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生きること:過去と未来とエスペラントと

隆の勝関に恨みはないが!

2020-07-26 20:15:45 | rememoro: 思い出
 隆の勝関に恨みはないのですが、彼の顔をみると子どもの頃の嫌なと言うか悔しい思い出がよみがえて来るのです。

 たぶん昭和21年(1946年)だったと思います。おもちゃなど売っていない時代でした。そのうえ山村に父が転勤したので学校近くに数軒の食料品を兼ねて学用品を売っている店があるだけでした。家にはマリーちゃんいう名の布製の人形がありました。背丈が40~50センチぐらいでした。長姉が子どもの頃東京で買ってもらったものでした。私と2歳上の姉はそれを共同で使っていました。腕の布が擦り切れて詰め物の木くずがはみ出して・・・。母は私たちにそれぞれ人形を縫ってくれました。着物ももちろんです。髪の毛は古い毛糸だったと思います。問題は顔です。

 長姉は絵と言うか良く漫画などを書いていました。顔は姉が書くことにことになっていました。姉は弟妹の面倒をよく見てくれました。でも、彼女の命令に従わないとあなたには~はしてやらないというのが常でした。何かしてくれる時もちゃんということを聞きなさいよと常に念を押していました。多分何が原因か忘れましたが、S子の人形の顔を書くが、G子のは書かないと姉が言い、私に人形の顔書いてくれませんでした。父はよしよし私が書いてやろうと硯を持ちだし、一気に力強く眉と目を書きました。その力強い眉や目を見て兄たち姉たちはまるで国定忠治と笑いました。マリーちゃんのかわいい顔を考えていた私は厳つい顔の人形の顔に声をあげて泣きました。
  翌日、その顔の上に母が布を縫い付けて、姉が顔を書き直しましたが、私は嬉しくありませんでしたし、古い父の書いた顔を思いだして人形で遊ぶ気にはなりませんでした。
 なんと隆の勝関の眉や目がその人形にそっくりで、姉のことを思い出すのです。

 姉は4月7日亡くなりました。姉は私のことを可愛がって育てたと自負していました。確かに季節が替わると町へ行き、自分お小遣いで生地を買い、ブラウス・ワンピース・ズボンなど縫ってくれました。大学になると貧乏な私に働くようになったら返せと毎月お金を貸してくれました。それでも私は子どもの頃味あった悔しいことを沢山思いだすのです。
 例えば冬。雪で滑り台を作りました。夕方、水をかけておくと夜凍って天気が良くても解けません。その上からそりで滑って遊べます。その水を汲んでくる仕事は私でした。次姉は体が弱くて水汲みはできない、弟は小さいからできない。そして私には水を汲んでこなかったらそり遊びはさせない。遊びたかった水を汲んできなさい。
 隆の勝関を見ていたら次から次へと姉とのやり取りをおもいだして・・・。

 隆の勝関に恨みはないのです。まあ、頑張ってください。
コメント (4)
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