山崎観音(栃内観音 大月山栃内寺) 本尊馬頭観音座像
「大槻や いま辺の河に流れにも 極楽へ行く 誓いなるらん」
他の観音堂と同様に寛政13年(1801)松田理右衛門らの由緒額には他と同様に大同2年の創建、慈覚大師作の観音の一尊であると記されている。しかし、遠野古事記にはその後、本尊はいつ、どこに紛失したか不明で、御堂の跡形もなく、ここと思える場所に、元禄14年(1701)に百姓達が御堂を再建とある。確かなところでは、御堂を再建したとされる19年後の享保5年(1720)に廻国の仏師の勧めで現存する座像を安置したこと。享保14年(1729)銘の御堂の棟札があること。安永2年(1773)にもうひとつの馬頭観音座像を安置したこと。寛政12年(1800)に現在の御堂が建てられ、文化14年(1817)、弘化3年(1846)に修復されたこと。
これを眺めると、由緒額は現在の御堂の再建直に奉納されており、建物も他と異なり、短期間に完成させなければならなかったかのような構造様式である。遠野七観音に加えようとしたことが意図的であったように感じてならない。
「大槻や いま辺の河に流れにも 極楽へ行く 誓いなるらん」
他の観音堂と同様に寛政13年(1801)松田理右衛門らの由緒額には他と同様に大同2年の創建、慈覚大師作の観音の一尊であると記されている。しかし、遠野古事記にはその後、本尊はいつ、どこに紛失したか不明で、御堂の跡形もなく、ここと思える場所に、元禄14年(1701)に百姓達が御堂を再建とある。確かなところでは、御堂を再建したとされる19年後の享保5年(1720)に廻国の仏師の勧めで現存する座像を安置したこと。享保14年(1729)銘の御堂の棟札があること。安永2年(1773)にもうひとつの馬頭観音座像を安置したこと。寛政12年(1800)に現在の御堂が建てられ、文化14年(1817)、弘化3年(1846)に修復されたこと。
これを眺めると、由緒額は現在の御堂の再建直に奉納されており、建物も他と異なり、短期間に完成させなければならなかったかのような構造様式である。遠野七観音に加えようとしたことが意図的であったように感じてならない。