFによる公開」が掲載されています。
まるで、「木造3階建て住宅の震動台実験」が行われ、そして想定外の事態が起きた、ということ自体が、この世になかった、かのようです。

その実験以外の記事の記載は残っているわけですから、人の噂も75日、今は静かに静かに、「噂」が頭上を通り過ぎるのをひたすら待っているのでは、と言うより、そうありたい、という願望が、「歴史的事実」の抹消に走らせたのかもしれない、などと思ったりもします。

しかし、いやしくも専門家・研究者集団です。しかも国費の補助も受けているのですから、そんなことはないと信じて、約束の履行を待っています。


先回、四半世紀前に書いた一文を載せました。
その10年後、1993年に、「《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が『あたりまえ』になるには」という標題で、当時の《木造建築推進》の動きと、それに係わる建築家、専門家・研究者の様態について論評した一文です。やはり「尖がった」文でした。
これは、「建築設計資料 40:木造の教育施設」(1993年 建築資料研究社 刊)に、「筑波第一小学校体育館」(下の写真・図版)を載せていただくにあたって書かせていただいたものです。
今でも通用する話なので、転載します。

これは先回のよりも長く、一回では紹介しきれませんので、数回に分け、また中途を略して載せさせていただきます。


筑波第一小学校体育館 原設計の模型・平面図・断面図(「建築文化」誌1987年5月号より)  
原設計は、小屋(屋根)の架構に「甲州・猿橋」「越中・愛本橋」の工法を援用していた

**********************************************************************************************

  《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには

    ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象を与えたのは、
    ・・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。
    その言葉を生きることは、
    知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、
    ・・・・極めてむずかしいことだろう。
    「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。
    「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。 
          加藤周一「山中人話・スタインバーグは言った・・・より」

最近*、木造の学校建築が増えてきているという(* 1993年当時のこと)。
周知のように、文部省もそれを支援する「通達」を出すまでになっている。
明治以来、第二次大戦敗戦後も含め100年を越える年月をかけて、わが国は《専門家》を中心に、官学あげて《木造からの脱却》に向けて邁進してきたわけであるから、これが本当に方向の転換を意味することであるならば、まことに画期的であり、結構なことと言わねばなるまい。

ところで、私は、最近にわかに活発になってきた木造推進の動きと、各地につくられている木造建築に対して、いくつかの疑問を感じている*(* 1980年代後半~1990年代初め頃の動向)。

一つは、木造を推す理由についてである。

たとえば、昭和60年(1985年)に出された「文部省教育助成局長通達」には、「ゆとりと潤いのある環境の確保」と、《林業振興の一環としての木材需要拡大促進》のため、《柔らかで温かみのある感触を有する》木材を用いて《温かみのある》教育環境をつくることを推奨している。

木造の建物は《暖かで、人間的である》、だから木造を、という趣旨は、木造推進を唱える人たちの口からよく聞く言葉である。

最近のTVでも、東北の村の木造の廃校を借りて夏季市民大学を主宰している高名な文化人類学者が、木は生き物、木材になっても生きている、石や煉瓦に比べ質感が暖かい、だから木造建築は人間的である、木造の学校がよい、と説いていた。

しかし、私は、この論には強い疑問を感じている。あまりにも短絡に過ぎる論理であるからである。

この論理にしたがえば、西欧の石造や煉瓦造の建物は、その無機質の質感ゆえに、すべからく冷たく、非人間的な建物であるということになるだろう。
しかし誰もそうは思うまい。

むしろ、西欧をはじめとする諸国の古来の石造や煉瓦造の建物の方が、最近のギラギラした日本の木造建築よりも数等人間的である。
私も木材という材料は、煉瓦や石などとともに好きであるが、このような・・・・一面的な視点からの木造復権論議は、贔屓の引き倒し、かえって建物をつくることについて、建物と材料の関係について、誤解をひきおこす恐れがあるように思えるのである。

私は、建物を木材でつくれば、あるいは仕上げに木材を使えば、直ちに学校校舎が人間的になる、よい建物になるなどとは、いささかも思っていない。そのような考え方は誤りであるとさえ思っている。
鉄筋コンクリートであれ、鉄骨であれ、はたまた石や煉瓦であれ、その主たる材料が何であれ、よい建物をつくることができる。
現に、人は昔から、その住む地域で最も得やすい材料を使いこなし、自らの住む空間をつくってきた。

材料が木材であるか石であるか、はたまた土そのものであるかは、まさに、その人が住まねばならない地域の特性次第であった。
人びとは、得られる材料で、住める空間=「人間的な」空間に仕上げたのである。
要は、つくりかた、材料の使い方次第なのであり、それに先立つ第一の問題は、『何がよい建物なのか=人が住む空間とはいかなるものか』ということなのである。
最近の木造建築推進論議には、この肝心な点についての論議が抜け落ちている。

もう一つの疑問は次のような点についてである。

すなわち、最近の木造建築が、そのどれもが《木造でつくったこと》を《高らかに》標榜すること、そしてさらに《意欲的》で《斬新な木造》であること、を《追求すること》にのみ神経が払われているように見えることである。

そしてまた、何でもよいから木材を多量に使えば、木造振興⇒木材利用・木材需要の拡大⇒林業振興・地域振興に連なると単純に考えているように見えることである。

私が先年その設計にかかわった「筑波第一小学校*体育館」(* 現在は廃校になり他施設に貸し出されている)・・・・は、(地盤が転石だらけの急斜面であったがゆえに)木造で設計することにしたのであり、「木造を見せる」ことや「構築法を見せる」ことはその第一の目的にはなく、もちろん《斬新》であることも念頭になかった・・・・。
しかし、残念ながら、・・・・訪れる見学者の多くは、木造の特殊な構築法と誤解し、骨組みを見上げるばかりで、「体育館」は見てゆかないようだ。

この体育館を木造で設計することにしたとき、私は、在来* の普通の技法の応用でつくれることを念頭においていた(* 語彙の本来の意味。在来工法の意味ではない)。特殊な技術・工法を採ることは考えなかった。
特殊な技量や技術をもつ人だけがつくれる構築法ではなく、誰にもあたりまえにできる方法でつくろうとしたのである。
木材も多量に使っているように見えるが、特に多いわけではなく標準的な量である。

