「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野七観音二番松崎観音

2006-10-07 23:00:15 | 観音
前回の家紋について、笹竜胆は清和源氏たる源頼朝を意味するのかもしれない。違鷹羽は以前からの統治者=安倍一族と思いたい。
さて二番松崎観音麦沢山松崎寺。本尊十一面観音立像、松崎町。寛政13年(1801)の「来由」額によると、大同2年(807)の草創、上記観音は懸仏(かけほとけ)であったという。その後、山谷観音同様の慈覚大師による十一面観音の話が出てくる。現存する観音様は慶長11年(1606)の作。{同時期に青笹喜清院、曹源寺が常堅寺三世雪翁恕積により開基}その後、元禄元年(1688)野火により全焼。{同年遠野二代南部義長逝去48歳(室は北古九兵衛の娘)}。現在の観音堂は享保3年(1728)の再建{享保年中の出来事:小友や上郷に次々と金山が開かれている。両川覚兵衛、愛宕神社境内に延命菩薩建立(明治に常福寺に移される)。両川覚兵衛、大慈寺に釈迦如来座像寄進。幕府が目安箱設置。青笹踊り嘉兵ヱ没。覚助が京都でしし踊りを見る}
遠野が空前のゴールドラッシュの時期に再建されたことになる。それにしても、再建前にやはり野火!何かありそう?

遠野七観音一番山谷観音其の弐

2006-10-07 00:13:20 | 観音
山谷観音堂は昨日、文和3年に再興と記したが、後、応永9年(1402)比丘良賢、再興{利義満将軍後時勢}。文禄2年(1593)遠野領主藤原広里時、本願に西光坊、棟上の檀那は新野筑前、別当無安坊{秀吉公の御代}。寛永3年(1626)、遠野城主源直義公御舎弟新田弥市郎義実再興、別当丹波長子弥助{寛永元年日光陽明門完成、寛永2年銘の鰐口が会下家にあった(源直義、尾藤神社に奉納)同年綾織長松寺開基、翌寛永3年越中菊池武勝、前田に恭順せず東北の南部家に仕官}。元禄3年(1690)将軍綱吉公御時世、遠野城主源義論公、別当高橋弥左衛門、郷中奉加を以て再興。翌年炎上。元禄12年(1699)郷中志を合せ再建。これが現在のお堂である。そこで今日のこだわり。画像では見えにくいが腰屋根正面に笹紋、他3面に違い鷹羽紋が入っている。笹紋は誰の紋か?違い鷹羽は誰?新野=菊池か?高橋=違い鷹羽か?安部=違い鷹羽か?今回のツアーで最も興味深い発見である。