キャンパスが別でも小中一貫校?

 数日前、神奈川新聞が、慶応義塾の「小中高一貫校」が、郷秋の地元、横浜市青葉区に、2013年に「ようやく」開校することを報じていた。「ようやく」と書いたのには訳がある。当初の計画ならば、とっくに開学しているはずであったのだが、堅実でなければならないと云う学校法人の資産運用の暗黙の内の掟を破り、慶応義塾はハイリターンではあってもハイリスクな金融商品に手を出していたのである。

 

「上手く行けば」ハイリターンであったはずの皮算用は、リーマンショックによって見事に当てが外れ、慶応義塾は100億円を超す損失を計上することになる。このために「一貫校」開学の当初の予定は大幅に遅れ、「ようやく」2013年に開学となる次第なのである(神奈川新聞には「世界的な金融危機の影響を受けて」とサラリと書いてあるが、実は上述のような、資金運用の失敗が原因なのである)。

 

しかしだ、一貫校と云いながら、「中高」は電車とバスを乗り継いで(最短でも)1時間程かかる、湘南藤沢中・高等部(藤沢市遠藤)に通うのだと云う。こう云うのを一貫校と云うのかと郷秋は首をひねったぞ。だってそうだろう。子どもの発達段階に応じて、連続的な教育が出来てこその一貫教育じゃないのか。6-3-3と云う区切りが子どものためにホントに容易のかどうかは判らないけれど、小学校を卒業したら途端に環境変わるのではなく、例えば同じ校舎で、小6の時に教わった先生が中1になっても引き続き教えてくれるとか。

 

注:現行の教員免許制度では、中・高の免許を同時に取ることは容易ではあっても、小学校と中学校(の、ある教科)の免許を同時に取ることは困難で、また、取ることのできる大学は限られる。その意味でも小中一貫は運営が難しいはずなのである。

 

 もう一つ、小中一貫の大きなメリットとして考えらえるのは、中学生が同じキャンパスで生活する弟分である小学生の面倒をみて、また小学生が兄貴分の中学生を見て育つと云う、歳の違いと発達段階の違いを互いに認め合い相互に良い影響を与え合いながら育っていく良さではないのか。それを考えるとキャンパスが別の小中一貫など何の意味も無いように、郷秋には思える。

 

 小中高一貫教育も、知育(学習)面だけを考えれば、より偏差値の高い大学により多くの卒業生を送り出すことが可能になることだろう。そう云う所にポイントを置いて考えれば確かに意味があるかも知れないが、道徳や情緒、あるいは自分一人の意志ではどうにもならない、人との関わりとか、自分の力でどうしようもない、人ではない何者かによる大きな働き(ある人は「運命」と云うかも知れないし、ある人は「神の技」と云うかも知れない)に気づくこと、見た目だけではなく、真に美しいものを見極める力など、人間性の面で成長することができる教育であるかどうかも、一貫教育を考える際の大きなポイントであっても良いはずである。むしろ、知育偏重の弊害が叫ばれて久しい今、人間性、その内面の成長こそが学校教育の大きなポイント、視点として語られえるべきだろうと、郷秋は思うぞ。

 

 勿論、日本の教育界における最強のブランドである「慶応義塾」が開設する一貫校であるから、知育の面で優秀な多くの受験者児と、その中から選抜された超優秀な入学生を得ることが出来るであろうことに疑いの余地ははいが、これまで論じたような視点に立って教育や学校を考えた時、相互の連絡に一時間以上かかるキャンパスにおいて、価値の中心に人間教育を据えた、真の意味での一貫教育が成り立ちえるのかどうか、郷秋は大いに疑問である。

 

 

 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、小笠原・父島において、西洋人と日本人の血が交じり合っただけではなく、その文化・宗教も交じり合ったであろうことを示す墓標。キリスト教と仏教の様式が見事にミックスされていて、実に興味深い。

 

 墓標に記された二人の内、右側のHorace Perry Savory(ホレース・ペリー・セーヴォリー)は、ハワイから父島に最初に移住した欧米系住民(アメリカ人)の一人であるNathaniel Savory(ナサニエル・セーヴォリー)の息子と思われる。左側のElisa Savory(エリサ・セーヴォリー)はナサニエルの妻だろうか。

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