最近*、かつて林業で生きていた町村が、その林業再建振興策の一環として、公共施設を木造でつくることが流行している(* 1993年当時のこと)。・・・・話題に(なっている)例を見ると、その多くは特殊な工法:たとえば木材をボールジョイントを用いて接続する工法など:を前提とした設計である。
ある事例の設計者によれば、「《ほぞや継手のような目を見張る名人芸》によって組み立てられるかつての木造工法を復活普及させるのは、職人がほとんど姿を消してしまった現在、不可能である」から、ボルトナット工法も積極的に受け入れるのがこれからの新しい方向である、という*(* 現在でもこう考える方々が多い)。

この工法の場合、たしかに木材の継手に、かつての工法を必要としないが、その一方で、ボールジョイントの製作を必要とする。しかし、この部材は、町の金物屋で容易に手に入るものではなく、町の鉄工所で簡単につくれるものでもない。いわば特注品であり、製作所も限定され、作業にも特殊な技術を必要とするから、町の職人・技術者に普通に扱えるとは限らない。
それゆえ、施工は町の業者(ではなく)大きな企業に発注することになる。つまり、町の支出する費用は、町の外へ持ち出され、町の経済的振興にはならないことになる。
したがって、こういうやりかたが《あたりまえ》である限り、林業の町のシンボルとして木造の建物が華やかに誕生しても、木造普及の波及効果はまったく期待できないだろう。木造は面倒だと思われるだけである。

たしかに、町や村に職人・技術者は少なくなった。しかし、木材をいかに大量に使っても、これ以上さらに彼らにできる仕事を減らして、何がいったい地域振興なのか。それは彼らの「切り捨て」である。
切り捨てることが本当に「必然」なのか。彼らを切り捨てる権利が《建築家*》にあるのか。
《建築家*》のこういう単純で底の浅い《合理化思想》は、払拭しなければなるまい。
なぜ「職人・技術者」が少なくなったのか、その根本的な理由を、《建築家*》はいま、率先して考えてみる必要がある(* この《建築家》は、建築にかかわる人たち、という広義の意味である)。

・・・・・中略・・・・・

最近の《建築家》は《斬新》であることを非常に好む。《新しい》という言葉にとりわけ弱い人種である。おそらくそれは、自らの《独自性》、いわゆる《アイデンティティ》の表出が、《新しい》《斬新》であることによってのみ可能なのだ、と信じているからだろう。

しかし、「新しい、斬新な創造」とはいったいどういうことなのだろうか。
あるノーベル物理学賞受賞者は、「豊かな創造」は「過去のしがらみにとらわれない」ことにより生まれると語ったという。
しかし、この言葉が、過去との訣別、過去を忘れることだと理解されたなら、発言者の真意にもとるだろう。それは大きな誤解だからである。
われわれは、いったん出来上った一つの結果=形・形式にとらわれやすいという性向がある。それにしたがっていると無難に思える。
そのとき、いったいそれがなにゆえの結果=形・形式であったかが忘れられる。
そうなれば、それから先、そこに何の進展もないのは明らかである。

「過去のしがらみにとらわれない」という言葉の真意は、ものごとを根本的に、根源的に*考えろ、ということであって、過去を忘れろということではない(* 英語の radical は、根源的な、という意味で、根源的に考えるとその時代の「普通の考え方」に比べ「過激に見える」ため、「過激な」と訳される)。

同様に、「新しい」「斬新」ということは、決して、過去との訣別、過去を忘れることではない。
しかしながら、過去を全否定し、というより、過去の蓄積についてまったく知らず、知ろうともせず、一見《目新しい》こと、いままでにないことを行うのが創造であると誤解されがちだ。

かのノーベル賞受賞者は、物理学の過去の蓄積について十分に知った上で、事象の解釈の理論を「新たに」構築しなおしたのである。

それに対して、過去について十分に知らず、知ろうともせず、適当に、恣意的な(ほとんど思い込みに近い)理由を付け、《目新しい》ことに突っ走るのが《新しい》と思い込んでいる、それが現代の建築の《専門家》である。

鎌倉時代、東大寺の勧進であった重源(ちょうげん)は、「新しい」構築法により東大寺の再建を行なった。いわゆる「大仏様(だいぶつよう)」といわれる貫を多用する、前代までの工法に比べ、まさに「革新的」な技法である。
これは、当時の中国・宋の技法の導入といわれ、重源の元には宋の技術者もいたようであるが、調べてみると、宋の方式を丸のまま移入したわけではないようである。

彼らは、わが国において前代までに到達していた技法にも精通しており、当然、平安末期には技術が停滞し、形式化・様式化していたことも十分に知っていた。
それゆえにこそ「過去のしがらみ」=「形式・様式」からの脱却、技術の根本的な見直し、建物をつくることと技術の関係についての根本的な見直し、真の意味での合理化を彼らは行ない得たのである。
それは決して過去の技術や職人との訣別を意味するものではなく、もちろん切り捨てでもない。むしろ、その延長上の革新であった。だからこそ「革新的」なのである。
もちろん、《時代》を表現しよう、《目新しさ》を示そう、などということは彼らの念頭にはなかった。彼らの目的は、唯一、それまでに蓄積されてきた技術を真に合理的に駆使して、東大寺を再興することであった。

ところで、先のボールジョイントを多用した事例の設計者は、重源を引き合いに出し「・・・・コンクリートと木造の混成、大架構立体トラス、バットレスの採用など、かつて鎌倉時代の初期に重源が東大寺の建立に際して創出した唐様(からよう)の現代版と自負していいのではないかと考えている。唐様によって、和様のスケールをはるかに越す巨大建築を可能にしたようにである。しかも文化的にもまったく新しい形を世に示すことでもあって、あの時代の革新、公家から武家社会への転換を見事に表徴したようにである。・・・・(原文のまま)」と記している。

おそらく、比べられた重源がこれを知ったら、驚き、呆れることは間違いない。
重源の仕事のなかみはもとより、日本の歴史、文化や建築の流れについての理解が、あまりにも浅薄すぎる。手前みそすぎる。
「歴史」が形式的にしか見えておらず、むしろこれは、最近の《建築家》の多くに見られる恣意的な思い込みをまさに《表徴》する文章といってよい。

[長くて、お疲れ様でした。以下は次回です]

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「グスコンブドリの伝記」から

2009-11-16 10:18:40 | 専門家のありよう

宮澤賢治の作品に昭和7年(1932年)に発表された「グスコーブドリの伝記」という「童話」があります。
その一節に次のような箇所があります。特に赤枠内に注目。
 
   
   「宮澤賢治全集 第十一巻」(筑摩書房)より

宮沢賢治は一つの作品を仕上げるまでに、何度も手を入れることで有名で、発表してからさえも推敲しています。
この「グスコーブドリの伝記」も、いわばその原型を示す「グスコンブドリの伝記」がその数年前に書かれています。

