「細山や 野もひらくらの観世音 かけてぞ頼む のりの此道」概要は10月2日付参照。建物として遠野七観音中、一番の出来だと思う。江戸中期の作。軒裏には三重の繁垂木、組物は出組。当初は二重垂木で茅葺きだったがS53年に銅板葺きにする際、茅の厚みを補うために三重にしたとのこと。宝暦10年(1760)の棟札によると大工は一日市町の源之亟、他裏町から一人、大工丁から三人 壇主福田作兵衛。
この町中から選ばれた大工は八戸から南部氏とともに来た大工:鶴田・細越氏縁の方々であろう。この宝暦10年の2年前までは3年続きの大飢饉でやっと飢饉を脱し、再建されたもの。その飢饉では土淵の人口の1/4が亡くなったと言われる。これから2年後に宇夫方広隆が遠野旧事記を書くことになる。この宝暦年間は八戸沖で地震活動が活発でもあり、大洪水など天変地異の時代故に神仏の加護を求めたように思う。
この町中から選ばれた大工は八戸から南部氏とともに来た大工:鶴田・細越氏縁の方々であろう。この宝暦10年の2年前までは3年続きの大飢饉でやっと飢饉を脱し、再建されたもの。その飢饉では土淵の人口の1/4が亡くなったと言われる。これから2年後に宇夫方広隆が遠野旧事記を書くことになる。この宝暦年間は八戸沖で地震活動が活発でもあり、大洪水など天変地異の時代故に神仏の加護を求めたように思う。