唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
続・白棚線
昨日、白棚線のことを書いたが、昭和30年代に父母に連れられて「白棚高速線」で私が父の実家に帰省していただけではなく、実は父が旧制中学時代に鉄道であった時代の白棚線を使って東舘から白河まで通学していたのである。そのことが、父が書き遺した「心の記念碑-七十年の軌跡」に書かれている。要所を書き出してみるとこんな感じである。※(括弧書きは郷秋<Gauche>が付した)
「福島県立(旧制)白河中学に入学してから私は汽車通学を始めました。東舘からの汽車通学は私一人。当時は現在のように時刻表がしばしば変わることはなかったので、今でも覚えているのですが、(水郡線の)常陸大子発下り一番列車が(東舘)午前五時四十六分発でした。夏冬通して一番列車は私一人だけでした。
棚倉まで三十分、そこで白棚線に乗り換え、白河中学の近くの登町駅まで約一時間かかりましたが、帰りは乗り換えの待ち時間があるので、往復約四時間近くかかりました。一番列車にいつも一人で乗車する私を、乗務の車掌さんが覚えてくれて、冬季は常陸大子からの約三十分で、車内の“だるまストーブ”が真っ赤になるほど焚いて、サービスしてくれていました。冷たい弁当をその上に載せておくと、棚倉駅に着く頃にはほかほかになるのでした。それを懐炉代わりに腹に抱えて白棚線に乗り換えるのがいつものことでした。」
毎日五時起き、往復四時間汽車通学が余程辛かったのか、一年程の汽車通学の後に父は無理を云って、白河での下宿生活を始めたようです。「当時の下宿料は大概月25円、汽車の通学定期券は一年四十六円であった」との記述もあります。この下宿料は、実は当時裕福であった親戚からの借金で賄われ「那須屋は借金してまで息子を学校に行かせて何様にするつもりだ」と陰口を叩かれもしたのだとは、後に父から直接聞いた話である。
今日もまた、取り留めもないことを書き連ねてしまいました。そんな訳で今日の一枚は「心の記念碑」で往復四時間の辛い汽車通学時代のことが書かれている辺り。今よりもはるかにちゃんとした写真が残っているのが素晴らしい。
「恩田の森Now」 http://blog.goo.ne.jp/ondanomori に、ただいまは 9月24日に撮影した写真を5点掲載いたしております。稲刈りの時を迎えた森の様子をどうぞご覧ください。
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