「グスコンブドリの伝記」では、先の一節部分は次のようになっています。
この二つを比べて大きく変っているのは、赤枠で囲ったところです。

   
   「宮澤賢治全集 第十巻」(筑摩書房)より

私が知っていたのは「グスコー・・・」の方でしたから、「グスコン・・・」を読んだときは、特に赤枠内には、正直、「すごいこと書いてある」と驚いたものです。特に、おしまいの発言。
おそらく彼の「体験」がこの文言を書かせたに違いありません。

世に公刊するにあたっては、きわめて温和な表現に変えたのは何故なのか知りたくなりますが、そのあたりについては、全集の「校異」だけからは浮き上がってきません。

赤枠内のおしまいのあたりを書き写し、段落を読みやすくすると、次のようになります(仮名は旧のまま)。

   「・・・私はもう火山の仕事は四十年もして居りまして
   まあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますが
   いつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになると
   そんなはきはきと云へないのです。
   そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、
   あなたは命をかけて、
   わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのために
   はたらくものなのです。」

私が「グスコン・・・」の方を初めて読んだのは、10年以上前のことですが、そのとき思わず「イーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて」いる学者に、現在の「学識経験者」の姿を重ねてしまっていました。「わたくしは命が大事」なのです。

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雑感・・・・落とし穴

2009-08-17 03:43:05 | 専門家のありよう

残暑お見舞い申し上げます。
近在の蓮田では、いまごろが花の咲くころ。

8月になると、毎年TVやラヂオはドキュメンタリーをはじめ、多くの特別番組が組まれる。今年は例年になく濃い内容のものが多かったように思う。
その中でも、「人間魚雷・回天」と「セミパラチンスク核実験場」についてのドキュメンタリーは深く考えさせられた。そこに関わった人々に、共通の「思考」が見て取れたからである。
それは、視野が狭まったときに、ややもすると陥る「思考」、「目的」追求のためには「手段」を選ばなくなる「思考」である。

すべての人がこの「思考」に陥るわけではない。
自らを「選民」「選良」と思い込んだ人ほど陥りやすいようだ。そのとき、その他大勢は、彼らの目には、単なる「もの」、あるいは意のままに動く「ロボット」としてしか見えなくなる。

「回天」には、こういう「非正常」なアイディアをあたりまえのように発想し、設計を指示した人びとと、設計した人びとがいる。そして、つくられた「回天」への「乗務」を命じた人と、命じられた人。

「セミパラチンスク核実験場」は、当時のソビエト・ロシアの中枢の人びとが計画した「核爆弾」開発のための実験場。
現在のカザフスタンの草原地帯の広大な土地を使った。
もちろん無人の地ではなく、計画された草原地域の境界沿いには、近接していくつかの村落があった。その草原地帯で牧畜を営んで暮す人たちである。

1940年代に、ここを実験場として選定した人たちは、実験場として「こんなによいところはなかった」と言う。発言の主は、一流の科学者。村落のあること、そこに多くの人びとが暮していることを知った上での発言。大した影響はない、というのである。
これは、原発立地、廃棄物処理施設立地に際して、今でも言われる言葉と同じ、「為にする言」であることは言うまでもない。

「セミパラチンスク核実験場」周辺の村人たちには、何が行なわれるのかは説明がなかった。そして、今から18年前まで、数十回にわたる核実験(地下実験も含む)が行なわれ、村人たちの飲料水である地下水も、当然放射能を浴びた。
放射能を浴び続ける人びとには、特有の障害が発生した。白血病や癌の多発である。
しかし、実験当事者(国)ならびに科学者は、実験との因果関係をなかなか認めない。

原発立地、廃棄物処理施設立地にからんでの「大した影響はない」という明確な根拠の開示のない発言同様、科学者による非科学的なご都合主義。得てして科学者や技術者が陥る性癖。判断の根拠が、「功利性」に委ねられてしまう。それは、自らの「保身」のための結論としか考えられない。功利性が、科学性よりも優位に立つのである。
しかし、村人たちには、代々に引継がれる障害の多発。いまでも続いている。

これに比べると、「回天」の設計は、もっと「単純な思考」の結果だ。
しかしそれを、戦時中という異常な事態での思考と見たら間違いだ。
なぜなら、現在の選良・選民たちの思考も、「回天」の発想者、製造指示者、設計者と何ら変っていないからだ。
建築界はその典型。すべての人びとの思考を停止させ、一律の方向にもってゆこう、という動向を「法令」によって行なうのは、「立法府」を経由した民主主義的形体を採っているかのようでいて、実は、「回天」を生んだ思考と何ら変っていない。あるいは、むしろ、より「巧妙」になった「操作」と言ってよいだろう。
そして、その「判断」が予期せぬ結果を生んでも、言を左右にして責任は認めない。

民主主義といえば、どう考えても「非正常」としか思えない「動き」もあった。
例の「派遣」の業態を規制する法改正の気配に対して、「改正反対」を唱える署名運動。派遣規制は雇用の機会を少なくしてしまうから、というのがその「論拠」。
人を「もの」扱いにしておきながら、数の多少をもってコトを決めようというたくらみ。「民主主義」を「多数決主義」と「誤解」した行動である。

そんな中で「救われた」のは、ある空調機メーカーの行動を報じたドキュメント。その会社は、その分野ではぬきんでている有名な会社。
そこでは、ある時代の社長が、いわゆるリストラ、すなわち不況の際でも、就労者の首切りは一切行なわない主義を唱え、以降その方針を貫いてきているのだという。今回の「不況」でも同じ。
理由はきわめて簡単だった。不況だからといって就労者の首を切れば、「技術」の継承に断絶が生じてしまう、という理由。
以来、「技術」にとって、蓄積と継承が重要だ、という認識が、会社首脳はもちろん、就労者すべてにとっての「常識」になった。

あたりまえのことが、稀有のことに見えてしまう変な時代!

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余談・・・・「来賓」

2009-07-28 10:17:52 | 専門家のありよう

私も会員になっている「団体」(社団法人)は二つあるが、その「総会」にはかならず県知事、国会議員、県会議員が来賓として呼ばれる。ただ、国会議員、県会議員はあくまでも自民党所属議員。
県議会では自民党議員が絶対多数を、国会議員も小選挙区の大半が自民党、という「お国柄」の地域。
けれども、はじめて会合にでたとき、私の目には、きわめて奇異に映った。
もしも、この「お国柄」に反する事態になったらどうするのだろう?

