昨日、八戸のしし踊りについて記したが、その八戸藩勘定所日記の文には寛永二年(1749)七月十四日「一 来ル十九日 法霊御神事ニ付長者山ニ松太夫志しをどり仕度願之通就被仰付候場所之儀御代官所迄願出寺脇窮之通被仰付甚旨大見藤左衛門江長助源太夫申達ス」とあり、長者山でしし踊りをしたいと、藩の芸能の頭である松太夫から願いがあり、場所も山寺脇でやりたいということの意。「八戸の郷土芸能」なる本によると、明治30年頃にはすでに廃れており、その百年ぐらい前までは踊っていたと古老は話していたとか。100年前とは寛政年間頃で、菅江真澄が岩手や青森を回っていた頃でもあり、田植え踊りや「えぶりすり」を見たと書いた時期にも重なる。天明の飢饉の後でやっと世の中が落ち着いてきた時期でもある。八戸にあったというしし踊りは三沢市内にもあるというが、どのタイプのものか知りたいものだ。幕踊系だろうか? その日記で、もうひとつ気になるのが「松太夫」である。八戸典屋頭松太夫その人である。つづく。