「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野七観音五番宮守観音

2006-10-17 22:52:16 | 郷土芸能
五番宮守観音(月見山平沢寺)当初の本尊は十一面観音立像
「平沢や 月見ん里の観世音 法の蓮(はちす)はいつも絶せじ」
草創は大同2年(807)、嘉祥4年(851)他と同様に慈覚大師による観音の話が伝わる。いつの頃か不明だが、火災により本堂焼失。本尊は火災にあわなかったが、難を逃れるため、山中に埋めたが、発見できなくなった。現在の本尊は後世のもの。建物は、江戸後期のもので、額等の最古の資料は嘉永6年(1853)。明治に愛宕神社と併合(前記の鞍迫観音は白山神社)。現在の本尊は、千手観音立像。鞍迫には絵馬が200枚余りも現存するが、こちらは、文政13年(1830)の由来書が唯一の資料となる。ただ、他との相違点は、本堂内部に神輿が2基奉納されていること。この由来書の施主講中22人の内、15人が菊池姓、5人が照井姓、他浅沼、菅原。住宅地図を見ると確かに菊池・照井姓の多い地域である。さて、文政13年は九代南部義尭逝去36歳。この文政13年は天保元年でもあり、後の天保年間は飢饉の時代でもある。張山しし踊りの安居台の角助が藩主の命にて遠州にて踊を習得したり、暮坪田植踊り・来内田植踊が始まるのも天保年間である。多くの郷土芸能は、飢饉の中、故郷を離れ、芸を売って歩いたことで、それぞれの地域に根付いたのではないかと考える。