両団体の広報誌の題字は、県知事揮毫のもの。以前は普通の活字体だったのだが、これも、そのように変ったとき私の目には、奇異・異常に映った。
知事が変るたびに、変るのだろうか。題字の件を進めたのは、そのときの会長、同じ人物。典型的に「利系」の人。
もちろん、私だけではなく、一般の会員の多くは、不愉快に思っている。

最近になって、「お国柄」の「維持」が怪しくなってきた。
それに加えて、県議会の多数派を占める自民党県議と知事の間も怪しくなってきた。
県議たちが新しい知事候補(元、国土交通省事務次官!)を立てたのに対して、現知事も立候補するというのである。

さて、両団体は、どうするのか、私は冷ややかな目で、推移を見守っている。
少しは正気に戻るだろうか?


上の写真は、今朝、晴れ間をみて撮ってきた日ごとに大きくなっている栗の実。
当地は、栗の産地。長野の小布施(おぶせ)の栗も有名だが、聞いたところによると、当地産が、かなり小布施に「輸出」されているとのこと。地元の栗を扱うお菓子屋さんの店先に、小布施の菓子があるのを訝ってきいたところ、そういう返事。


先の「木造住宅読本」の件、原稿は9ブロックに分けて記録保存してあるため、1ブロック25Mを越えるのもあります。
資料送付のご依頼が数件ありましたが、許容容量20Mの方のところに試みに送ってみましたが、ダメでした。
そのような場合、差し支えなければ住所・電話番号をお教えいただければ、MOに記録して、「着払い宅急便」にてお送りします(私はMOの愛用者!)。
よろしくご検討ください。

コメントではなく、下記へ直接連絡いただいても結構です。
tsukuba-ars@titan.ocn.ne.jp

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閑話・・・・「建築が社会にできること」?

2009-03-07 11:46:19 | 専門家のありよう

過日、標記のタイトル(「 」内)の講演会の案内があった。

このタイトルを目にした瞬間、私には、どうしようもない違和感が生じた。

そしてしばらくして、もしかしたら、違和感を感じるのは私だけ、あるいは私の世代だけかもしれない、今の人たちは、違和感を感じないにちがいない、と思うようになった。なぜなら、こういうタイトルの講演会を企画しているのだから・・・。
このブログをお読みいただいている方の中にも、もしかしたら特に何とも思わない、という方もおられるだろう。

このタイトルは、講演者自ら立てたものらしい。
であるならば、こういうタイトルを立てる以上、講演者には、「建築」というのは「社会」とは無関係、独立の事象である、という「認識」があるにちがいない。
では、「建築の拠って立つ『存在理由』」は何なのだろう?
「社会」とは独立の「存在理由」を考えていなければ、「建築が社会にできること」という文言は出てこないはずだ。

講演者はまだ30代、最近「売れっ子」なのだそうである。私に案内パンフを配ってくれたのは40代の方。別にこのタイトルを訝る気配もない。まわりには同じく同世代の方が数人。これも同様。

そして更に思った。
都会を墓標だらけのような風景に変えてしまったのは、このタイトルをあたりまえと考える、あるいは、違和感を感じない「建築」家の仕業なのだ、と。

外は降り続いた雨も上がり、初春の空。雲の流れがすばらしい。

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雑感・・・・「かぶれ」

2009-01-31 07:00:00 | 専門家のありよう
私は読んだことはないし、その気もないのだが、最近、中谷巌氏の「資本主義はなぜ自壊したか」という書物が売れているのだそうである。
氏は「グローバル資本主義」「市場原理主義」・・・といったアメリカ式の「思想」をひっさげてときの政府にかかえられ「構造改革」路線へわが国を推し進めた張本人を自認する経済学者である。かの竹中平蔵氏は、その継承者。
今になって、それが誤りだった、と気付いての「懺悔の書」だとのこと。

それはそれとして、29日のNHKのニュースの本人とのインタビューのなかで彼が語った言葉が気になった。
正確ではないが、「経済が、その国の文化、歴史、社会・・と関係深いものであることを忘れていた・・」「経済は人を幸せにするものでなければならない、ということに気がついた・・」との旨の言葉。

私は思わず「えっ」と思った。そうだったんだ!
別に経済でなくてもいい。なにごとによらず、そんなことは「いろはのいの字」ではないか、いい年をして何を言ってるんだ!それで学者だというのか?いや、だから学者でいられたんだ!日本はきっとそういう国なのだ!!
漢語の「経済」の出所を考えて欲しい。そして、eco‐nomy と eco-logy の eco についても・・・。考えたことがあったなら、そんな「思想」に囚われることもなかったろうに・・。

しかし、ふと気がついた。これが「いろはのいの字」と思うのは今の世では変人奇人なのかもしれない(中谷氏や竹中平蔵氏に従った小泉純一郎氏は、変人奇人どころか、いまの世の中のごく「普通」の人)。
なぜならそれは、学校の教科で、「歴史」がいい加減に扱われていることに現われている。知らなかったのだが、高校では(だったと思うが)、「世界史」か「日本史」のどちらかを選択すればいいのだそうである。それでいて「国際化」・・が平然と語られる。

「国際化」とは、「米語」を習えば済むらしい。そしてそこでさらに気がついた。かつて明治の「近代化」推進の際、西欧:英・仏・独に倣うべく努めたが、いまは米国に倣うのが「最先端」なのだ。英語(米語)を小学校の教科にしよう、などということの「理由」も分るというもの。

明治の「先進者」は、西欧に留学することを、世間の普通の人から「西洋かぶれ」と言われようが、勲章のように大事にし、願望した。
戦後、それにかわって「アメリカかぶれ」が流行った。「先進諸国」への留学はあいかわらず一部の人たちには勲章らしい。それでいて日本は先進国なんだそうだ。
中谷氏も、インタビューのなかで、アメリカが憧れだったと語っている。そういえば、竹中氏もアメリカ留学者。

私などは、そんなに憧れて、いいところなら、定住すればいいのに、と思ってしまう。アメリカは、「移民」を受けいれてくれるではないか。
だが、そうはしないらしい。「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する。
おそらく、向うには見合う職がなかったのだろう(向うに引き留められている、あるいは日本から引張られる本当の日本人学者が、たくさんいるではないか・・)。

