「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

鞍迫観音其の弐

2006-10-16 23:33:16 | 観音
万治2年(1659)に全焼した本堂{現在地より綾織側へ2km行った所にあった)が寛文10年(1670)再建されたと前々回記したが、この絵馬は寛文6年(1666)に菊地宋○(読めない)が奉納したものだ。再建は鱒沢一郷のみでは成し難く、綾織郷からも寄付を仰ぎ、武家24人と村長百姓81人が寄付した。その願主は遠野旧事記にも出てくる「愛宕のはね橋」で有名な宇夫方長右衛門である。またこの絵馬奉納の年に下組町の枡形が作られている。ここ鱒沢は鱒沢広勝が納めていた地域で、この観音堂の別当である千葉博氏の敷地内には鱒沢氏の墓があるという。
「今日の?」:阿曾沼氏を失脚させた鱒沢氏の領地であったこの地域の、特にこの観音堂を囲むように「宇夫」姓(もとは「宇夫方」姓といわれる)が多く住んでいる。綾織に居た宇夫方氏は後に鱒沢氏の本拠地を拝領したのか?寛文10年再建の折、鱒沢氏本拠地より西へ移したのは、同僚だった宇夫方氏の配慮か?なぜ全焼したかは記録にない(野火とも記述されていない)なぜなんだろう?絵馬奉納の「菊池」ではない「菊地」とは何者?