今日の神奈川新聞の記事より

 今日の神奈川新聞21面の囲み記事「デスクノート」にこんなことが書かれていた。

 「プライベートでも携帯電話を向けられる選手たち。」

 意味するところが解らず暫らく考えてようやく「携帯電話の『カメラを』向けられる」なのだろうと理解できたのだが、果たして当たっているだろうか。もしそうなら、携帯電話ではなく、「カメラを向けられる」と書くべきだと思う。神奈川新聞運動部所属の筆者に「携帯電話=カメラ」と云う思い込みがあるのだとしたら、その思い込みはリセットしていただかなければなるまい。勝手な思い込みで書かれた記事は自己満足に満ち、時に「とんちんかん」なものになるのは自明なのだから。

 と書いて、郷秋<Gauche>が書いていることの状況がまったく判らんぞと云われるだろうなと思ったがそもそも270文字程の記事が、結論としてはソチでの冬期オリンピックに関連した某元首相の一連の発言を念頭に「6年後の東京五輪。不安が頭をもたげる。」と云うものであるようなのだが、結論への道筋と云うのか論拠と云うのか、その過程が良く理解できないのだ。

 さて、この270文字の中で「この国はスポーツ選手へのリスペクト(敬意)が足りない。」と云う横浜Mの岡田武史元監督の言葉が紹介されており、この言葉を紹介した後に、先の「プライベートでも」が続いているのだが、郷秋<Gauche>的には岡田氏の発言の中の「リスペクト」も「この国は」も大いに気になるところである。何故「敬意」と云えないのか。この国とはどの国なのか、どうして「我が国」あるいは堂々と「日本では」と云えないのか。

 そもそも「スポーツ選手へのリスペクト(敬意)が足りない。」という言葉そのものが疑問だ。敬意とは、強制されるものではなく、自然とわきいずる気持ちであるはずだ。勿論、時に聞こえて来るスポーツ選手の言動に頭の下がる思いをいだくこともあるが、もし岡田氏が云うように 「足りない」とのだとするならば、頭の下がる思いをいだかせる程の選手が少ないと云う事なのではないか。

 選手以前に、指導者による指導の名の下に行われる暴力行為、指導者としての立場を悪用した犯罪行為を根絶しなければ、「この国にスポーツ選手へのリスペクト(敬意)が満ち溢れる」ことはないだろと郷秋<Gauche>は思う。「敬意が足らん」と云われても困るのだ。

注:「リスペクト」の後の括弧書きの「敬意」は件の記事に書かれたままであり、筆者が付したものと思われる。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、春の花、梅と椿の共演。

「恩田の森Now」
 本日撮影した写真を4点掲載いたしました。小雨にけむる森の様子をどうぞご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ondanomori/

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