それとも「母国」日本が好きだったからなのだろうか。
そんなことはない。自国の歴史、文化、社会・・について知らない、と言うのだから。それゆえに、「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する・・・。

それにしても、政治家を操って、いまの状況をつくってしまったことの責任はどのようにとるのだろうか。「懺悔の書」を著して売れればいいのだろうか。

実は、29日のニュースでもう一つ気になったのは、中谷氏の「転向」:アメリカ式「思想」からの撤退を、企業の中堅の若い世代の人たちの多くが批判していることだった。
市場原理主義で、日本は(企業は、なんだろうが)成長した、というのである。
例の、「できる人」が上に上がれば上がるほど、全体が底上げされる、という安直な「論理」?である。
これにも「えっ」と思ってしまった。「選民意識」がギラギラしていて、気分が悪かった。住む世界が違うらしい。

やはり、かつての「近江商人」はすぐれていた。彼らの多くは「経世済民」の意味を分っていた。「商売」「商い」の意味が分っていた。そして、「儲ける」ことの意味も分っていた。

   註 私は、終戦時にその人が何歳であったかが、
      その人の「考え方」に大きな影響を与えている、と
      勝手に思っている。
      中谷氏は1942年生まれ、ものごころついたころから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      竹中平蔵氏は1951年生まれ。生まれたときから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      きっと、相対的にものを見ること、観ることを
      学ばなかったに違いない。
      言うならばアメリカ絶対主義。

      これが1960年代以降生まれになると少し変ってくるのだが、
      しかし、TVで市場原理主義を是としていたのはこの世代。
      誰かに何か「洗脳」されているように、私には思えた。
      「氏より育ち」とは、よく言ったものだ、と思う。

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怪談・・・・「あこぎな」話

2008-03-11 03:31:08 | 専門家のありよう
[註解追加:9.57]

先般、人から聞いた話。

山に囲まれたある県。山の辺の村々では、いわゆる「限界集落」化が、静かにしかし確実に進んでいるという。

そこに目をつけた自称《コンサルタント》が、これも自称《建築士・建築家》ともども、「限界集落に暮す人びと」を一箇所に移住させ、空き家となった家々を、田舎暮らしが願望の都会の人びとに貸し出す、あるいは売りに出す、という《提案》を行政に持ちかけた(あるいは、持ちかけている)と言う話。
村の人口が増え、限界集落ではなくなるではないか、という《限界集落再開発計画》案なのだそうだ。そして、なによりも、自分たちの《仕事》も増える!

ところが、そんなに簡単にコトは運ばない。なぜか。
「限界集落に暮す人びと」はモノではないからだ。
《コンサルタント》《建築士・建築家》は、そのことを忘れていたのだ。いやしかし、本人たちは「忘れている」のではない。彼らはそこに暮している人たちを「無視している」のだ。彼らは、金儲けの仕掛け話に目がくらんでいるにすぎない。

限界集落、それは第三者の呼び方。
そこで暮す人にとっては、まさにふるさと・故郷。長年にわたって「つくりだしてきた」場所。
そこを捨てて簡単に移住できると考えるのは、都会暮らしに慣れて、「土地」とは無関係に暮している流浪の民。
山の辺の民は、足元の土地を耕して暮しているのだ。
だから、そこを離れて移住しろなどというのは、とんでもないこと。自分はそこで一生を終えたい。それで、村から人がいなくなったとしても、それは自然の成り行きというもの。

限界集落になり、そして村が消失して、本当に困るのは誰だ?
農村が疲弊して、農家がなくなって、本当に困るのは誰だ?
そして、そんな状況にしてしまったのは、いったい誰だ?

そしてそれを金儲けのネタにしようという「あこぎな」人たち。

ひるがえって、地震にかこつけての「耐震診断」「耐震補強」の「奨め」も、考えてみれば「あこぎな」やり方ではあるまいか。
まして、1981年:昭和56年前の旧耐震基準の建物は、診断、補強が必要、などと人ごとのように言う行政の態度を「あこぎ」と言わずして何と言うべきか。

旧耐震基準なるものの策定にかかわった人びと(調べれば直ちに分るはず)、その《普及》につとめた行政関係の人びと、特に大元の国の行政機関の人びと(これらも分るはず)が、率先してその責任を負ってよいはずではないか。

国の《指導》に従っただけの民が、診断・補強に費用を出すのは不条理。まして税金で補助するなどもってのほか。

しかし、彼らはその不条理に気付かない。それどころか、震災の恐怖をあおって脅迫を加えている。こんな「あこぎな」話はないだろう。

それにしても、なんという専横な行政・政治の横行。江戸時代は民が圧政の下にあったと言われるが、それは明治政府のタメにする作り話が大半。
江戸時代、民はもっと大事にされていた。民がいなければ、幕府も成り立たないことを、重々承知していたからだ。
それにひきかえ、いまは民主的な装いの下、民は押しつぶされる。
そして、それによりかかり、悪乗りをして、金儲けをたくらむコンサルや建築士たち・・・。何という構図だ!

ところで、
4月1日(火)19.15~ 文京シビックホール小ホールで、
『改正建築基準法はいりません!』というシンポジウムが開かれるとのこと。
「建築ジャーナル」誌主催、参加費一般2000円。
  申込は FAX 03-3861-8205まで。
  問合せ先:03-3861-8104(中村さん)。

   註 「あこぎ」とは、元は地名だという(三重県の「阿漕の浦」)。

      「広辞苑」によると
      「逢ふことを阿漕の島に引く鯛のたびかさならば人も知りなむ」
      の歌から、
      ①たびかさなること
      ②転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。

      「新明解国語辞典」では
      非常にずうずうしいやり方で、ぼろいもうけをねらう様子。
     

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20年前に考えていたこと・・・・何か変わったか?

2007-08-28 20:01:52 | 専門家のありよう
 眞島健三郎氏の論説は、約80年前の建築界の状況を教えてくれる。
 そこで、今回は、20年前に書いた文章を載せることにした(「新建築」1987年6月号)。 文字が小さいので、拡大してお読みください。

 80年前に比べて、建築界は、少しは変ったのだろうか、それを知ってもらいたいと考えたからだ。
 実は、何も変っていない。あいかわらずご都合主義が蔓延し、むしろ退行現象が進んでいると言ってよいのではないか。その一端を知っていただければ幸い。

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小坂鉱山―補足

2007-03-13 00:49:50 | 専門家のありよう

 20年ほど前、小坂鉱山のいわれを調べたことがある。東北一帯を歩いていて、何かを秘めているように感じたからである。
 調べてゆくにつれて次々に分かってくることは、まさに驚嘆の一語に尽きた。何でも自分たちでやってしまう、「専門」などないのである。しかも手抜きなし。 

 そのとき撮った写真の一部と、町史からの写真を紹介する。他にも紹介したいものは多々あるが(地元の大工さんが、多分、見よう見まねで格闘したトラスなど・・)・・。

 現在、小阪鉱山:同和鉱業は、鉱業から撤退し、IT機器廃棄物からレアメタルを抽出・精錬する事業に転換したと聞いている。

 なお、この調査結果は、和泉恭子氏(写真撮影者)が修士論文「産業の振興と地域の発展」(筑波大学)としてまとめている。諸データは同論文によるところが多い。彼女は、日本有数の女性パラグライダー選手でもあったが、論文をまとめた10年後の1998年、不慮の落下事故で急逝した。 

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「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

2007-03-11 20:15:59 | 専門家のありよう
 「水俣病」の認定問題が、最近話題になっている。国が決めた「認定基準」の是非が争点のようだ。

 水俣病は化学工場の惹き起こしたいわゆる「公害」だが、日本で最初の「公害」は、「足尾鉱山(銅山)」の鉱毒垂れ流し問題とされ、その追求に一生をかけた田中正造の名を、いまや知らぬ者はないだろう。

 足尾銅山は江戸時代から本格的に稼動した鉱山である。明治10年:1877年、古河市兵衛が経営権を取得、新鉱脈の発見とともに産出量が増大、精錬所も設けられ、経営が軌道にのる。精錬によって大量の廃液が出るが、その放流が渡良瀬川を汚染、いわゆる鉱毒問題を起しだす。最初に鉱毒による田畑の被害が生じたのは、明治23年:1890年という。
 この鉱毒問題についての地元農民とそれを支援する田中正造の再三にわたる要求にもかかわらず、古河の改善は遅々として進まず、政府も適切な手を打たず、業を煮やした田中が明治34年:1901年、「直訴」の行動に出たことは、いまや知らぬ者はないだろう(1897年:明治30年、政府は浄水場の設置を命じているが、その後に被害が発生していることから、対策は十分ではなかったと思われる)。

 そしておそらく、大方の人は、鉱毒・鉱害は技術的に除去の難しい問題である、あるいは、除去に莫大な費用を要するものである、田中の直訴がなければ、本格的な対応・対策は進まなかった:できなかった、かのように思っているのではなかろうか。

 けれども、そうではない。
 実は、田中正造が直訴に及んだまったく同じ明治34年:1901年、「足尾銅山」に比肩する秋田の「小坂鉱山(銅山)」では、「鉱毒濾過装置」が完成、供用を開始しているのである(小坂川、その下流の米代川流域では、現在まで、鉱害被害が発生したという記録はない)。
 またそのころ小坂では、すでに、精錬にともなう「煙害」対策として、植林等の事業も着々と進行していた。植林の樹種の選定も研究され、そこで選ばれたアカシヤは今では小坂のシンボルにもなり、アカシヤ蜂蜜は特産品になっている。足尾と小坂の周辺の山々の緑の復原状況も異なることは一見しても分かる。

 つまり、「公害」として騒がれる以前、田中正造の出現する以前に、「小坂鉱山」では、鉱害や煙害という鉱山・精錬所でかならず起きる問題に対して措置が講じられていたのである。今流に言えば、「小坂鉱山」は「公害対策先進企業」だったことになる。
 けれども、小坂鉱山の経営者たちは、そのような呼ばれ方、扱われ方を拒否したにちがいない。
 なぜなら、彼らにとって、「鉱毒濾過装置」の設置などは、「先進」でも何でもなく、「鉱山を経営するにあたって当然考えなければならない一工程」に過ぎなかったからである。
 そして、現在のように、情報が容易に得られる時代であったならば、小坂で行われていることは、速やかに足尾にも、そして、ときの政府にも伝わり、解決も素早く進んだにちがいない。

 では、小坂鉱山を経営していたのは、いったいどんな人たちだったのか。
  
 京都・南禅寺の境内の南端に煉瓦造のアーチ橋がある。琵琶湖から水を引く「疎水」のための水道橋である。島根県の石見銀山には、明治中期につくられた銀の精錬所の跡が残っている。建物はすでにないが、急な山肌に高低差およそ25mにわたり9段の石垣が残っている(城郭の石垣の技術が使われたのではないだろうか)。この二つの遺構は、当時大阪に本拠をおいていた「藤田組」が建設にかかわっている。
 そして、「小坂鉱山」もこの「藤田組」の経営だったのである(この名の会社は現存しない。あえて言えば現在の「同和鉱業」の前身にあたる)。
 明治政府は、近代化のため、当初は基幹産業を直轄で経営していたが、経営に行き詰まり、民間に払い下げるようになるが、「小坂鉱山」も、明治17年:1884年、石見銀山の実績を買われ、藤田組に任される。

 藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した会社だったが、小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出たため姓が異なる)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛をきわめる。
 しかし、銀鉱石の枯渇とともに急激に業績は悪化、ついに閉山に追い込まれる。その閉山手続きのために、庄三郎の子、28歳の久原房之助が小坂へ派遣される。ところが彼は(本人は技術者ではない)、現地に常駐すると、閉山業務ではなく、石見銀山から武田恭作を技師長に迎え、地元小坂出身の米沢萬陸、青山隆太郎、大学出たての竹内維彦らに銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたのである。
 この熱意が実を結び、明治33年:1900年精錬所が着工し、1902年稼動を開始する。その前年の1901年、つまり、本格的な銅の精錬を始める前に、先に触れた「鉱毒濾過装置」が建設されていたのである。

 このこと、つまり「後になってつくった」のではなく、「あらかじめつくった」、という点に着目したい。これが、この装置を、彼らが銅の精錬の一工程として考えていた明らかな証なのである。
 これに対して、足尾では、先ず成果物、つまり銅の生産量を確保することを優先したのである。言ってみれば、まさに《近代的経営》を行っていたのだ。

 これらの努力の結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山としての地位を得ることになる。
 小坂は、今でこそ東北道が通過し、交通便利な場所になったが、明治の頃はまさに東北の山間の僻地と言って過言でなかった。
 久原房之助率いる先の技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な水や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、・・・こういったありとあらゆることをすべて彼らだけで成し遂げてしまった。
 働く人びとの生活基盤として、住宅を整え(炭鉱の住宅などとは比較にならない質の良い住宅でペチカなどもある)、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくる・・という計画を立て、実現に向け動き出す。
 これらの整備を、あくまでも、鉱山経営の一環として行ったのである。その際、必要な資材、機材(煉瓦、鋳鉄、はては発電機・・)は一部に輸入品もあるが、ほとんど現地生産を行っている。

 このような経営は、現在なら、採算を考えない非合理的な経営として批判され、また病院や劇場をつくることは、企業の利益の「社会還元」としてもてはやされることだろう。しかし、彼らは、この指摘をともに否定するだろう。
 実際、明治末年頃になると、「資本主義」の定着につれ、久原以下のこのような経営は疎んじられるようになり、藤田組本体の経営にも変化が表われる。「生産第一主義」が浸透し、久原たちの経営は「非近代的」と見なされ始めた。

 久原房之助は、いち早くこの「変動」を察知、明治38年:1905年、小阪に見切りをつけ、茨城県・日立で新たな鉱山経営をすべく、小坂を去る。
 久原とともに歩んできた技術者集団も(40名を超えたという)、彼に続き続々と小坂を去り、日立へ移る。そして、竹内維彦は日立鉱山営む日本鉱業の社長、小平浪平は日立製作所を、米沢萬陸は日立鉱山所長に、青山隆太郎は同精錬課長に・・といった具合に、日立で活躍する。実は、これが後の「日立製作所」の発祥に連なるのである。

 一部が折損した有名な日立の大煙突は、煙害防止策の一環で、小坂にも煉瓦造の大煙突があった(現存しない)。日立市の武道館になっている「共楽館」(1917年建設)は、元は働く人たちのための劇場であった。病院も整備された・・。しかし、これらはすべて、すでに小坂で構想済みのものを、日立で実施に移したものなのである。
 小坂には、明治43年:1910年に建てられた「康楽館」という木造擬洋風の劇場が現在も保存・活用され(重要文化財に指定)、1908年には当時東北一と言われた木造の総合病院も建設されている(1949年焼失)。

 つまり、同じ「近代化」でも、経営者・関係者の思想一つで、大きく結果が分かれてしまう、という事実を、足尾と小坂は如実に示している。古河が《近代的》経営者だとすると、多分、久原は旧弊な経営者と見なされたにちがいない。久原には、まだ江戸期の人たち、特に「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」の心意気が残っていたのではなかろうか。 

  註 地方巧者については別途紹介予定。⇒下記[註記追加:2010年5月9日]
    地方巧者・・・・「経済」の原義
     

 所詮、技術を含め、すべてはかかわる人間の器量次第なのである。 

 久原は、後に、政商と言われるようになるが、小坂での彼の仕事はあまり知られていない。
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勝手のし放題・・・・最近の建物の外観・形状

2007-03-09 12:03:08 | 専門家のありよう
 一昨日、本当に久しぶりに東京へ出た。今年になって初めて・・。
 かつての「仲間」が30数年ぶりに会う会合。浦島太郎だ、などと言いながら集まった。
 しかし、東京の街並み、家並み、というよりビル並みの方が浦島太郎だった。久しぶりの街の風景に、目を白黒するばかり。僅かな間に、乱雑さが激しくなっていた。と言うより、設計者が、ますます勝手をし放題になっているように思えた。

 何よりも不快だったのは、外面にネットやフィルムを張ったような装いの建物、意味不明な曲面のガラス面を差しかけた建物の多さだ。
 つくば市のある大学にも、都会の流行に負けじとつくったのではないかと思われる建物が最近建ったが、ほぼ全面、真っ向から西日を受けるつくりで、その面全体に「ネット」が張られている。どうやらそれが「デザイン」の目玉らしい。というのも、そのほかの面は、どう見ても、気配りが感じられないからだ。このネットは、西日よけのためらしい。しかし、何も西日に面するようにしか建てられない敷地ではない。そんなことをしなくても十分西日を避けて建てられる。とすると、この設計者の目的は「ネットを張ってみたい」ということにあったことになる。

 農村には、防風ネット、防鳥ネット、遮光ネット、遮光フィルム、マルチ用フィルム、シート・・など、各種各様そして色とりどりのネットやフィルムそしてシート類がある。農業者は、それらを「用」に「応じて」使い分ける。その使い分けの根拠は、農業の必然だ。風当たりが強い畑には防風ネット、しかも風の強さに応じて網目を選ぶ。鳥には防鳥ネット、これも鳥に合わせる・・・。どうしてもこれを使いたい、使ってみたい、というような選択は、無意味だから、しない。だから、それらが用いられた田園を見ると、地勢や何をつくっているのか、おおよその見当がつく。

 ところで、ある土地・場所に建物をつくるということは、その「ある土地」の「既存の環境を改変する」ことだ。そして、既存の環境の改変は、単に物理的な環境のみならず、その場所に暮す人びとの暮しそのものの改変でもある。
 かつて、人びとは、このような改変を行おうとするとき、その土地に宿る神に、改変の許しを請うた(日本では、すべてのものに神の存在を見た)。それは、その土地は、あくまでも神のものであって、自分たち個々人のものではない、使わせていただくのだ、という認識だ。そして、そのために営まれたのが「地鎮祭」であった。無断借用・使用、妥当ではない使用は神の怒りに触れる、それが転じて現今の工事の無事祈願の儀式となったのだ。
 かつては、たとえ一個人のものであっても、建物づくりは、そこの既存の環境を見据えた、言い換えれば、そこに暮す人びとを見据えたものに自ずとなっていたのである。だからこそかつての街並みは暮しやすいのであり、日照権騒動などが起きるわけがないのである。つまり、「個」のものでありながら、「公」のものに自ずとなっていたのだ。

 しかしながら、その意味が分からない装いを持つ建物の、そうなる必然・理由は、私には、設計者の《造形意欲》あるいは《差別化願望》にしか求めようがない。建物づくりとは、そういうことだったのだろうか。
 私のような浦島太郎には、それはまちがいとしか映らない。もしも、どうしても自らの《造形意欲》を示し、《差別化》を表してみたいなら、自らの金で、普通の人の目に触れないところで(普通の人に迷惑をかけないところで)やってくれ!、同好の士の間だけでやってくれ!と言いたくなる。
 
 昨年12月8日、ベルラーヘの言動を紹介した。彼は19世紀末のヨーロッパの建物は虚偽に満ち溢れている、過去の各種の様式を、その意味も顧みずに皮相的に寄せ集め貼り付けた建物が横行している、として批判した。
 もしも彼が今の姿を見たら何と言うだろうか。19世紀末には、まだ過去(の様式)との何らかの脈絡はあった。しかし、今は、何の脈絡もなく、支離滅裂。

 19世紀末に生まれ、20世紀初頭に生涯を閉じたオーストリアの詩人リルケに、次のような詩がある。彼もまた、世紀末の世の様相に批判的だった。

  ・・・・・
  今の世では、嘗てなかったほどに
  物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
  それは
  それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな
  用具に過ぎぬからだ。
  拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
  内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
  おのづから忽ち飛散するだろう。
  鎚と鎚とのあひだに
  われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
  歯と歯とのあひだに
  依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
  ・・・・・・
                    「第九の悲歌」より
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実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか

2006-12-14 11:09:53 | 専門家のありよう

先に、明治の建物づくりにかかわる「実業家」にとっては、「何をつくるか」は自明であった、と書いた。
しかし、明治になって新たに誕生した「建築家」にとっては、「何をつくるか」が最大の問題であった(あるいは、今でもそうなのかもしれない)。

「アーキテクチュールの本義は・・実体を建造物に藉り意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と説いた伊東忠太の主導する教育の場面では(12月5日紹介)、立面図を先ず作成、その立面の建物はいかなる用途に供すべきか、という《設計》演習が行われていた(平面図は存在しない!)。実際にその《演習成果物:図面》を見たときは、さすがに絶句した記憶がある。図面自体は実に見事ではあったが・・・。

けれども、最近都会に建つ建物を見ていると、それが真美であるかどうかはさておき、《実体を建造物に藉り、巨大造形あそびをしている》ようで、「建築家」の世界には、この間、何ら進展がなかったのでは・・とさえ思う(ただし、成果物は、かつての学生の方が上出来!)。

第二次大戦後、困窮下の日本で、建築界は二つの大きな派に分かれ、論争が華やかに行われていた頃があった。1950年代のことである。その論争各派のいわば代表が、西山卯三氏と丹下健三氏である。

西山卯三氏の論は、「国民住居論攷」の延長上で論じられたもので、その趣旨は上掲の図式でまとめられよう。それは、先ず「生活(の型)を決める」「用を考える」ことから始まる、という論と言ってよい。同書は1944年:昭和19年という戦争末期の刊行ではあるが、その後の「建築計画学」研究のバイブルとなり、そして51C型(1951年:昭和26年:公営住宅標準設計)に始まるいわゆる〇DKという呼称で知られる戦後の公営住宅標準設計の基礎となった書である(住宅を〇DK、〇LDKなどとして表す方式は、今もって健在である!)。

一方、丹下健三氏は数々の建物をつくるかたわら、「建築計画学」の研究、そしてそれに基づく建物づくり(上掲の図式の過程を追う設計法)を「調査主義・・」として批判し、「・・機能と表現の統一の過程が建築の創造そのものである。その統一を可能にする為には、現実の認識に於いて、その土台と上部を、その展開しつつある全体像に於いて捉えることを必要としている。現実の認識とは、現実の現象のありのままの反映ではなく、獲得しつつある現実の反映である。・・」と書いている(「新建築」誌 1956年6月号。なお、「新建築」誌をはじめ当時の建築系雑誌では、この前後、いろいろな論が毎号を賑わしていた。今の建築ジャーナリズムからは考えられない)。

この丹下氏の一文は、はたして書いている本人も理解しているのかどうか疑わしい文意不明な言い回しの連続だが、要するに「かたちをイメージすること」の内に、すでに「(獲得しつつある)現実の認識」がある、つまり、先ず「かたちのイメージ」「形の考察」から始める、ということだろう。

ただ、はっきり言えることは、両者の見解には大きな隔たりはあるものの、その底に共通して、建物づくりにかかわる人としての「倫理観」があった、ということである。それは、困窮下の社会状況に在る者として、当然のことだったのだろう。
その点では、最近の「建築家」の「かたち論」は、もはや、両氏と通底するところはまったくない(もはや、戦後ではない!?)。「実体を建造物に藉り、自らの造形センス(?)を発揮する」のが建物づくりと思い込み、ベルラーヘの言い方で言えば(12月8日紹介)、「まがいもの、借り物(模倣)、無意味な(虚偽の)」建物ばかりになっているように私には思える(反対の極に、これと呼応しつつ「実体を建造物に藉り、金儲けに徹する」人たちがいる)。

西山・丹下論争、つまり「用か美」か、「用か形」かという論争は、私には、「卵が先か、鶏が先か」という不毛な論争に思えた。かと言って、その論争の上を行く、その両論を論破するだけの力は、当時の私にはなかった。

論破する論の構築のきっかけになったのは、いくつかの書物。そして得たのは、簡単に言えば、根本は「ものの見かた」にあるということ。世にはびこっていた「いわゆる科学的方法」を見直す必要があるということだった。
先に紹介したハイゼンベルクや、ハイデッガー、サンテグジュペリの書も、見直しのためのきっかけになった書の一つ。

今日は、もう一つ、別の書物から、わが意を得た一文を、少し長いが紹介させていただく。
  ・・・・
  我々はすべていずれかの土地に住んでいる。
  従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を『取り巻いて』いる。
  この事実は常識的にきわめて確実である。
  そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、
  ひいてはそれの『我々』に及ぼす影響をも問題とする。
  ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、・・・・
  それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。
  しかし我々にとって問題となるのは、
  日常直接の事実としての風土が、はたしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。
  自然科学がそれらをそのまま自然現象として取り扱うことは、それぞれの立場において当然のことであるが、
  しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。
  ・・・・
  風土の現象において最もしばしば行われている誤解は、
  自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、
  それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、
  単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。
  ・・・・                      (和辻哲郎『風土』:岩波書店刊 「風土の現象」より)

対象を分解し分析することをもって「科学的方法論」と見なす考え方をくつがえすにはこれで十分。
生活と空間、生活と環境、自然と人間・・こういった二項対立的発想法・考察法は、こと人のかかわる問題には本質的に不向きなのである。

しかし、大方は、依然として「用」か「形」のどちらかだけで建物づくりを考える。「用」なるものを重視すれば11月23日の「道」で紹介した「迷子を誘発する病院」になり、「形」なるものを重視すれば、最近の都会のビル群となる。

いったい、建物づくりとは、何をつくることなのだ?

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